第105話 玉座の皇帝
抜き身の脇差は、蛍光灯を反射して冷たく輝いている。
ひゅっ、と空気の音が鳴るのと同時に、心臓が爆発しそうな勢いで脈打つ。
悲鳴をあげようにも、声帯を傷つけたのか、ひゅーひゅーと笛のような音しか鳴らない。脇差を刺したまま、西村は壁に手を当ててよろよろと歩いた。
(肺に流れ込んだ自分の血で、溺死しそうや……)
微かに気道は通っているが、少し動いただけで酸欠になってしまった。ぐらぐら揺れる視界のなか、一歩、また一歩と踏み出す。
そうするうちに、どうにか暗灰色の川へ辿り着く。滴る鮮血の匂いに、鼠たちは狂喜の合唱を響かせた。
――ここから先は、無間地獄が待っている。
西村の治癒速度と【D】が喰い散らかすのと、どちらが速いか。そんな、救いのない勝負をしようというのだ。
しかも、西村がここにいることを誰も知らない。
通信で救援要請したところで、合理主義の
(……地獄も絶望も、とっくに経験済みや)
喉笛に刺した脇差が、悲鳴と呼吸を邪魔する。
西村の治癒力をもってしても、脇差を抜かなければ傷は塞がらない。それは、黒木に箸を刺されたことで知っていた。
(これなら悲鳴をあげずに済むやろ。それに、脇差が邪魔して、鼠はんも首を齧られへんはずや)
なんと頭の悪い作戦だろうか。自嘲の涙を滲ませ、西村は大きく息を吸った。
空調室は、学校の運動場くらいの大きさがある。遠回りせずに向かったとして、少女がいる
普通なら、辿り着く前に骨も残さず死ぬだろう。しかし今の西村には、柊が教えてくれた
(ここまで来たら、やるしかあらへん)
跳躍力や瞬発力を向上させる
踏み潰した鼠の悲鳴もろとも跳躍。正面に配された手すりを掴み、腕の力で身体を強引に引き上げる。背中に数体がしがみつくのを感じたが、無視して飛び降りた。
無重力状態に、身体が浮きあがる。
(――――高いっ!!)
どうやら西村のいた辺りは、二階部分だったらしい。
鼠の吹き溜まりになっている一階へ、まっすぐ落ちていく。真っ赤な目が、一斉にこちらを見上げた。後悔しても、今さら戻ることはできない。
(あの数に群がられたら終わりや)
身を捻り、無理やり後ろを向く。ガリガリと爪を立て、壁の凹凸にしがみつこうとする。爪が剥がれる痛みに、喉が悲鳴の
(大丈夫、大丈夫や。うちは、まだ生きとる。傷は治るし、爪も生える)
気づかないうちに、涙が垂れ流しになっている。それを拭うこともできない。
壁の凹凸や装飾を伝い、ゆっくり前進する。
(焦って落ちれば、あの子は助からへん。焦ったらあかん)
上から吊るされたチェーンにしがみつき、身体を振り子のようにしてコンテナの上へ飛び移る。雑魚に齧りつかれたが、振りほどく間も惜しんで次のコンテナへ。
遠回りではあるが、次第に少女の待つ排煙口が近づいてきた。
いよいよあと二メートル、という地点で、西村は足を止めた。壁にせり出した装飾物に乗っている状態なので、背中の二匹以外に鼠はいない。
(いつまで齧っとるんか、ボケ)
背中にいる鼠を順番に引き剥がし、下へ落とす。二匹の鼠は暗灰色の川に呑まれ、すぐ見えなくなった。
少女のいる排煙口の蓋は、金具の一部がめくれかけている。
このまま放置すれば、十分もせずに鼠たちは美味しい餌にありつけるだろう。それを阻止したいのなら、蓋が開かないように、別のもので塞ぐしかない。
――
狙いをつけると、ひらりと身を翻し、西村は排煙口の手前へ降り立った。
金網越しの餌へ涎を垂らしていた鼠たちは、突如現れた闖入者に身体を強張らせた。しかし、それがもっと美味しそうな餌だと気付いた途端、空調室を揺るがすどよめきがあがる。
西村に与えられた時間は、たった二秒。
排煙口の金網の位置を確認。
喰い破られそうになっている部分へ、自分の背骨が当たるように膝を軽く曲げる。
あとはもう、上も下も分からない地獄に引き込まれた。
獣臭い息が吹きかけられ、ざらついた舌が這いまわる。妙に冷たい鼻先がひくつき、とがった爪が押し付けられる。足も腿も腰も腹も胸も腕も肩も、キィキィ癇に障る啼き声を浴びせられた。
(嫌や、やっぱしあかん。こんなん無理や!)
ありとあらゆる部位へ、鋭い歯が突き立てられる。
指が飛び、肉を引き裂き、滴る鮮血が啜られ、垂れ下がった白い神経をしゃぶられる。黄色い脂肪粒が潰れ、骨を爪で引っ掻かれる。
死にたくない、と懸命に拍動するピンク色の心臓を貪ろうと、無数の鼠が押し寄せる。だが、肋骨がそれを阻んだ。ガリガリと歯を立て、骨の隙間をぬめる舌が這いまわる。
美しい女を、男たちが寄ってたかって嬲るのに似た狂乱に、西村の魂は激しく傷つけられた。
(やめて、やめてやめてやめてっ)
ヘッドギアで保護されている頭部と、脇差が刺さったままの首はそのままだ。しかし、それ以外の部位は、あっという間に赤く染まっていく。
生きたまま
文字通り、無限餌やり器となった西村の背後から、悲鳴が聞こえた。
(鼠はんが入りよったんか!?)
「お兄しゃんから離れて!」
(ああ……うちのこと、心配してくれてはるんか)
安堵の嘆息を洩らそうにも、代わりに喉から溢れかけた悲鳴を堪えるしかない。
指のなくなった手で、そっと金網に触れる。
(金網の穴が塞げてるなら、それでええ)
「イヤや、お兄しゃん死なんで!」
(やっぱし、肉より骨のほうが再生も速い。背骨と肋骨で金網を覆えば、これ以上、金網を破壊されへんで済む)
朦朧としながら、西村は薄く笑った。
(うちもアホやな。こないな風になりとうのうて、訓練を拒否したんやん?)
囮にされて【D】に喰われたくないから、五年も息をひそめて生きてきたのに。多くの隊員から嫌われてでも、訓練に参加しなかったのに。そのせいで、
(寒い……血が足らへん……)
段々と暗くなっていく視界。
いつの間にか、痛みより眠気のほうが強くなっている。
(ああ、ちぃっとあかんな)
ピリッと皮膚を裂く音、肉を咀嚼するクチャクチャという音、ゴリッと骨を齧る音。死へ
ふと、視線を感じて顔を上げる。
もしかして、助けが来たのか。
(
部屋全体へ、視線を彷徨わせる。自分が出てきた配管からは奥まって見えない辺りに、何かが動いた気がした。
「ギィイイイイイ……」
低い声は、人間のものではない。
それが何か理解した西村の目が、くわっと見開かれた。
西村のいる場所とは反対側の壁際に、それはいた。
二メートル近くある物体から、ポン、と鼠が飛び出す。灰色の毛皮は、それ自体が巣箱の出口であるかのように、小型犬サイズの鼠を次から次へと生み出した。
ずんぐりむっくりの毛皮の上に、ちょこんと乗っかる小さな頭。真っ赤な目は、西村をせせら笑うように光った。
(あれが
巨大コンテナに座るそれは、玉座についた皇帝のようだ。
雑魚とは大きさが圧倒的に違う。大きな口から覗く歯は、人間など一噛みでバラバラにしてしまうだろう。
筋肉に覆われた腕から続く爪は、西村の首へ刺さったままの脇差より太く鋭い。あれでは、十本の刀を手に戦うようなものだ。
それに加え、広場を埋め尽くす数百の雑魚。どう足掻いても、西村が生き残る目はなかった。
(――嫌や、こないなとこで死にとうないっ)
足元に群がる雑魚を蹴ろうにも、少し態勢をずらしただけで、床へ崩れ落ちそうになる。そんなことになれば、金網を覆い隠した意味がなくなる。
(動くこともできへんの?)
背後では、少女が泣きじゃくっている。
「お兄しゃん頑張って! 死んだらかなん!!」
金網越しに、少女は必死に西村へ語り掛けている。
「ねえ、起きて。起きてや! お兄しゃんダブルギアなんやろ? あん鼠ん化け物ば、倒しんしゃい!!」
(起きてるし、死んでまへん……けど、なんも打つ手あらへんのや)
玉座からこちらを見おろす
深い闇の奥底で、西村はぼんやりと考えていた。
――あんとき佐東に話してたら、うちと一緒に来てくれたんやろか。
――佐東がおったら、どうにかなったんやろか。なったんやろな。
――もういっぺん、あの気ぃ抜けた笑顔が見たかったわ。
いつの間にか、音も匂いも色彩さえも、遠ざかっていた。寒くて暗い世界に、再びどよめきが生まれる。
(………………なんや)
とろっとろに脳内麻薬で
(
何かが動く気配がある。だが、瞼が重くて上手く開けられない。
と、西村のすぐ脇の壁へ、何かが勢いよくぶつかった。びりびりと響く衝撃に、思わず目を開く。
自分が出てきた配管の方角へ、顔を向ける。そこには二人の戦闘員がいた。
すらりと背の高い隊員と、華奢な身体つきの隊員。背が高い隊員は、掴んだ鼠を振りかぶり、こちらへ投げつけた。
野球の遠投の要領で投げたそれは、センターからバックホームで走者を刺すかのごとく、ノーバウンドで壁へぶち当たる。
切れのいいピッチングを見せた隊員は、フェイスを上げて叫んだ。
「もう少しだ、頑張れ!!」
あれが
目を輝かせたのも束の間、西村は背中で泣きじゃくる声に息を呑んだ。
(あかん、佐東がうちの名を呼ぶ前に、民間人がおることを知らせな)
いつもの癖で柊が「西村さん」と呼べば、いくら子どもでも、違和感を覚えるだろう。男同士で、しかも西村のほうが遥かに年下(に見える)なら、呼び捨てるのが普通だ。
通信しようにも、結局は声を発することになる。それでは意味がない。
必死に考え、西村は五匹の鼠がぶら下がる右腕を、ゆっくり持ち上げた。黙って背後の壁を指さす。
(頼む、班長はん。うちのジェスチャーに気づいてや!)
繰り返し、何度も何度も背後を指さす。
すると、翼と思しきもう一人の隊員が、柊に説明してくれた。ややあって、柊が大声で語り掛けてきた。
「生存者の人数を聞くぞ。一人なら縦、それより多いなら横に首を振れ!」
いつもと違う口調だ。
世間的には、柊が「現場指揮官にして広報官」という
縦に一回、首を振る。突き刺したままの脇差が軌道を圧迫し、また口腔に生暖かい血が溢れた。けれども、不思議と苦しいとは感じなかった。
西村の返答を確認した柊は、腰に提げた太刀をすらりと抜く。
彼らの前には、何百という暗灰色の闇が蠢いている。柊はそれに臆することなく、声も高らかに宣言した。
「ただ今より、
鮮血の予感に、雑魚たちは狂乱の叫び声をあげる。
玉座の皇帝も、爛々と赤い目をぎらつかせた。
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