第97話 失ってより一層、哀しみの深いほう

 しゅうが復帰してから、二週間が経過した。

 想定通り、黒木くろき西村にしむらにちょっかいを出したのは三回。

 一度目は、柊が一対一タイマンで黒木を抑え込もうとして、一撃でノックアウト。まさかの敗北。自警団の訓練と実践の違いを、床の味が教えてくれた。

 二度目は体育館を模した訓練場で起きた。訓練場から逃げ出そうとする西村、黒木が追い、更にそれを柊とつばさが追う、という三つ巴の争いへ。最後は柊が捨て身のタックルで黒木を潰し、西村は難を逃れた。

 そして三度目。弓道場の隅に置かれた練習用の巻き藁を使っていた黒木が、突如、西村を射ようとした。翼が腕を引っ張り、難を逃れる。

 道場内にいた柊が慌てて飛び出すと、小柄な隊員が、長身の黒木の側頭部目がけて飛び蹴りをかました瞬間だった。

 小柄な隊員――柳沢やなぎさわの鋭い蹴りをニタリと不気味な笑顔で受け止めると、黒木は柳沢を壁へ投げ棄てた。慌てて柊が駆け寄ると、柳沢は既に立ち上がり、構えの姿勢を取ろうとしていた。


「てめえ、ふざけんなよ! 矢ぁ向けるとか、頭イカレてんのか!?」

「ふふん……なぁに、急に。おまえも、あの西村とかいう女々しい年増新人を詰ってたクチじゃなかった?」


 黒木の指摘は、もっともだった。

 柳沢は当初、西村を悪しざまに言っていた一人のはずだ。だが、柳沢は赤くなった額を擦りながら不敵な笑みを浮かべる。


「るせぇ。アタシは、努力しねぇバカが大嫌いなんだ。訓練に出るようになった西村と、ふんぞり返ってる黒木てめぇとどっちが嫌いか、考えるまでもねぇ!」

「うふん、西村みたいな足手まといなんて、ゴミも同然でしょう。だから処分しといてあげようかと思っただけじゃないの~」

「上等だ。売られた喧嘩は買え、って、とーちゃんの教えだぜ!」


 一触即発かと思われたそのとき、黒木の隣で矢の練習をしていた伊織いおりが、鋭い掌底突きを放った。

 まさか黒木も、それまで無反応だった伊織が柳沢へ加勢するとは予想しなかったのだろう。まともに掌底が顎へヒットし、よろめきながら床へ倒れこんだ。

 獲物を横取りされた形となり、怒りの矛先を失った柳沢に殴りかかられじゃれつかれながら、柊は訊ねる。


「あ、あの、なんで西村さんを庇ったの? って、痛っ」

「あん? だーかーら。アタシは努力しねぇ奴が嫌いなんであって、弱い奴はムカつくけど、別に嫌いはしねぇよ」

「ちょっ 目つぶしはヤメて」

「弱いものイジメとか、ダサすぎだしな。けど成田の野郎、横取りしやがって!」

「痛い痛い。そのローキック、見た目以上に痛いから」

「るせぇ! 男みてぇな顔して泣き言いってんじゃねぇー!」


(理不尽すぎる……っ)

 けれども、柳沢が西村の味方に付いてくれたことは、大きな前進だった。彼女は、若手グループのリーダー的存在でもある。そんな柳沢が西村を受け入れてくれたおかげで、若い隊員たちが、西村と普通に話してくれるようになった。

 どの隊員も、新人に毛が生えたような者ばかりだ。口にはしないだけで、【D】と戦うことが恐ろしい、という西村の言葉に共感する者が多いのだろう。

 柊の提案通り、西村はパルクールの練習に務め、座学も真面目に受けている。前衛の訓練は、翼に太刀の抜き方から習っているようだが、本人なりに頑張っているのが表情からも伝わってくる。

 西村を守るとき、何も言わなくても翼は柊と連携を取ってくれる。違う班になっても、伊織は加勢してくれた。それを見た結衣ゆいも、西村への態度を軟化させてくれた。

 前回が十六名(うち、新人の西村は戦力外)だったのに対し、今回は十九名/五班での戦闘となる。しかも、柊たち五班のメンバーは据え置きで変更がなかった。

 全て、順調に進んでいる。

 それなのに、伊織に見せ場を奪われたことへ不満を呟く柳沢を宥めながら、柊の背中はどうにも冷たい風を感じていた。屋内なのだから、風を感じることなどあり得ないのに。

(……翼と全然、目が合わない)

 言い過ぎたのは、自分でも分かっている。

 正論は凶器、と声だけの妹には何度も言われていた。

 だけど、翼のために誰かが言わなければならないことで。

 翼に夢を叶えてほしかったからこそ、口にしたわけで。

 現場指揮官になりたい、と真剣に願う翼には、それを理解してもらえると思ったからこそ、キツい現実を突きつけたわけで――。

(翼がなにを考えてるのか、全然分からない……)

 空っぽな笑みを張りつける柊を、さかきは道場から見つめていた。

 教官たちが黒木を取り押さえ、廊下へ連れ出す。それでも、柊の表情は晴れる気配がなかった。


――――――


 居住エリアのある地下九階と同じ一角にある、カウンセリングルーム。柊がそこを訪れるのは、二度目だった。

 何故か用意されていた青いバランスボールに座る柊と、ミニキッチンで珈琲を淹れている明彦あきひこ。彼の背後には、灰色のバランスボールが置かれている。

 ぼよんぼよん、と反発するボールに乗りながら、柊は問いかけた。


「榊小隊長に、ここへ来るように言われたんですけど」

「ほら、十日くらいルームシェアしていたのに、急に顔を合わせなくなったら、なんだか寂しくなっちゃってね」

「治療観察は、ルームシェアって言わないんじゃ……」

「まあ、そう固いことは言わずに。ほら、珈琲を淹れたよ」

「それ、榊小隊長の私物なんじゃ……」

「大丈夫だって。怒られるのは僕だから」


 頬を引き攣らせていた柊も、ローテーブルに湯気を立てるマグカップを置かれると顔色が変わる。鼻腔をくすぐる芳醇な香り。深い焦げ茶色の液体を前にした途端、初めて珈琲を口にしたときの記憶が鮮明に蘇る。

 基本的に、娯楽に乏しい地下暮らしにおいて、舶来品は夢の品だ。

(榊小隊長、すみません。美味しくいただきます!)

 マグカップを握る。指がすぐに熱くなるが、そんなもの構わず、白い湯気を吸い込む。焙煎された豆の香りが、胸いっぱいに広がった。舌や口蓋が悲鳴をあげるのを無視して、夢中で啜る。

 食道を一気に滑り落ちていく、地獄のように熱く苦い液体。その後から、香ばしさと酸味が追いかけていく。マグカップの半分ほどを飲み干したところで、ようやく柊は、深いため息を吐いた。


「はぁぁ……」

「お代わりもあるよ」

「いただきます!」


 明彦は眼鏡の奥の瞳を細め、肩を揺らした。自分のマグカップをローテーブルへ置くと、よっこらしょ、と声を掛けながら灰色のバランスボールへ腰を下ろす。が、つるんと滑り、床へ強かに腰を打ちつけた。


「いったたたた……」

「だ、大丈夫ですか、榊先生」

「ははは。この部屋の床、いつの間に氷のリンクになってたんだい?」


(いや、なってないと思います)

 腰を擦りながら、明彦は慎重にバランスボールへ座った。いつになく真剣な表情で、バランスを取っている。やがて落ち着いたのか、明彦はテーブルに置いていた自分のマグカップを手にした。

 明彦が一口啜るのを待って、柊は話しかけた。


「それでその、俺が呼ばれた理由って?」

「……君、榊くんともめてるよね」


 きゅっと口を閉じた柊を見て、明彦はざっくばらんな笑みを浮かべた。


「僕は、榊くんの遺伝子上の父親だけど、今は佐東くんの主治医としてここにいるんだ。守秘義務は守るし、個人的見解を押し付けるつもりもないよ」

「はぁ」

「そこは、僕を信用してもらいたいな」


 穏やかに語りかける明彦を前に、数度、目をしばたかせる。

 初めて会ったときも、左足を喪失ロストして監視体制になったときも――明彦は、いつも公平だった。悪い情報も、良い情報も、そこまで喋るのか、と思わされるほど明け透けに話してくれた。

 自分へ言い聞かせるように、深く頷く。そうして柊は、重い口を開いた。


「次の現場指揮官が藤波ふじなみさんにほぼ決まった、って翼から聞かされたんです」

「ああ、そうなの。僕、小隊内の人事は一般職員並みにしか知らなくてね」

「そのとき、榊小隊長が翼に、“指揮官になるには致命的な欠点がある”みたいなことを言ったらしくて」

「で、君はそのときどんな反応したの? シカトしちゃった、とか?」

「そんなわけないですよ。翼はそういう話を簡単に他人へする人じゃない、て俺も分かってるし。翼の力になりたかったし……」


 バランスボールの上でゆらゆら揺れながら、明彦は続きを促すように頷く。


「じゃあ、ハグしようとして拒否られたとか」

「ちょっ そんなことするわけないでしょう!」

「君の世代だと、頭ぽんぽん? ほっぺをぷにぷに? けど、首から上はパーソナルスペース的にハードルが高いから、初心者にはお勧めしないなぁ」

「だから、そんなことしませんって!」

「スキンシップをしなかったのかい? じゃあ、失敗だ」

「はぁ?」


 こちらが元ぼっち(今も、ギリギリ脱しただけでコミュ障なこと自体は変わらない)だから、からかってるのだろう。そう思って、柊は苦笑しながら明彦を見た。

 しかし、明彦は心底呆れた様子でこちらを見つめている。

 こんなときにジョークなんて、と出かけたセリフが喉の奥へ引っ込んだ。すると明彦は、眼鏡を外し、目頭を指で押さえながらため息を吐いた。


「はぁ……地下世代って、ほんとーぉに可哀想だよね」

「え? な、なにがですか?」

「六歳で男女別の小学校に分けられたら就職するまで、たまに面会に来る家族以外、異性を見ることさえなく十年近く暮らすんだからさ」

「そうですけど」


 このご時世なら誰だってそうですよね、と首を捻る柊を前に、明彦は腕組みをしながらバランスボールを弾ませた。


「男と女はものの考え方や感じ方が違うんだよ。それは、知ってる?」

「妹がいた頃、よく怒られてたんで」

「榊くんが愚痴を吐いた。という状況は、理解できたんだよね?」

「はい。で、翼の力になりたいから、俺にできる最大限のアドバイスを――」

「うん……男同士なら、それで正解だ」


 ストップ、というように、明彦は両手を開いて見せる。

 話を遮られた柊は、怪訝そうに眉をしかめた。


「正解ですよね? 翼は誰にでも頼るタイプじゃないし、頭だって良い。それでも解決策が見つからないから、俺に相談した・・・・んでしょ?」

「じゃあ、これは『一般論』として聞いてほしいんだけれども」


 取りなす明彦の言葉に、柊は不機嫌そうに目を細める。

 そんな表情一つ一つさえも、明彦は興味深そうに観察していた。


「一般的に、女性が相談したり、愚痴を吐いたとき。それを聞かされた男には、二つの行動しか求められていない」

「二つ?」

「“大変だね、頑張ってるね、つらかったね”という共感と、“大丈夫、俺は味方だよ”と言ってスキンシップをすることだけだ」

「はぁ!? て、うわっ」


 あまりの動揺に、バランスを崩してボールから落ちる。強かに打ち付けた腰を擦りながら、柊は目を丸くして明彦のほうを見つめていた。


「いや、あの……“大変だね”って俺が言ったからって、翼が指揮官になれるわけじゃないですよね?」

「そうだねぇ」

「翼が頑張ってるのは、誰でも分かってるし、指揮官を目指してるのに適性がない、なんて言われたら、誰だってつらいですよね?」

「間違いないねぇ」

「そういう、分かりきったことを俺が言ったからって、翼の指揮官適性が上がるわけじゃないですよね?」

「上がらないねぇ」


 明彦の返答に、柊は頭を抱えてしまった。

 隣に置かれていた青いバランスボールが、コロコロと転がっていく。


「なんでそんなこと言われたいんですか? 意味が分からない」

「僕もだよ。何故、女性はそう考えるのか――というメカニズムなら、学術的に説明できるけどさ。だからって、納得はできないよね」

「じゃあ、どうしろって言うんですか」

「君の好きにすればいい」


 目の前へ転がってきた青いバランスボールを、明彦は抱きかかえた。ゴムでできたそれを軽く見つめた後、床にへたり込んでいる柊へ、弓なりの軌道で投げる。

 受け止めると、予想よりも強い衝撃が感じられた。


「面倒くさいと思うなら、そのままでいい。榊くんに寄り添いたい、と思うなら、共感してあげればいい」

「……寄り添え、って言わないんですか?」


 疑うようなまなざしを向けた柊へ、明彦は両手を広げながら肩を竦めた。

 その頬には、いつもの微笑みが浮かんでいる。


「僕は榊くんの父親でもあるけど、今は、佐東さとうくんの主治医だからね。君に過剰なストレスを与えることはないし、無理強いする気もないよ」


 受け取った青いバランスボールを、柊はじっと見つめた。

 あまり新しくはないのだろう。よく見ると、あちこち擦れたような痕がある。柊の腕でも一抱えはある大きさのゴム製のボールを、垂直に投げた。

 ボールは天井付近まで跳んで、まっすぐ落ちてくる。キャッチして、また投げる。その動作を繰り返しながら、柊は呟いた。


「二つの選択肢で、どっちにすればいいか迷ったとき、榊先生はどうしますか?」

「ははは。迷った時点で、どっちを選んでも後悔するのは決まってるんだけどね」


 柊が投げるボールは、正確な軌道でまっすぐ天井ぎりぎりのところまで跳ぶ。

 同じ動きを繰り返す青いボールを、明彦はじっと見つめているように見える。だが、そのまなざしはもっと遠くを眺めているような雰囲気もあった。


「失ってより一層、哀しみの深いほう――僕はそれを選んできた」


 バランスボールをキャッチしたところで、柊は明彦のほうへ視線を戻した。

 明彦は開いた足に肘を突き、手を目の前で組んでいる。


「例えば今回なら、榊くんに寄り添おうと心を砕いたせいで、佐東くんが追い詰められてしまうかもしれない。余裕がなくなると、あれこれ失うものも多いから。逆に、榊くんに寄り添わないことで、の心が君から離れてしまうかもしれない」


 それは、どちらも現実に起こり得る未来の仮定だった。


「両者を比べたとき、現実に起きたら自分が哀しむだろう、という未来を阻止してきた。儲かるとか、他人の評価とか、自分のプライドじゃなくてね」

「利益とか、評価とか、プライドじゃない……」

「それでも、人生に後悔は尽きないけど」


 ふいに立ち上がると、明彦はミニキッチンへ向かった。

 ドリッパーを乗せたサーバーを手に、戻ってくる。その間に、柊はバランスボールへ座り直していた。

 明彦はサーバーからマグカップへお代わりを注いでくれる。焦げ茶の液体が注ぎこまれていくのを、いつになく真面目な顔つきで柊は眺めていた。明彦が珈琲を注ぎ終えた後も、しばらく動く様子はなかった。

 マグカップから湯気が消えた頃、ぽつり、と前触れもなく柊が呟いた。


「……翼が指揮官に向かない欠点って、知ってますか?」


 明彦は口を閉ざしたまま、眼鏡を中指で直した。


「推測でしかないけど。二つ、思い当たるものはあるかな」

「教えてください。今聞かなかったら、きっと後悔するだろうから――」

「いいよ。これは、榊くんの父親として、君に打ち明けておこう」


 一拍おいて、明彦は低い声を発した。


「榊くんは、他の隊員の半分以下の治癒力しか持たないんだよ」

「…………え?」


 聞かされた言葉を消化できず、頭の中をぐるぐる言葉が回る。

 心臓を、ぎゅっと鷲掴みにされたような痛み。だらだらと気持ちの悪い汗が沸いてくる。


「どの能力に、どれだけ上昇バフを与えられるか、は個人差があるんだ。前衛向きの能力の子、後衛向きの能力の子、総じて低い値しか貰えない子、西村くんのように回復力しか与えられない子もいる」


 それは、何となく柊も感じていた。

 伊織のように、身体にも恵まれ、そして前衛向きの能力が総じて上昇バフされた隊員がいる。

 その一方、結衣のように、明らかに戦闘に向かないであろう身体に、高い集中力や動体視力、強い体幹が与えられた隊員も存在する。柳沢も、そのタイプだろう。

 しかしその反面、西村ほどではないが、戦闘についていくので精一杯、という雰囲気の隊員も多くいる。能力値上昇には個人差がある、という点は納得できた。


「榊くんは、戦闘に必要な全ての能力値が極めて高く上昇バフされた反面、自己治癒力と防御値がほとんど上昇バフされてないんだ」

「ほとんど、って」

、いつも大怪我して帰還するでしょ。他の隊員なら戦闘中に治る程度の怪我でも、榊くんはそれが全て、戦闘後まで尾を引くんだ」


 あっ、と声が口から洩れる。

 思い返せば、翼はいつも怪我をしていた。

 二人が出会ったとき、山犬型【D】を一刀両断にした美しい体捌き。自警団の柊が一目見ただけで、エースと分かる動きだった。だが、基地で出迎えてくれた翼は、眼帯をしてあちこちに包帯を巻いていた。

 八咫烏ヤタガラス戦も同じだ。いつの間にか、翼は肋骨を折っていた。

 八岐大蛇ヤマタノオロチでは、基地の屋上に来たとき、翼は何故か車椅子に乗っていた。

 流水のごとき華麗な動きを見ていると、並大抵の相手では、大きなダメージを食らうようには思えない。だから、いつも不思議だった。あれだけの大怪我をいつの間に負っていたのだろう、と。

 だが、それは自分と同じくらいの防御力や治癒力がある、という前提の話だ。

 翼と言えども、ノーミスで戦闘を終えるわけではない。果敢に斬り込んだ結果、カウンターで吹っ飛ばされる姿は何度も目撃した。


「じゃあ、まさか……翼は他の隊員よりも死にやすい、ってことなんですか?」

「うん。それと指揮官が死んだら、隊員の士気は大きく下がるでしょう。だからは、体質的に指揮官適性が低い、と判断されても仕方ないんじゃないかな」


 信じられない、信じたくない、という想いが柊に首を振らせた。


「ウソだ……ウソですよね、そんな」

「覚醒時の検査でそのことは判明していたし、榊くんには、僕が伝えている」


 柊の脳裏に、十日前の惨状が蘇った。

 ――私の左足を、君に捧ごう。

 そう言って、翼は握りしめた刃を、自分の左足へ突き立てた。

 片足を喪失ロストし、その再生には臨界速ダブルギアを使わなければならない、と聞かされた柊が、発狂の恐怖でそれを拒否していたから。

 傷口を柊に抑えられながら、翼は、こうも言った。

 ――奇跡の1つくらい、起こしてみせるさ。私と君が出逢ったことが、偶然でなくて必然ならば。

(翼は、自分が足を再生できないって分かってて、俺に足をくれようとしたんだ)

 さぁ……と血の気が引いていく。

 あのときだって、なんて危険なことを考えるのか、と狼狽した。だが、実際は奇跡を起こせばどうにかなるようなものではなかった。あのとき明彦は、部下たちへ縫合を指示しながら、どんな思いで翼を見ていたのだろう。

 柊のくちびるは、血の気が失せて青ざめていた。


「なんで…………どうして翼は、俺に足を……」


 両手で口もとを押さえる。だが、心の乱れが指を震わせた。

 そんな柊の様子を、明彦は静かに見守っている。


「君を失うことのほうが、自分が戦えなくなるより哀しかったからだよ」

「翼が自分で言ったんですよ。覚醒して、戦い続けて、指揮官になって、榊小隊長の支えになるためだけに自分は生まれてきたんだ、って!!」

「僕も聞いたことがあるよ」

「なのに、俺が戦えなくなることのほうが哀しいなんて。なんでそんなこと」

「……それ以上は、僕の口からは言えないよ」


 ぽん、と大きな手が柊の肩へ置かれた。

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