さらば、弱き者たちよ
第108話 頬の痛み
救出した少女を無事に送り届けたあと、
既に日は傾き、一番星が満身創痍の隊員たちを出迎える。
ヘッドギアを脱ぐことはできないが、戦闘服越しに感じる新鮮な外気は、疲れ切った身体に染みた。
隣を歩く
「……外の世界は、こないにも美しいねんな」
誰もそれを否定しない。いや、否定できない。
地平線へ傾いていくオレンジ色の夕日を浴びながら、隊員たちは駅前通りを歩いた。まるで、凱旋パレードのように。
逃げ出した雑魚を殲滅するため、【D】の寿命が尽きるまでの一週間、隊員たちは市街地に留まらなければならなかった。
後方支援の職員たちが、
柊の担当医は、彼の事情を知る数少ない人物だ。てきぱきと診察をしながら、労いの笑みを浮かべてみせた。
「今回は、いつもと勝手が違くて大変だったでしょう」
「はい」
「どうする? 治療優先を希望しても、誰も文句を言わない満身創痍だけど」
「あー……でも、残れますよね、このくらいなら」
「お
おどけた調子で笑う医師へ、柊も表情を崩した。
「こう見えて、掃除は苦手じゃないですよ」
「さすが、元自警団出身。身支度や身の回りの整頓は、団体行動の基礎だものね」
「私物が少ない、ってのもありますけど」
和やかな雰囲気を切り裂くように、悲鳴交じりの声が上がった。
「どうした?」
「誰か! 職員さんを呼んできて」
「おいおい、ケンカかよ」
不穏な会話に、柊は腰を上げた。柊の担当医は、もう行っていいよ、というように掌をひらひらさせる。
衛生班のテントの中央では、診察を待つ隊員たちが集められていた。その中心辺りの床へ転がっている小柄な隊員と、その前で仁王立ちをする隊員。そして、二人を驚いた様子で見つめる隊員たち――。
床で倒れているのは、西村だ。
その正面で西村を見おろしているのは、
近くにいた
「……何があったの?」
「さぁな。西村がそこの診察室から出てきたと思ったら、出会い頭、柳沢が頭突きをかましたのさ」
あいつ石頭なんだよな、と伊織は嘆息している。
腰だけでなく額も擦っているところを見ると、柳沢は西村の額へ突撃したらしい。
周囲の隊員たちも、まさか柳沢がそんな行動に出ると思っていなかったのだろう。ぽかん、と口を開けたまま、二人を交互に見比べている。
頭突きをされた西村も、目を丸くしたままだ。
診察を終えた
静まり返ったテントのなか、ようやく柳沢が口を開く。
「……
それには答えず、西村は視線を逸らす。
「弱虫女のおまえのことだ。どーせ、『また信じてもらえなかったら、ワテ、傷ついちゃいまっせー』とか、くだんねぇこと考えたんだろ」
「そないな口調ちゃうどすえ」
「るせぇ。方言なんか知らねぇよ」
本来なら、疲労と苦痛で、立っているだけでつらいはずだ。それなのに、柳沢は震える膝に力を籠め、仁王立ちしていた。
細い眉はしかめられ、白く小さな歯が剥き出しになっている。お行儀のいい口ではないが、ここまではっきりと怒りを示す柳沢を見るのは、初めてだった。
顔を覆う包帯のせいで、右半分の顔しか見えない。だが、その瞳には激しく燃える怒りの炎が灯っている。
「先月のおまえは、訓練をブッチする根性なしのクソ野郎だった」
「今も、どうせ
「勝手に決めつけて傷ついてんじゃねぇ!」
追加で蹴り飛ばそうとする柳沢を、比較的軽傷の隊員が羽交い締めにする。
ジタバタする元気もないのか、隊員の腕にぶらんとぶら下がったまま、柳沢は大声で話し続けた。
「けどな! マジメに訓練に参加してた今のおまえが報告すれば、信じる奴はいた」
「…………っ」
「アタシなら、『
「副班長はん……」
片方だけ見えている吊り気味の目じりに、じんわりと透明な液体が滲む。
それを、無理やり手の甲で擦り、柳沢は叫んだ。
「おまえはアタシにとって、ちゃんと後輩だったんだ! おまえが何とも思ってなかったんだとしてもな!!」
もう痛みなど感じないはずの額へ、西村はまだ手を当てている。痛がる演技などではない。
渾身の一撃を食らった額から、じんじん、全身へ広がっていく拍動。それは、柳沢の言葉を心の奥底へ届けるのに充分だった。
周囲を見渡す。みんな、心配してくれているような、困ったような顔で西村と柳沢を見守っている。けれどもそれは、彼女たちが優しいから、ではない。嫌ってるわけではないが、それ以上に踏み込む気もない。それが現実だ。
一方、想いがあるからこそ、感じる怒りがある――西村はそのことを、逆の立場で実感したばかりだった。
少し離れたところでこちらを眺める柊は、軽く肩を竦めて笑っている。恐らく、西村が考えたことが伝わっているのだろう。その隣に立つ翼がこちらへ駆け寄ろうとするのを、無言で止めている。
西村は、ゆっくりと床から立ち上がった。
「んだよ。やる気か、西村ァ」
柳沢は、不貞腐れた顔で羽交い絞めにされている。
ぶらんとぶら下がったまま拳を構える柳沢を、西村はそっと抱きしめた。
「ちょ、おまっ」
「
「はぁあああ!? そんな話、してねぇだろっ」
「他人の好意は素直に受け取るもんや」
「ば、馬鹿っ 女同士で
きゃっきゃと上がる黄色い声に、周囲の隊員たちは胸を撫で下ろした。
柊の隣に立つ翼も、軽く肩を竦めて笑う。
そんなことを考えながら、柊は菫色の空を見上げた。
九月だというのに妙に肌寒い風を受けて、雲が勢いよく流れていく。
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