第101話 血濡れた手の痕

 天井付近を走る配管の上で見つめ合う、しゅう西村にしむら

 これだけ近いと、濃いスモークが貼られたフェイス越しでも、薄らと表情が見える。西村は、困惑したように細い眉をひそめている。


臨界速あれ使つこうたら、男とバレるんちゃうん?」

「俺だって嫌だよ。けど、みんなが死んで、それを一生後悔する方が嫌なだけ」

「……あんたって、見た目よりずっと男らしぃんやな」

「一言多いよ」


 そう返すと、柊は広場の一角を指さした。

 最終防衛シャッターからは離れているが、一つ前の廊下へ続く扉ともあまり近くはない。その壁に、一つの配管が口を開けていた。


「あそこ。俺たちがここに上がってから、一度も増援が出てない」

コアから遠回りしいひんと来れへん経路なんちゃう?」

「理由は分からないけど……増援が少ないなら狙い目だ。あの壁を背に戦えば、西村さんも、少しは楽に交戦できるはずだよ」

「やったら、すぐ行くで」


 頷き、柊が先行する。配管は太く、慎重に進めば足元を滑らせる心配もない。ときどき入り乱れる配管を飛び越え、潜り、そうして目的の地点へ。

 何も考えずに来て、ふと振り返る。西村も、肩で息をしながらちゃんとついて来ていた。文句を言う様子もない。


「ここから飛び降りるよ。床までは三メートル弱。速度補助ファースト・ギアを入れて、きちんと教えた通りにやれば、着地できる」

「床のネズミはどうするん?」

「着地のは仕方ないけど、たぶん、相手から飛び退いてくれると思う。ロールしたら、すぐに立ち上がってね」

「……それって、うちの足や背中でネズミを……」

「齧られるよりはマシでしょ」

「ほな、手本見せてや」


 了解、と呟くと、柊は下を覗き込んだ。

 かなりの数を倒したはずなのに、一向に床の色が見えてこない。暗灰色の波が、うぞうぞうごめいている。まるで、床全体が一つの生き物のようだ。

 例の配管の辺りは、増援の危険がない、ということで誰も警戒していない。戦闘に自信のある隊員にとって、そこで戦うメリットは少ないのだろう。だが、後衛の柊が新人の西村を連れて、という条件ならば別だ。

(――今だっ)

 ひらりと身を翻し、真下へ落ちていく。ほんの一瞬、無重力に近い感覚が身体を包む。空気抵抗ではためく、戦闘服のジャケットの裾。胸を反らし、着地の衝撃に備えて手を構えておく。

 コンクリートの床が、激しい音を立てる。ほぼ同時に、踏み潰された鼠が癇に障る叫び声をあげた。衝撃が膝に伝わるより早く、前転に入る。片方だけ曲げた肘、肩、くるりと前転して背中から尻へ。逃げ惑う足音、轢き殺した個体の悲鳴。千を超える【D】に囲まれたとしても、パルクールの着地時にすべきことは変わらない。

 美しいまでに完璧な着地を決めた次の瞬間、振り返り、声を張った。


「西村さん、降りて! 俺が援護する!」


 配管から飛び降りる小柄な身体。教えられた通り、ちゃんと胸を反らして落ちていく。手を構え、地面に着地――次の瞬間、左肘から転がっていく。

 だが、途中で数匹の鼠が飛びかかり、西村は床へ引きずり倒されてしまった。


「やっ 嫌、やめてっ」

「手を! すぐ起きて」


 一斉に飛びかかろうとする鼠たちを、太刀で斬り伏せる。よろめきながらどうにか起き上がり、西村も太刀を抜いた。


「足は痛くない? ちゃんと着地できた?」


 動きはたどたどしいが、西村はちゃんと太刀を鼠へ突き立てている。翼が、付きっきりで訓練をした成果だ。


「捻ったけど、もう治ったで」

「それじゃ、ここを拠点に戦おう。もし、その配管から増援が来たら教えて。前からの増援は、俺が引き受けるから」

「任せてや」


 三体同時に切り捨てながら、柊は無心に刀を振るった。

 既に、持久戦へ持ち込まれかけている。一刻も早くシャッター前を制圧し、コアを探しに行かなければ――。

(上から見たとき、つばさのすぐ傍に伊織いおり柳沢やなぎさわさんがいた。あの二人なら、きっと翼をフォローしてくれる)

 焦燥感に煽られるように、目の前の鼠を勢いよく踏み殺した。

(早く、少しでも早く。少しでも多く、少しでも前へ)

 自分が奮闘することで、西村の負担を減らしたい。ほんの僅かでも、翼が負傷する可能性を減らしたい――その想いで、慣れない太刀を振りかざす。

(翼も、西村さんも、どっちが怪我をするのも嫌だ。二人が負傷するくらいなら、俺がダメージ喰らったって構わない)

 肩で息をしながら、周りを取り囲んでいた最後の一匹を切り捨てる。後ろからの増援がないおかげで、予想よりは柊の負傷も少なく済んでいた。

(西村さんが頑張ってくれたおかげだ)

 礼を言うついでに転戦の指示を出そう、と振り返ったところで、柊の喉が、ひゅっと音を鳴らす。

 手にしていた太刀が、床へ転がる。びっしりと埋め尽くしていたはずの鼠は、柊の奮闘によって、一時的に数を減らしていた。とはいえ、数メートル先では、既に次の群れが迫ってきている。

 しかし柊は、太刀を拾うことさえ忘れ、ぽっかりと開いた配管の口を見つめることしかできなかった。


「西村、さん……?」


 壁には、誰のものか分からない血飛沫の痕があるばかり。

 配管の入り口には、血濡れた手の痕が一つ。

 悲鳴に怒号、仲間を呼ぶ声、刃が空を切る音、耳を覆いたくなほど大量の足音が地響きのようにこだまするなか、呼びかけに応じる声は聞こえない。

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