第102話 救援へ向かうだけの理由

『――つばさ! 翼、たすけて!』


 通信をONにした途端、掠れた悲鳴が翼の耳に届いた。それが誰の声か理解するより早く、周囲を見渡す。

 壁際にある一つの配管の前に、SOSを発するしゅうがいる。

 柊の位置を把握すると同時に、翼は両手で太刀を構え、左から右へと鼠の群れを薙ぎ払った。

 比較的近くにいる柳沢やなぎさわへ、叫ぶように声を掛ける。


「柳沢! 私は柊のところへ救援へ行く」

「バカ、ここだって手ぇ足りてねぇだろ」


 すると、更に奥で鋭い蹴りを放つ伊織いおりが通信に割り込んできた。


『翼、どうした』

『救援要請が入った、柊からだ』


 背中に圧し掛かる鼠を振り払い、足元にまとわりつく別の個体を踏み潰す。どれだけ倒そうと、コアを倒さない限り、増援は止まない。

 すると、伊織は一歩、柳沢のほうへ歩み寄った。


『行け、翼。柳沢は、あたしが面倒みてやる』

『はぁ? 誰かの世話になるほど落ちぶれてねぇよ』


 一瞬、首を横に振りかけたが、翼は思い直したように強く縦に振った。


『すまない。行ってくる』

さかき……おい、榊っ!』


 襲いかかる鼠の群れをモーゼが海を割るごとく切り裂きながら、翼は柊がいる方角へ足を踏み出した。

 苛立ちを隠せない様子で荒っぽく太刀を振るう柳沢へ、伊織が通信で話しかける。


『なんだ。翼がいないと不安か?』

『んなわけねぇだろ! 新兵じゃねぇんだし』

『柊がSOSを出すってことは、西村にしむら関係かもしれないだろ。それともおまえさんは副班長なのに、新人に気を遣う余裕もないか? ……だったらすまんな』


 挑発するように笑う伊織に、柳沢が大声で言い返す。


『誰の話だよ。アタシの強さを至近距離で見せつけてやるぜ!!』

『お手並み拝見だ』


 伊織と柳沢は背中合わせに立つと、猛然と太刀を振るい始めた。

 そんな二人のやりとりを聞く余裕もなく、翼は柊のいる壁際を目指して進む。まとわりつく鼠たちを振り払い、斬り捨て、もがくように前へ。

 柊の姿は見えているのに、なかなか進めない。焦れば焦るほど、呼吸が乱れて肩が揺れる。ようやく翼が辿り着いたとき、柊は半ば呆然自失といった様子で立ち尽くしていた。

 長年の訓練の賜物か、飛びかかってくる鼠だけは機械的に倒している。

 しかし、救援が到着したことに気づくのにさえ、数秒かかる有様だ。そんな柊の肩へ手を掛け、翼が叫ぶ。


「柊! 私だ、何があった」

「つ、つばさ……」


 柊の肩は、ぶるぶると震えている。ヘッドギアのフェイスで表情は隠れているが、掠れた声や全身の震えが、彼の狼狽ぶりを表していた。

 翼が救援に来てくれた、と理解した途端、柊の手が伸びてくる。翼の肩を掴み、縋りつくようにして早口で告げる。


「西村さんが」

「……そういえば、西村はどこにいる?」

「いないんだ」

「一人で転戦させたのか?」

「違う! 俺、俺の、すぐ後ろ……この配管の増援を警戒して、って言って、任せてたのに……西村さんがいないんだ!」


 翼の喉が上下する。

 素早く周囲を見渡し、壁に咲いた血飛沫の花に目が留まる。更に、配管のすぐ上にべったりと付いた血濡れた手の痕。

 大きく息を吸うのに合わせ、翼の肩が上下する。

 一拍おいて、翼は柊の手を強く握りしめながら、ヘッドギアの通信を入れた。相手は、現場指揮官の美咲みさきだ。


『こちら五班班長。現場指揮官、至急応答を願う』

『こちら、一班班長。どうしたの?』

『西村がいなくなった。死亡した可能性と、戦場から移動した可能性の両方がある』


 死亡した可能性、という言葉を受け入れられず、柊は首を強く振る。

 美咲は、全体へ通信を切り替えるように通達した。西村がいなくなった、と聞いて、あちこちから驚きの声があがる。


『誰か、西村さんがいなくなったところを見た人は?』


 美咲の問いかけに、あちこちから情報が集まる。


『十分くらい前、天井近くから降りたのを見ました!』

『それなら、あたしも気づいたよ』

『けど、そのときは佐東さとうさんと一緒だったわよね』


 話を総合すると、誰も西村がいなくなる瞬間を見ていないらしい。

 柊と西村がいたのは、激戦を繰り広げる防衛シャッター周辺ではない。しかも、増援が少ない配管を選んだため、近くにいる隊員は皆、腕に自信のない後衛ばかり。他人を観察するような余裕など、期待できない。

 飛びかかる鼠を踏み潰すと、翼は柊の手を離した。肩を掴まれたままでは、捌ききれないのだろう。太刀を構え、狼狽している柊の代わりに数匹の鼠を切り捨てた。


『まさか……食べられちゃったの……?』

『柊、太刀を握れ。君が今すべきことは、戦うことだけだ』

『けど、西村さんが』


 パニックを起こしている柊へ何か言おうとした翼が、咄嗟に身を引く。しかし、壁を走ってきた雑魚に気づくのが遅れ、左腕に噛みつかれてしまう。


『くっ 油断……した』


 鼠の首を掴むと、勢いよく引き剥がす。当然、肉が引き裂かれて血飛沫が飛ぶ。目の前で翼が負傷したことで、ようやく柊も太刀を構え直した。

 辺りを取り囲む個体へ斬りかかっている柊の背後で、翼は自分のヘッドギアに収納されているバンテージを引っぱり出した。慣れた手つきで左腕に巻き付けると、すぐさま太刀を振るう。

 敢えて全体通信を切ると、翼は一番近くにいる柊へ、低い声で話しかけた。


「西村は、生きている」

「なんで分かるの」

「君たちが天井付近から移動して、だいたい十分。齧歯類の【D】が民間人を骨一つ残らず食べ尽くすのに、平均して五分はかかる。ダブルギア戦闘員ならばもっと時間はかかるし、まして西村は、あの体質だ」


 言われてみれば、小骨どころか、黒い戦闘服の切れ端さえ落ちていない。

 治癒力にだけ上昇バフを受けた西村が、この短時間に骨一つ残さず食い散らかされるだろうか――冷静に考えれば、その可能性は低い。


「食い殺されたのでなければ、残る可能性は二つだけだ」

「二つ?」

「一つは、生きてはいるが、【D】によって連れ去られた場合」

「柴犬くらいの大きさしかないのに?」

「見た目は小さくても、噛む力は小型犬より遥かに強い。それに、西村は小柄だ。数体の【D】が同時に引っ張れば、不可能じゃない」


 傷だらけになりながら、何体もの鼠に配管の中を引きずられていく西村を想像し、柊は首を振った。


「だったら、通信で助けを求めるんじゃ」

「普通はそうだ。通信機能が分からなかったとしても、引き倒されたときに悲鳴をあげるだろう。柊は、悲鳴や不穏な物音を聞いた記憶はあるか?」

「……ないと思う。無我夢中だったから、絶対じゃないけど」

「だから、もう一つの可能性が出てくる」


 飛びかかろうとした鼠へ、カウンターで回し蹴りを決めながら、翼は頷いた。


「西村が、自分から・・・・この場を・・・・離れた・・・・可能性・・・だ」

「――えっ?」


 こうしている間も、例の配管からは一匹も増援が現れない。

 防衛シャッターから離れ、増援もないこの場所なら、翼は会話をしながら戦えるだけの余裕が有り余っている様子だ。戦場であることを忘れてしまうほど見事な体捌きで、赤く目を光らす鼠へ、次々と引導を渡していく。

 すると、二人へ美咲から通信が入ったことを知らせる電子音がした。シャッター前にいる隊員たちの話し合いが、一段落したらしい。

 いつになく静かな声で、美咲は話しかけてきた。


『目撃情報と皆の意見を聞いた結果、西村さんは戦場放棄した・・・・・・、と判断します』


 敵前逃亡――美咲を始めとする多くの隊員は、そう判断した。

 五年以上、小隊に在籍する隊員は、美咲の他に何人もいる。古参組の隊員は、これまでに何十人という新人を見てきたはずだ。当然、なかには武器を捨て、戦いから逃れようとする者もたくさんいただろう。

 だが、柊はその「答え」を受け入れることができなかった。

(最後に話したとき、西村さんはどんな様子だった?)

 配管から飛び降りた後、柊が前へ、西村は配管脇に陣取った。

 ――その配管から増援が来たら教えて。前からの増援は、俺が引き受けるから。

 ――任せてや。

(顔は見てない。けど、西村さんは思ったことをはっきり言う人だ。怖かったら怖い、嫌なら嫌、ちゃんと口にしてきた)

 そんな彼女が、任せろ、と言っておいて無責任に逃げ出すだろうか?

(違う。西村さんは、絶対逃げてない)

 更に思い出したのは、前回の対ヒグマ型【D】と交戦したときの記憶。

 左足を失った柊は、朦朧とする意識のなか、ビルの三階から見下ろす西村の姿を見ていた。西村はその場に留まり、本隊へ救援を訴え続けた。

(初陣のときでさえ、西村さんは逃げなかったんだ。俺が食い殺されたら次は自分だ、って分かってたのに)

 それなのに、今さら逃げ出す理由がない。

 床を走る雑魚へ太刀を突き立てながら、柊は通信機へ叫んだ。


『西村さんは、そんな無責任な人じゃありません!』

『佐東さん。あなたが西村さんの教育係として、心を砕いていたのは、皆知っているわ。だけどね……心が弱い人は、どうしたって一定数いるのよ』


 着任当時の西村が、戦闘どころか訓練さえ拒否していたことに起因するのだろう。誰も美咲の言葉に異論を唱えなかった。

(それは、西村さんが、自分の特殊体質を知られたくなかったからで)

 けれども、それを口にすることはできない。黒木のおもちゃにされたり、次の指揮官が、西村を囮にしようと考えたりするかもしれないから。

 散々迷って、救いを求めるように翼へ視線を向ける。

 目が合ったはずなのに、翼はすぐに視線を鼠の群れへ戻してしまった。


『私も、西村を信じたい』

『翼……』

『けれども、見過ごせない点がある』


 足に噛みつかれた翼は、くぐもった悲鳴をあげかけた。

 勢いよく振りほどく彼女の肩は、激しく上下している。かなり、体力を消耗しているようだ。よく見れば、先ほど噛まれた左手は、まだ血が止まっていない。やはり、他の隊員よりも治癒速度が明らかに遅い。


『配管のすぐ上に、血痕があるのが見える?』

『分かるよ。まだ乾いてないから、西村さんのだと思う。俺は触ってないし』

『もし、転んだあとに立ち上がろうとして壁に触れたなら、掌までべったりと痕がつくはずだ。その場合、幾つも手形が付かないとおかしい』


 配管の入り口に残る赤い手形は、指先しかない。


『あの形で痕が付くのは、配管へ入ろうとして、思わず手を突いた場合だけだ。つまり、西村は自分の意志で歩いて行ったことになる』

『そんな……』

『私も、西村が逃げたなんて思いたくはない。しかし、悲鳴さえあげずにこの場を離れた理由を思いつかないのも事実だ』


 説明が一段落したところで、美咲が話に割り込んできた。


『二人とも、シャッター前へ合流してちょうだい。一刻も早くここを制圧して、コアの索敵へ移らないと』

『西村さんのことは、どうするんですか』


 一拍おいて、冷たい声が返ってくる。


『佐東さんには、戦場放棄した隊員を探しにいく余裕があるの?』

『ないです。だけど』

『今だって、ギリギリ競り勝ってる状態なのよ。勝手にいなくなった無責任な隊員のために人員を割けば、ここで必死に戦う誰かが死ぬかもしれない』

『それは……』

『小隊全滅もあり得る、という小隊長の言葉を忘れたの?』


 あちこちの配管から飛び出してくる無数の鼠たち。

 隙をつかれて背中に圧し掛かられながら、柊は首を振った。

 西村を助けにいく理由がない、という現実を否定したくて、声なき声をあげながら。

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