第110話 ベンチ越しの抱擁
今、地下施設を回っているのは、
一方、ペアのリーダーではない
「だいぶお疲れのようやな。お茶でも飲む?」
「おつです、お願いします……」
残党狩りから戻ってきたばかりの柊は、倒れ込むような姿勢でベンチへ身体を横たえた。西村は、くすくすと笑いながら共用のマグカップへ麦茶を注ぐ。
三日目ともなれば、雑魚との戦闘回数は激減していた。その分、広いエリアを隈なく走り回って探さなければならない。八時間かけて地下施設を駆けずり回るのは、戦闘とはまた違うキツさがあった。
柊がベンチに横たわったまま目を閉じていると、西村が奥から戻ってきた。手にしたトレイには、麦茶のマグカップだけでなく、おにぎりが乗っている。
「朝ごはん、あんたの分も貰うてきたったさかい。一緒に食べまひょ」
「あ、ごめん。ありがとう」
「疲れてるんやさかい、これくらい甘えとき」
サイドテーブルというには粗末な卓に、プラスチックのトレイが置かれる。
今日の朝食は、おにぎり一つと漬物。麦茶だけはおかわり自由だが、本来ならこれも、一人二杯まで、と制限されている。
「なんか、こうして改めて食べると、シェルターの食事が味気なく感じるよね。これが当たり前だったはずなんだけどさ」
「基地のごはんが豪勢すぎるんやで」
「いやいや、身体が資本なんで」
いただきます、と呟いて、柊はおにぎりを手に取った。
海苔が巻かれているわけでもなく、具は焼き魚のほぐし身だ。色からして、鮭じゃないことだけは分かる。他には、沢庵と青菜の柴漬けが小皿に乗っていた。
「西村さん、戦闘はどう? 慣れてきた?」
「せやな。
班長はん、だった翼の呼び名が変わっていることに気づく。
翼は、西村の救援へ向かうために柳沢へ班長の座を譲ったので、当然と言えば当然なのだが。
「多少の怪我はどうとでもなるさかい、こないなぶつかり稽古みたいな訓練は向いてるらしおすわぁ」
「うん。今のうちに、翼に前衛のことを色々教えてもらっておいてね」
頷きながら、西村は目をしばたかせた。
彼女の小さな手には余るサイズのおにぎりを、両手で持って柊の顔を眺めている。
「俺は後衛で、西村さんは前衛だ。次の現場指揮官が誰になるか、まだ発表されてないけど、俺たちは別々の班になる可能性が高いと思う」
「……そうか……そらそうやな、しゃあないで。うん、しゃあない」
自分へ言い聞かせるように、西村は何度も同じ言葉を繰り返した。そうして、おにぎりを一口齧り、飲み込んだ。
「あんたと離れるんは、正直、不安や」
「うん」
「やけど、うちはうちにできることを、できる限りでやったるわ」
――したいことをするのが神で、できることをするのが人間だ。
翼が話した、ナポレオンの名言を引用して答えた西村へ、柊は目を細める。
沢庵を一切れ、つまんで齧る。地元とは、かなり違う味付けだ。
「別の班になっても、俺が西村さんの教育係だったのは変わらないよ。だから、何か分からないことがあったら、いつでも頼って」
「ふふっ 頼りにしてますで、セ・ン・パ・イ」
「普段、呼び捨てしてるでしょ。何、急に後輩面してるんだよ」
「呼び捨てのほうが好きなん?」
「違うよ。いきなり呼ばれてびっくりしただけ。西村さんらしくない、っていうか。やっぱり班替えのこと、不安になってるのかな、って」
おにぎりを三分の二まで食べたところで、西村はお茶を手に取った。
ゆっくりと飲み込み、そうしてにっこりと微笑んだ。
「うちのこと、名前で呼んでくれへん?」
「えっ」
最後の一口を放り込もうとした柊の手が止まる。
目を合わせた西村は、朝方のまだ涼しい風に髪をなびかせながら、優美な笑みをこちらへ向けたままだ。
「うちにとって、あんたは最初に組んだ班の仲間や。あんたかて、翼ちゃんだけやのうて、
「そっか、言われてみればそうだね」
「あんたさえ良ければ、うちもそうしたいんよ」
いつの間にか熱くなっていた頬を誤魔化すように、柊は軽く笑い声をあげた。
自分にとって、西村が初めての後輩で、初めての教育係相手だったように。西村にとっても、柊は初めての先輩で、最初に深くかかわった隊員なのだ。
どちらかが死ぬまで、もしくは西村が退役するまで、それは変わらない。
皆の前で柳沢が西村を殴ったとき、同じようなことを言っていた。或いは、そのときに西村も何か思うところがあったのかもしれない。
柊は、小さくしっかりと頷いてみせた。
「うん、そうしよう」
「おおきに」
「………………えっと……」
「まさか思うけど、うちの下の名前、知らへんの?」
「……………………ごめんなさい」
ガタン、と音を立てて、西村が椅子から立ち上がった。
ほぼ同時に、柊もベンチの背もたれを飛び越え、距離を取る。両手を合わせ、拝むようなポーズで何度も頭を下げた。
「あんたなぁ!」
「ごめん、本当にごめんなさい。最初からずっと名字で呼んでたから、つい、あの」
「はぁ……しょうもな」
大きなため息を吐くと、西村はベンチを挟んで柊の正面へ立つ。両手で柊の頬を挟むと、ぐいっと引き寄せ、目を合わせた。
「あやの――うちの名は、
「は、はい」
「綾乃でも、あやのんでも、好きに呼んだらええよ」
至近距離で微笑む和風美人、という構図に、柊の目が彷徨う。
ほんの少し前に出たら、キスしてしまいそうな距離だ。
急におどおどし始めた柊の様子に、
「ほら、呼んだって」
「あ、あの、なんでこんな、ちょっと近い」
「うん? 聞こえへんで。もっとおっきな声で呼んどぉくれやす」
「いや、こういう態勢じゃなかったら普通に呼ぶんで」
「こないなのも新鮮でええやん」
小柄な綾乃が、小首を傾げてこちらを見上げている。
形のいいくちびるを僅かに尖らせているのは、自分が美人と分かってやってる証拠だ。悩ましげな微笑を受かべ、思わせぶりにゆっくりまばたきしてみせる。
根負けした柊は、はぁ、と一つ大きく息を吐いて目を逸らした。
「分かったよ、
「おおきに、
「……っ」
脳裏に、あの声が蘇る。
生まれてくることのなかった、双子の妹になるはずだった女の子の声。彼女はどんなときでも、兄になるはずだった柊の味方でいてくれた。
その妹が呼んでいたのだ――“柊ちゃん”、と。
(そんな呼び方、他の人にされることは二度とない、って思ってた)
妹の声が消えたとき、もう誰とも深くかかわることはない、と絶望した。親とも上手く付き合えず、友だちもいない。当然、女子と仲良くなれるわけもない。
一生、独りで暮らして、誰かに利用されて、独りで死んでいく。
(数ヶ月前まで、そんな風に思ってたのに)
今はもう、孤独ではない。
より危険な最前線に送られて、一人だけ色々と嘘を吐いて秘密を抱え、一人だけ定年もなく死ぬまで戦うことが決められていて。
状況は明らかに悪くなっているのに、妹を思い出すことは確実に減っている。
それは、妹と二人だけの世界に閉じこもらなくなったからだ。どれだけ失敗しても、他人とかかわって生きていく――京都の街を走りながら、妹に誓ったことを守れている証拠だ。
「妹以外にそう呼ばれるのって、なんか、変な感じするね」
「……ああ、
「死産だったらしいから、戸籍には残ってないんだけどさ。十五年以上、一緒に暮らしてたから、俺にとってはたった一人の家族だったよ」
だった、と過去形にすることに、もう胸は痛まない。
綾乃はそんな柊の首へ腕を回すと、ぐいっと強く引き寄せた。感傷に浸っていたせいで、抵抗できず、そのまま前のめりになってしまう。
柔らかなくちびるが、自分のそれに押し当てられる。
自然と目が大きく見開かれ、それと同時に耳の奥が熱くなる。咄嗟にのけ反るようにして身体を引き剥がすと、綾乃はベンチに引っかかって離れた。
「なっ……何、いきなりっ」
「捨て猫みたいな顔しとったさかい。可愛い可愛いしたろう思て」
「こ、子どもじゃないんだし、別に慰めてもらう必要はないです、ありません」
「ええやん。減るもんでもあらへんし」
「へ、減りは……まあ、しないけど……」
(普通、逆じゃないのか、この会話)
口もとを片手で押さえながら、首を振る。にやけそうになるのを誤魔化すために、眉間にしわを寄せておく。が、たぶん、綾乃にはバレている。
ここで拒否できない男の
(美人とキスして嬉しくない男がいるか、いや、いない)
「そうやってからかうのやめて。ホント、心臓に悪い」
「ふふっ どきどきしてもうた?」
「し、知らないよ」
「ウソや。顔、真っ赤っかやでぇ」
「――自分こそ」
そこまで言って、綾乃も頬を赤らめていることに気づく。
綾乃は、日本人形のように整った顔を崩し、白い歯を覗かせて笑った。
「寂しかったり、哀しなったりしたら、いつでもうちに甘えてや」
綾乃はそう言って、ベンチの背もたれを掴み、座面へ膝立ちの姿勢を取った。背もたれを挟んで向かい合う。膝立ちになっても、綾乃の頭は柊の胸元に並ぶ程度だ。
コツン、と額を柊の胸へ当てる。
柊が押し返さないのを確認して、綾乃は静かに呟いた。
「少しずつでええ。うちのこと、
「あの……」
「答えは急がへん。少しずつ、うちに興味を持っとぉくれやす」
そう言われても、柊は華奢な身体を押し返せなかった。
野営地の周りに生い茂る木々の葉が、ざぁあ、と音を立てた。
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