第109話 無いものねだり
西村が発見したあの民間人の少女が存在する以上、小倉シェルターの管理体制は、杜撰としか言いようがない。他国のスパイやテロリストが、戦闘員を狙って潜んでいるかもしれない。そういった第三勢力の介入を想定し、厳選した結果だ。
掃除係は年齢順に、
彼女たちは
五名は実力と負傷状態を考慮した結果だが、西村だけは、診察前から選出されていた。雑魚単体は【D】として最弱クラスで、今となっては数も少ない。新人の西村に経験を積ませるのに最適、と考えてのことらしい。
雨は降っていないが、夜空を雲が覆っている。
敵は、鼠だけではない。ダブルギアを狙う他国のスパイや国内の団体……潜在的な数で言えば、もしかすると鼠より人間の敵のほうが多いのかもしれない。
モノクロの街並みは、職員たちの不安と恐れを肯定するように静まり返っている。そんなぬめるような暗闇から、二つの人影が飛び出してきた。
「加賀・望月班は、ただいま帰還いたしました!」
「右に同じです」
「よし、よく戻った」
現れたのは、残党狩りに出ていた二人だ。出迎えた榊へ、討伐数を報告している。それを受けて、柊と玉置がベンチから立ち上がった。
柊とほぼ同等の身長を持つ玉置は、ヘッドギアのフェイス部分を上げて顔を見せた。白い歯が、野営用の焚火を受けてキラリと輝く。
「さ、早いところ全滅させて、姫たちとキャンプを楽しもうぜ」
「キャンプ、ですか?」
「そうさ。テントで寝起きして、外で飯食って、焚火を囲んで談笑する……BBQはなくても、立派なキャンプだろう?」
「ははは」
(この人、ブレないなぁ……)
行こうぜ、と言いながら玉置が先行する。その後を追うように、柊もシェルターへ続く非常口へ向かった。
帰還した加賀と望月は、衛生班の手当てを受けている。
そこから少し離れた仮眠用ベッドで、西村が大きく背伸びをした。欠伸を抑えるように口もとを手で押さえながら、周囲を見渡す。簡素なパイプベッドの傍らに置かれた椅子に、翼が座っている。
「ん……何時?」
「午前二時になるところだよ」
「早う起きすぎたな」
「そろそろ起こそうと思ってたんだ。七時間半以上の睡眠は、却って脳に負担らしいから」
「ふかふかのお布団があれば、何時間でもゴロゴロしてられるけどなぁ」
安物のパイプベッドと油揚げのように薄い布団では、それもままならない。ペロリと舌を出し、西村は乱れた髪を手櫛で
「せやったら、今は
「ちょうど出かけたところだ」
「鼠はん、夜行性なんやろ? なんで後衛の玉置と佐東が、一番しんどい時間帯、割り当てられたん?」
三チームは、八時間ごとの交代制で残党狩りをしている。
今回の【D】は、ベースとなる生物がドブネズミだった。往々にして、鼠は夜行性だ。そのため、日没直前から日の出直後までの夜間が、残党と遭遇しやすい。
午前二時から午前十時までのコアタイムを受け持ったのは、柊と玉置だ。
二人とも体格に恵まれ、戦闘能力も申し分ない――が、どちらも後衛だ。
すると、冷えた水を注いだグラスを渡しながら、翼は西村の隣へ腰を下ろした。
「小隊長は、柊に期待してるのさ。後衛だけでなく、前衛もできるようになってほしい、って」
「まあ、両方できるようになったら、便利やろうけど」
「『黒木にできることは、佐東にもできる』だそうだよ」
「小隊長はん、美人やけど、鬼やな」
くすっと笑い合いながら、西村は翼からグラスを受け取った。
寝汗をかいた身体に、冷えた水は
「んんっ な、何やこれっ 舌が痺れ……」
ケンケンと咳き込む背中を擦りながら、翼は中身が半分ほど残ったグラスを受け取った。困ったように、眉をしかめている。
「説明しようとしたのに」
「ピリピリする……雷入ってんで、これ」
「ははっ 西村は詩人だね」
そう言って、翼もグラスに口をつけた。口腔に広がる刺激に片目を細め、ぺろり、と桃色の舌を覗かせる。
「これはね、炭酸水、というんだ。よく見てごらん、水の奥底から、次から次へと泡が生まれてくるから」
「…………ほんまや。毒とちゃうんか」
「私が君に毒を盛るわけないだろう」
「そこ、ボケるとこやで」
呆れた様子で鼻を鳴らすと、西村は再びグラスを受け取った。
ぽこぽこと生まれてくる透明な泡は、自由自在に形を変える。
福岡県にある長田鉱泉場は、かつて「日本一の天然高濃度含鉄炭酸水」として地元の人はもちろん、県外の人からも愛された湧き水だった。炭酸泉は、古くから傷や病を治す霊水として崇められてきた――と、翼が説明してくれる。
「温泉に行かせたかったらしいんだけどね、小隊長は」
「そっちのほうがええやろ。鼠はんと運動会したあと熱い熱い風呂に入れたら、極楽浄土に昇天すんで」
「ははは、そうだね。私も選べるなら、温泉のほうがいいな」
軽く笑いながら、翼は肩を竦めた。
「けれど、温泉に入るには、服を脱がなければならない。あの子みたいに第三者が隠れ潜んでいたら、私達のことがバレてしまうだろう」
「服着て入ればええやん」
「そんなの不自然じゃないか」
「不自然でも何でも入りたいやん~ いけず言いなや」
「私に言われてもどうにもならないよ」
あはは、と笑い声が重なる。
翼はベッドから立ち上がると、再び丸テーブルに置かれたピッチャーから炭酸水をグラスへ注いだ。コポコポと音を立てて流れ込む透明な水。立ち上る泡。
「小隊長なりに、ボーナスのつもりなんだよ」
「
「最低限の主食は全国へ回されるけど、肉・魚・野菜は、その土地で採れるものしか配給されないだろう」
「そうやな。うちは
生まれたときからそれが当たり前だった地下世代にとって、それは普通のことだ。
しかし、地上で十年近く暮らした榊は違う。
せめて他の人間が味わえない+αの体験をさせてやりたい――その想いで、炭酸水を取り寄せてくれたのだろうか。それさえも、負傷した隊員たちの傷を癒すため、という大義名分がなければ実現しなかった「贅沢品」だ。
「そう思うと、なんや、ありがたい味に感じられてくるわ」
再び隣へ座った翼からグラスを受け取ると、西村は、「乾杯」と言ってグラスを掲げた。目を合わせ、翼も同じようにグラスを掲げる。
泡の立ち上る透明な液体を、二人は一口飲んだ。
しばらく雑談したあと、聞きたいことがある、と翼が話を切り出した。
「どうして西村は、あの子を叩いたんだ?」
排煙口から助けを求めた少女――彼女は「ダブルギアに会えれば、親が会いに来てくれるかも」という理由で、計画的にシェルターから脱走していた。
腹が立つのは当然だが、あのときの西村は、全身の肉と骨を齧りつくされ、息をするのも限界という瀕死状態だった。おまけに女とバレるわけにもいかず、すぐにその場を離れなければならない。叩いたところで、補足説明もできない。
わざわざ戻って手を振り上げる理由が、翼には分からなかった。
「怖かったな、ってよしよししたるのんは簡単や。あの
「どうせ、教師たちに叱られるんだ。そこまで分かってたなら、少しくらい優しくしてあげても……」
「そんなんしたら、あの子はいつかまた寂しなったとき、おんなじように自分の命を投げ棄てんで。そんときは、今度こそ死んでまうわ」
頷きつつも、翼のくちびるは僅かに尖っている。
似たようなことは、柊も少女へ伝えている。それでも翼は、割り切れない部分があるのだろう。
グラスのなかでは、透明な泡が生まれては消え、弾けては次の泡が生まれている。
「だとしても、誰かが優しくしてあげなければ、あの子はずっと寂しいままじゃないのか? 心が満たされないから、親を試すような行為をしたんだろう」
「誰かが厳しいことを言うてあげへんかったら、あの子は変われへん。優しゅうしてどうにかなるレベルなんて、とっくに超えてる」
「誰かが言わなければ、変われない……」
西村は、華奢な足をすらりと組み直した。
「その点、女はあかんよな。すーぐ、よしよしギュッギュしてばかりで」
「優しくするだけじゃ、ダメなのか?」
「そのほうが、お利口さんやで。言っても伝わらないかもしれへんし、逆恨みされるかもしれへん。柳沢がうちに頭突きしたんも、そうや。うちは嬉しぃ思うたけど、腹立つ
「どうして、そこまでしてあげたんだ。逆恨みされても、弁明できなかったのに」
「さあなぁ……庇ってるうちに、情でも移ったんかな」
いつの間にか俯いていた翼は、低い声で呟いた。
「柊に、愚痴を聞いてもらったんだ。私は多分、『翼は頑張ってるよ』と言われたかったんだと思う。けれど、突き放された。『指揮官を諦めろ』って――」
「ふふっ ひっどいやっちゃなぁ」
「正直、私もそう感じてしまった。西村に接するときのように、少しくらい優しくしてくれたらいいのに、と」
「モテる男はそこで、背中からぎゅーって抱きしめて、『オレがついてんでー』やら何とか低い声で囁いて、耳にキスでもするんやろうな」
「せ、世間の若者たちは、そんな甘い会話をしているのか!?」
思わず顔を上げた翼の顔は、頬だけでなく耳まで赤くなっている。
対する西村は、形のいいくちびるを尖らせて鼻を鳴らした。
「うちは彼氏がいたことあらへんし、友だちの経験談やで」
「……つまり、それを経験した人がいる、と」
両手で頬を抑えている翼を、西村は面白そうに眺めている。
「ま、うちやったらそないなキザ男、『いてまえや!』て股間蹴り飛ばすけどなぁ」
「下腹部を攻撃するのは酷だぞ、西村……」
「死んだらええ、口先だけの屑男なんぞ」
「ははは。西村は考えがはっきりしていて、聞いてて気持ちがいいね」
西村が肩を竦めると、艶やかな黒髪がさらさらと零れていった。その様子に、翼はそっと目を細める。
「ほんならあんたは、恋愛映画か少女漫画の世界におるような、苺シロップみたいな言葉を大盤振る舞いしてくれる男が好みなん?」
「好みではないな」
二人は、屈託のない笑い声を重ねる。
カーテンの仕切りの奥からは、戻ってきた二人の隊員と榊が話している声がする。誰が話しているかは声の低さで分かるが、内容は聞き取れない。声の調子から推測するに、雑談を楽しんでいるようだ。
「せやったら、悩むことあらへんやん」
「……無いもの
「せやな。うちからしたら、他の
「君は変わっているな」
「そう?」
翼と組んでの雑魚退治は、西村でもどうにかついていける。
怪我をしても、彼女の治癒力なら帰還前にほとんど治ってしまう程度だ。不自然さを気取られないためのダミーの包帯を弄りながら、西村は軽く首を振った。
「あの人、人間不信やん」
「え? ……柊のことか」
「自分は誰も信じてへん癖に、誰にも嫌われたない、優柔不断な甘ちゃんやし。重度のシスコンで、しかもその影響でどの
痛烈な批判に、思わず翼も笑ってしまった。
言葉を口にした西村も、片方の眉を上げて口もとに笑みを作る。
「そやのに、あんたには喧嘩上等でキツイこと言うてきたんやろ。そんなん、ほんまなら絶対したないことや思うで」
「絶対に……」
「紐なしバンジージャンプするくらい、怖かったんちゃうか?」
パチパチと焚火が爆ぜる音が、テント奥から聞こえてくる。
耳に心地よい不規則なリズムを背景音に、グラスの中で生まれては消えていく泡を、翼はじぃっと見つめていた。
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