第98話 男装少女の流儀
九月の初め、いよいよ【D】出現予定日の朝が来た。
戦闘に参加する戦闘員は全員、早めに朝食を摂り、着替えを済ませることになっている。いつ出動のサイレンが鳴ってもいいように、個室か食堂のどちらかで待機、と決まっていた。
食事の後、
西村は快くドアを開ける。戦闘服のチェックしてもらう約束を、翼としていたのだ。
ドアを閉め、二人はベッド脇へ並んで立つ。そうして、どちらともなく支給品の作業着を脱ぎ始めた。
「前も思うたけど、この戦闘服、普通の布より、妙に固い感じするなぁ。色も、真っ黒と
「これは、
「ふふっ 男装といい、檳榔子黒といい……ゲン担ぎの好きな組織やな」
普段の下着は自由だが、戦闘時は指定の支給品を着用する義務がある。
装飾のない黒のブラジャーと、一分丈の女性用ボクサーショーツ。その上から、同じく黒い
西村の背丈は、百五十あるかないか、というところだ。しかも十八歳なので、既に第二次性徴を終えている。胸も腰も丸みを帯びているし、細いながらもふわふわと柔らかそうな太ももが目に眩しい。
当然、支給された
「なんで、窮屈な想いまでして男装せぇへんとあかんのや。逃げ遅れた一般人なんて、滅多おらへんやろ」
「
「せやったら、やる意味はあるな」
西村の隣に立つ翼は、包帯のようなものを鞄から取り出すと、自分の身体へ巻き付け始めた。ミイラのようないで立ちに、シャツを掴んだ西村の手が止まる。
「班長はん痩せてるし、そこまで補正する必要あらへんやろ」
「ああ、これは補正のためじゃないんだ。後でまた説明するけど、これは少しでも防御力を上げるための……現代の
「ふぅん。そうかぁ」
防御を固めた上から、
そうしてやっと、翼は黒のカッターシャツを手に取った。ボタンを一番上まで留め、同じ色のズボンを履く。靴下やベルト、ネクタイといった小物に至るまで、全て黒~濃灰のグラデーションに染められている。
軍靴を履き、黒革の
「班長はん……」
感嘆のため息交じりの声に、ネクタイを軽く直していた翼も顔を向けた。
成人女性の平均身長よりかなり小柄な西村に対し、平均よりも背が高い翼。今の翼は、凛々しい少年、そのものだった。
長い前髪の隙間から覗く、大きく澄んだ瞳は、知性と強い意志を感じさせる。長いまつげ、瑞々しい桜色に染まる頬、透き通るように白い肌は少女らしさを。きりりと結ばれた肉付きの薄いくちびるや、細くまっすぐな眉は、少年らしさを感じさせた。
贅肉の一つもない身体、整った鼻梁、長い手足――もしも、人の美醜を決める神がいるとすれば、間違いなく彼女はその神に愛されているであろう、完璧な造形だ。
それは間違いなく、翼の異母姉である
しばらく見つめ合った後、ふと我に返った西村の頬が赤く染まっていく。
「えらい美少年やね。女同士と分かっとっても、ドキッとさせられるわ」
「違うよ、西村。戦闘服を着た以上、君も私も――男だ」
心なしか、声も普段より低く感じられる。
翼は西村の肩に手を当てると、ベッドの縁へ座らせた。ヘアブラシはあるか、と訊ね、シャワールームに併設された洗面台から持ってくる。
西村の背中のなかほどまである黒髪を櫛削りながら、翼は話しかける。
「男装する一番の理由は、テキストにある通りだ」
「確か……
「そう。弟の
「なんや、きょうだいで喧嘩しとんのか」
神様も喧嘩くらいするだろう、と翼は薄く笑った。
話ながら、西村の長い髪を黒いヘアゴムで一つにまとめていく。
「勿論、そういうゲン担ぎの意味合いもあるだろうね。けれど、男装する理由は他にもある」
「たとえば?」
「少し話がズレるけれど。西村は、ここへ来る前は社会人だったんだろう? お化粧をしたことはあるのかな」
翼の問いかけに、西村は軽く肩を竦めてみせた。
「十八歳なると、政府主催のお見合いに参加する義務があるやろ。すっぴんで行くわけにもいかへんし、口紅くらい持ってたで」
「そういうお見合いは、楽しめていた?」
「ふふっ 義務ちゃうかったら、絶対行かへんな」
「……そうだね。君の体質を考えると、軽い気持ちで異性と付き合ったり、結婚するのは難しいか」
ちらり、と視線を肩越しに流した西村の口もとには、笑みが張り付けられている。だが、そのまなざしは醒めていた。
「相手が人体破壊系の性癖持っとったり、刃物持ちだすレベルのサディストやったら、地獄が待っとるやろ」
「そうだね。ところで、西村の容姿なら、何もしなくても大概の着飾った女性より美人だと思うけれど」
「ただの一般常識としてや。男の気ぃ引きたくて、
「――そう。たとえば西村がしていた化粧は、“私は普通の人です”、と周囲にアピールするための
「せやな」
ヘアネットで髪を一つにまとめてやる。これなら、ヘッドギアを被るのに邪魔にならないだろう。西村の髪型を整えると、翼もベッドの縁へ腰を下ろした。
軍靴の編み上げ紐を確認しながら、先を続ける。
「化粧には、色んな意味がある。異性を惹きつけるため、自分に気合いを入れるため、一般常識があるとアピールするため。或いは、神と交信するときや、戦いに挑むための化粧もある」
「戦いの化粧?」
「古代の人々は、狩りをするときに、顔や身体へ特殊な泥を使って化粧を施したんだ。そうすることで、“自分は誇り高き勇猛な戦士だ”と自己暗示をかけた」
「神様と交信ってのは?」
「シャーマンや巫女も、特殊な化粧を施すことがある。これも、自分とは別人になるための手段、と考えられている」
隣に座る翼の横顔を、西村は見つめていた。
いつもの穏やかで爽やかな少年ではなく、そこにいるのは、国のために命を捧げる凛々しい少年兵だった。
「私達は男装することで、自分は守られる側ではなく、神の加護を受けて戦う護国の戦士だ、と自己暗示をかけているんだよ」
「守られるんと
しばらくして、西村は小さく頷いた。
その表情は、これまでになく真剣なものだった。
「うちも、これ着てる間は兵隊として気張るわ」
「ああ、期待してるよ」
そう言って、翼は目を細めてみせた。このところよく見せていた戸惑いの滲むものではなく、力強く、自信に満ちたまなざしだ。
差し出された白い手を、西村の華奢な手が掴む。
ぎゅっと手を握ったまま、二人はしばらく見つめ合った。
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