【第二部完結】光輪のダブルギア

千 楓

神に選ばれし子どもたち

第1話 地下都市に生きる少年たち

 錆と埃混じりの風が、ビルの隙間を吹き抜けていく。

 季節は五月の頭だというのに、頭上の太陽は無言で責めるように照りつけた。古びた街並みを行き交う車は一つもなく、ひび割れたアスファルトを痩せた野良犬が自由な軌道で走っていくばかり。

 しかし、よくよく目を凝らせば、建物の陰に潜む人影に気づくだろう。

 その背の高い少年は、傷だらけのヘルメットをかぶり、灰色の作業着に身を包んでいた。左手に握られた和弓という原始的な武器は、周囲に並ぶ近代的なデザインのビル群とちぐはぐな印象を受ける。かつて県庁前の大通りとして栄えた街並みに、少年以外の人影はない。

 細い顎に真っ白な肌、細い首、切れ長の一重の奥から覗く色素の薄い瞳――遠目には、背の高い少女と勘違いする者もいるかもしれない。しかし性別が曖昧な外見は、人類が地下へ逃れた後に生まれた世代において、そう珍しいものではない。

 少年は、厚く埃の積もった文房具店の影に隠れると、前傾姿勢で周囲を窺った。周りに物音はしない。ヘルメットの鍔に指をかけ、内蔵された小型通信機へ囁くように話しかけた。


「リーダー、応答願います。リーダー」


 何の反応もない。悪い予感が頭に浮かびかける。それを追い払おうと、ぎゅっと目をつぶり、首を振る。

 数秒が経過し、それでも応答の声がないことを確認すると、少年は手にした和弓を握り直した。ビルの影から出るときが、一番危険だ。慎重に周囲を警戒し、古ビルの一階部分に階段を見つけた途端、全速力で走り出す。


 半壊した建物へ飛び込み、一気に五階まで駆け上がる。

 屋上へ出ると、先輩たちが作った観測所代わりのテントが目に入った。速やかに潜り込み、用具箱から組み立て式の望遠鏡を取り出す。慣れた手つきでそれを設置し、地図と照らし合わせながら周辺を見渡した。

 補修されることのない荒れたアスファルト。街路樹は好き勝手に枝を伸ばし、通りを行き交う人や動いている車は一つもない。しかし、少年はそれら文明の残骸に目を留めようとはしなかった。緊張した面持ちで動く物体を探し、どうやらそれ・・がいないと知ると、深いため息を吐く。

 通信機のインカムへ、小声で囁きかける。


「こちら佐東さとうしゅう。C5地点、問題なし――どうぞ」


 柊、と名乗った少年は、報告を終えると天を仰いだ。

 青く澄んだ空を自由に飛び交う無数の鳥たち。地上から人影が消えたあと、街は動植物たちの楽園と化した。あの白い鳥は何という名だろう――そんなことを考えながら返答を待つ。

 だが、反応はない。不自然な静けさに、胸騒ぎが抑えきれなくなっていく。


「……おかしい。もう一時間以上、何の返答もないなんて」


 かといって、任務を途中で放棄するわけにはいかない。あるいは、の襲撃を受け、リーダーは応答できない状態にあるのだろうか――。

 嫌な予感を払拭しようと、屋上に張り巡らされたフェンスへ近づいた。

 破れたフェンスの隙間から支給品の双眼鏡を突き出し、下界を見おろす。自分が来た方角へレンズを向けたところで、手が震えた。

 視線の先には、巨大な山犬に似た化け物。

 化け物と隣のビルを比べると、二階の天井部分まであった。体高五メートル前後、といったところだろうか。白いはずの体毛は、口の周囲だけ赤く染まっている。ジープでもなんでも一飲みできそうな大きな口、辺りを見渡す血走った眼球。歩く度に、ずしん、ずしん、と腹に響く音が聞こえてくる。

 奴が通ってきた道には、大きな爪で抉られた跡が点々と残されていた。雨風に晒されて脆くなっているとはいえ、ただ歩くだけでコンクリートが削られている。人間の体など、魚肉ソーセージのように簡単に千切られてしまうだろう。


「あ、あれが【D】ダウンローダー……」


 17年前、突如現れた敵性知的生命体――通称【D】と呼ばれる巨大生物たち。奴らは圧倒的なまでの暴力で、人間社会を破壊し尽くした。

【D】とは、“人外の存在から神降ろしダウンロードされたもの”の略称(ダウンロードのD)だ。

 奴らは、既存の生物や空想上の神獣によく似た姿をしている。神話や伝説で語られる内容がどうであれ、奴らは狩りを楽しむように人を襲い、食料とする。どの国も軍隊を派遣し、徹底抗戦した。しかし巨大な化け物に、人類の武器はほぼ意味をなさなかった――。

 そんな恐ろしい化け物が、すぐ真下の道を歩いている。ビル風に交じり、低い唸り声まで聞こえてきた。

【D】は、真っ赤に輝く大きな瞳で獲物を探しているようだった。口もとの汚れは、血や肉の脂だろうか。柊と同じ自警団員に、犠牲者が出てしまったのだろう。

 柊は、山犬に似た巨大生物が現れた方角へ再び双眼鏡を向けた。その先にあるはずの大きなターミナル駅は、遠すぎて見えない。その駅の地下には巨大な地下都市が建設されている。柊は、そのシェルターで生まれ育った。


 日本が初めて【D】の襲撃を受けたあと、内閣総理大臣は、高度経済成長期の時代から、旧地下鉄網を再利用した地下シェルターを秘密裏に建設していたことを発表した。

 その後、本州及び北海道・四国・九州は、沖縄を含むすべての島と地上を放棄し、日本人は太陽の登らぬ地下都市へと逃げ延びた。その地下シェルター周辺の警備に当たるのが、柊も所属する灰色の作業着姿の自警団だ。


 あらゆる法律が改訂され、運動能力に長けた若者は強制的に自警団へ入らされた。

【D】は、二十八日周期で現れる。そのため、【D】の出現予定日になると、自警団員たちはヘルメットをかぶっただけの軽装で索敵させられた。

 どうせ、人類の武器では歯が立たないのだ。重装備させる意味がない。慢性的な物質不足の最中、人間の命は無人航空機ドローン一台よりも軽かった。

 柊は、ヘルメットに内蔵された小型通信機へ必死に語りかける。


「リーダー、【D】の襲撃ですか? 応答してください、リーダー!」

『…………か? 佐東、おまえ生きてたのか』


 ここにきて、ようやく聞きなれた声がした。

 安堵のため息をいていると、望遠鏡の狭い視界の中で一匹の野良犬が立ち止まった。道の先で低く唸る悍ましい化け物に気づいたのだろう。野良犬は、必死の形相で走り出す。

 しかし、それは数秒のことだった。呆気なく獲物に追いつく化け物。あの巨体に似つかわしくないほど俊敏な動きだ。

 大型バイクほどもある前足が、逃げる野良犬の背中を撫でる。その途端、噴き出す鮮血と迸る悲鳴。内臓を貪り鮮血を啜る化け物――地獄のような光景に、柊は後ずさりしようとして屋上の床へ転がった。


「リ、リーダー、【D】が、山犬型の奴が、C5地点に!」

『そうか』

「じゃなくて! 早くダブルギアへ救援要請を!!」


 ダブルギア――この世で唯一、【D】に対抗できる特殊部隊の名だ。

 神の力を神降ろしダウンロードされた【D】には、同じように、人類へ味方する神の力を神降ろしダウンロードされた子どもたちにしか倒せない。

 その程度の情報しか公開されていないが、事実として十七年間、日本は彼らに守られている。

 しかし、通信機越しに聞こえてくる笑い声が柊の言葉を遮った。


『救援要請なら、1時間前に・・・・・送ったぞ』

「…………は?」


 そんなはずはない。何百回と、仕事の手順は確認している。

【D】を発見した自警団員は、通信機で報告する。それを受けたシェルターは、ダブルギアの基地へ通報。ダブルギアが現地へ到着するまでに、自警団員たちは撤収する決まりだ。

 その全ての手順が、1時間前に終わっている?

 だとすれば、シェルターから何キロも離れた廃墟ビルが立ち並ぶなか、柊は独りきりだ。しかも【D】がすぐ真下をうろついている状態で。


「じゃあ、シェルターの強化シャッターは……」

『とっくに閉じられたっつーの。大事な撤収命令を聞き逃したなんて、とんだヘマしやがったなぁ』

「…………まさか、俺の通信を切ってたのか」


 蔑むような笑い声が、通信機越しに響く。その背後で複数の笑い声が重なった。

 ややあって、重苦しいため息の後、リーダーの低い声がした。


『おまえみたいに優秀な奴なら、独りでも生きていけるだろうよ。せいぜい、ダブルギアが来るまで、必死こいて逃げ回ってみろや』


 その言葉を最後に、通信はぷつりと切られた。

 呆然と覗いていた双眼鏡の狭い視界の中、【D】は再び巨体を揺すりながら歩き始める。この廃墟の街は自分のものだ、とでもいうかのように。

 このままここに留まるべきか、それとも立ち去るべきか――。

 コンクリートの腐食が進むビルの屋上を見渡す。17年前、人々が地下へ退避して以来、何の補修もされず雨ざらしにされてきた。万が一【D】に見つかったとき、あの巨体でタックルされたらひとたまりもない。

 それに、リーダーは1時間前に救援要請を出した、と言っていた。だとすると、そろそろダブルギアが到着してもおかしくない。

 ここで戦闘が始まれば結果は同じだ。【D】に見つかろうと、そうでなかろうと、ビルの倒壊に巻き込まれる可能性が高い。

 瓦礫の山に埋もれて死ぬか。

 それとも、運を天命に任せ、ここからそっと離れるか。

 強く目を閉じ、柊は胸の中で問いかけた。

(ど、どうしよう、どうしたらいい? お、俺はここにいたほうがいいのか、それとも逃げたほうが助かる可能性は高いのか)

 その問いかけに応える声はない。

 荒くなる呼吸音を抑えようと、弓を持っていないほうの手で口もとを覆う。しかしその直後、頭を掻き毟っていた。

(ああああっ くそ! ここにいてもダメだ。自警団だけでなく自衛隊まで完全撤収を義務付けられてるのだって、【D】とダブルギアの戦闘に巻き込まれないためなんだから)

 階段を下りて、【D】とは逆方向へ逃げろ。やるべきことを自分に言い聞かせ、必死に立ち上がろうとする。でも、手足に力が入らない。恐怖に震える手足で這いずるように、どうにか屋上の扉の前へ辿り着く。屋内へ転がり込んだあと、崩れかけた階段を駆け下りる時間が、途方もなく長く感じられた。

 瓦礫に弓が当たり、小さな音を立てる。


「――っ」


 カツン、という小さな音に、心臓が破裂しそうになった。

(こんな弓が化け物に通用するはずないだろ!)

 通りに面した鉄製の扉を前に、頭に叩き込んだ地図と【D】が歩いて行った方角を照らし合わせる。どうせシェルターへ辿り着いても、戦闘が終わるまでは入れてもらえない。一縷の望みをかけて、別の方角を目指したほうがいい。

 心臓が耳の奥で鳴っている。内臓を全て吐きだしてしまいたくなるほどの緊張のなか、歯を食いしばり、扉をそっと開く。

(足音は遠ざかっていってる。だ、大丈夫……たぶん気づかれてない、はず)

 息を殺し、遮るもののない道路を静かに渡る。焼けつくような日差しに照らし出され、でこぼこに荒れたアスファルトを小走りで進む。ビルとビルの隙間に身体を滑り込ませると、涙が滲んだ。

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