第94話 変わっていく関係

 ドスン、と大きな音と共に、黒い作業着を着た隊員が床へ転がった。ぎゅっと目を瞑りながら呻き声を上げているのは、西村にしむらだ。


「……もうっ! 佐東さとうにできたらうちにもできる、なんて嘘やんっ」


 落下地点からさほど離れていないところに立つ、しゅうつばさ。三人は午前の自主訓練の時間を、西村のパルクールの指導に費やしていた。

 ヘッドギアの副作用がなくなったとはいえ、飛躍的に上がった瞬発力や俊敏さに身体が慣れるには時間が必要だ。まして、元からあまり運動神経の良くない西村は、何度も何度も何度も何度も……基本的に全ての動きで怪我をした。

 障害物から落ち、バーに身体を強打し、バーを握ろうとした手を捻り、テラスから落ち、受け身を取り損ねて肩を外し、よく見ないで走ったせいで障害物に激突し、頭から落ちそうになって足を折り、登り切れずに腰から落下し……だが、全ての怪我が治療もせず、たちまち治っていく。

 今も強打した左肘を擦っているが、恐らくこのやり取りをしている間に治ってしまうのだろう。ダブルギアとしては平均的な回復力の柊にとっては、何度見ても信じがたいスピードだ。

 痛そうに肘を擦る西村へ、柊がアドバイスをする。


「西村さん、もっとちゃんと対象物を見て。どこを握るのか、どこを跳ぶのか、どの空間に身体を通せばいいのか……」

「そんなん戦場で考えとったら、化け物の腹ん中やで」

「それは本番の話でしょ。練習中は、位置取りや手順も考えてやらなきゃ」


 女性としても小柄で華奢な西村の身体は、こうして支給品の作業着とヘッドギアを被っていると、小学生の隊員と言われても違和感がない。サポーターを外せば、年齢相応に柔らかな曲線のある身体をしているのだが、それにしても筋肉量が圧倒的に足らなかった。

(筋肉は攻撃する時のダメージソースになるだけじゃなくて、単純に防具としても機能するからな……)

 華奢で筋肉もない西村は、ダメージをもろに食らってしまう。だが、それを上回る過剰なまでの回復力が、彼女を立ち上がらせていた。


「……もう一度や。二人とも、そこで見とってや」

「勿論だ。私も柊も、ちゃんと見ているよ」

「西村さん、もう少しでできるはずだから。今のも惜しかったよ」

「おおきに。ほな、声援よろしゅう頼むで」


 何度も失敗している、一番基本となる受け身の「ロール」。

 西村は、たった一メートルの高さしかない障害物によじ上ると、ヘッドギアを被った頭の少し上で両手を構えた。前転するときの構えと同じく、開いた両方の掌で三角形を作る。


「いーち、にーの、さん!」


 ぴょん、と飛び降りる。一メートルしかないので、すぐに地面が迫ってくる。

 両足で着地。ちゃんと右足を立てて、左足は膝を地へ着けている。そのまま右斜め前へ手を突き、前転する。左肘を曲げつつ、頭、背中、尻――くるん、と華奢な身体が転がった。

 多少、軌道がぶれてはいるが、どうにか回りきった。そのまま立ち上がると、西村は走り出す。数歩進んだところで脚を止め、振り返る。

 ヘッドギアのフェイスを上げると、満面の笑みが綻んでいた。


「どうや、今の!」


 翼と柊は目を合わせ、小さく頷く。二人の顔にも、自然と笑みが零れていた。


「そうだよ、西村。今のタイミングだ!」

「ほんま? 佐東はどう思う?」

「うん。ちゃんとできてたよ」

「ふふっ 嬉しい!」


 ぴょんぴょんと身体を弾ませる西村へ、柊が駆け寄り、幾つかアドバイスをした。そうしていると、午前の訓練の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 掛け時計を確認した翼も、二人のところへ合流する。柊と西村の顔を見た後、翼はいつもの笑みを作って話しかけた。


「西村。今日の午後は、座学の予定になっている。先ほど柊と約束したように、三人で受けるなら、全体講義に君も参加できるね?」

「……せやなぁ……」


 あまり気乗りのしない様子で、西村は口を尖らせた。


「あの黒木くろきってサイコパスとおんなじ部屋に入るのんは、自殺行為みたいで敵わんわ」

「西村さん……」

「けど、しゃあないな。あんたらと、約束してもうたもの」


 ぺろり、とピンクの舌を出すと、西村はヘッドギアを外した。

 長い髪を一つにまとめていたヘアゴムを外す。散々汗をかいているはずなのに、長い髪はもつれることなくさらさらと流れていった。


「その代わり、うちのこと絶対守っとぉくれや。約束やで」


 僅かに釣り気味な瞳で見上げられて、柊は気恥ずかしさから目を逸らしたくなった。だけど、ここは視線を外していい場面じゃない。

 余裕ぶっているけれど、西村の瞳は、不安で揺れている。その迷いを断ち切らせるように、柊はゆっくり深く頷いて見せた。


「約束する。黒木さんじゃなくても、誰かが西村さんを傷つけようとしたら、俺が絶対に止める」

「うん、頼りにしてるで」


 目を細めて微笑む西村から、今度は翼へ視線を向ける。

 翼は、腕組みをして壁の時計を眺めているようだった。


「残りの話は、ヘッドギアを管理部へ返却しながらにしよう。昼食の時間が減ってしまう。私や西村はともかく、左足の再生で身体が弱ってる柊は、しっかり栄養を取らないと」

「あ……すまんけど、うち、食堂には行きたない」

「西村さんの個室で食べるってこと? 食堂なら飲み物もたくさんあるし、トレイもすぐ片づけられて便利だよ?」


 不思議そうに、柊は首を傾げている。

 すると、西村の苦虫を嚙み潰したような表情で何か察したのだろうか。翼が代わりに答えた。


「黒木に箸を刺されたのが食堂だから、だと思う」

「そっか。あそこは箸の他にも、フォークやナイフなんかもあるしね」

「それもあるけど、やっぱし……少し居心地悪いわ」

「え?」


 きまりが悪そうに視線を床へ落とし、西村は軽く笑った。


「あんたの足が喪失ロストしたんは、うちのせいや、って思てる人も多いさかい。うちが顔を出したら、食堂の空気、おもなるわ」

「え? ……いや、俺の怪我は俺の責任で」

「うちかて、そう思うてるで。うちなりに、あの時点でできることはしたつもりや。班長はんが教えてくれた通り、“できることをするのが人間”やからな」


 一拍おいて、しかし西村は首を振った。


「しゃあないやろ。誰かて、自分より年上の奴が『戦いたない』なんて駄々捏ねてる姿、見たないやん」

「それは、西村さんが特異体質だって、みんな知らないから……」

「せやけど、それ知られるのも敵わんわ。回復力の高いうちを化け物の餌にしたら楽に勝てるんやないか、て考えるアホ、あん中に一人もいーひんなんて、誰にも保証できひんどっしゃろ」


 柊は、目を閉じて他の隊員の顔を順番に思い出していった。

 翼と自分は勿論、論外だ。殉職や離脱した隊員の墓守をする伊織いおりも、そんなことはしないだろう。結衣ゆいだって、口では西村を嫌いだとは言っていたが、そういう卑怯な手を使う子ではない。

 前回、同じ班だった柳沢やなぎさわ――彼女も、西村が嫌いみたいだ。だが、プライドが高い子だから、そういう戦法は取らない気がする。

(だけど、他の人はどうなんだろう……)

 西村が危惧するのも分かる。彼女より二ヶ月早く着任した柊でさえ、大丈夫、と言い切れるのはここまでだ。

 雰囲気的に、玉置たまき宇佐うさも大丈夫な気がするが、断言できるほど親しいわけでもない。逆に、黒木はかなり危ない気がする。

 指揮官を務める美咲みさきはどうか。少し前まで、柊は美咲のことを、皆のまとめ役的な綺麗なお姉さん、というイメージで見ていた。だが今は、その印象が少し違っていたのでは、と感じている。

(最古参の美咲さんは、黒木さんのことをよく知ってるはずだ。西村さんを刺したのもヤバいけど、宇佐さんが怪我した状況なんて、話に聞いた感じでも、悪意を隠そうともしてないようだし……)

 だが、黒木が大きなペナルティを受けた、という話は聞いていない。

 厳重注意なら受けただろうし、小隊長室へ呼び出されたり、反省文を提出したりもあっただろう。しかし、恐らくそれだけだ。

(翼なら、きっと榊小隊長に処分を訴えてる場面だ。でも美咲さんは、それをしてない……てことは、実力者のすることは、ある程度、黙認する可能性がある)

 そして、それ以外の隊員に至っては、柊は名前と顔しか知らなかった。

 どんな人で、誰と仲が良いのか、正確な年齢や戦闘員歴何年か――分からない。西村が自分の体質を隠したがるのも、それ故、態度が悪かった理由を弁解できないでいるのも納得できた。

(男ってことを隠すために人とかかわらないでいる俺と、西村さんは近い状態ってことなのか……)

 一つ頷き、柊は肩を竦めた。


「了解。じゃあ、昼飯は部屋に届ければいい?」

「おおきに。メニューは二つから選べるんやろ。美味しそうなほうで頼むわぁ」

「西村さんの好き嫌いとか、全然分からないんですが……」

「えぇ……研究所でお喋りしたとき、トマトは好かん、って言うたやないの」


 からかうような口調で、西村は柊の脇腹の辺りを肘で突いた。

 言われてみれば、翼は辛い物が苦手で、柊はシイタケが食べられない、という話をした気がする。


「あと、ナスビもあかん。肉より魚が好きや」

「ナスもダメ、魚派……了解」

「ほな、よろしゅう頼んます」


 ひらひらと手を振ると、西村は先に部屋を出ていった。

 軽く手を挙げ、それに応える。すると、ベンチ脇のテーブルへ、翼が近寄っていくのが見えた。テーブルに置かれた、自分が借りてきたヘッドギアを手に取る。

 柊へ背中を向けたまま、翼が話し始める。


「西村の昼食は、私が持っていくよ」

「え? あ、いいよ。俺が頼まれたんだし」


 ちらりと翼の左足を見る。

 柊が左足を喪失ロストした翌日。足を捧げる、と言って、翼は自分の足へ刃を突き立てた。その傷は、どうやらまだ完治していないらしい。先ほど、西村へ見せようと軽く障害物を飛び越えたときも、明らかに左足を庇っていた。

さかき先生の話だと、骨には達してなかったらしい……それなら、あれから十日も経ったんだし、そろそろ治っててもおかしくないんだけど)

 もやもやと燻ぶる気持ちを抱えながら、柊は翼のほうへゆっくり歩きだした。


「足、まだ治ってないんでしょ。翼は休んでてよ」

「これくらい、大したことないさ」

「いやあの、左足を自分で斬り落とそうとするとか、大したことあるでしょ」


 ここまで話してても、翼はこちらを向かない。

(なんかヘンだ。絶対に変だ)

 疑念は不安へ変わる。翼は、悩みや苦しみを一人で抱え込む癖があるような気がする。真面目過ぎるからなのか、それとも他人を頼れないタイプなのか――恐らくは、両方なのだろうけれど。

 華奢な肩へ手を掛け、トントン、と軽く叩く。


「翼……俺に、なにか隠してない?」


 振り返らない。返事もない。

 それが答えだった。


「聞かせてよ。俺、翼の力になりたいからさ」


 かなり長い間、壁を見つめた後、翼が小さく頷いたような気がした。

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