第93話 できることをするのが人間

「それじゃ、まずは基礎となる①の『パルクール』について説明します」


 上擦りぎみな柊の言葉に、西村がわざとらしくため息を吐いた。


「さっきから気になっとったんやけど、説明するときに敬語使いだすんは何なん? 気色悪いで」

「人に教えるの、得意じゃないんで。質問以外は黙ってください」


 完全な棒読みに、翼と西村が目を合わせてクスッと笑いを押し殺す。

 それには反応せず、柊は緊張で頬を強張らせながらブーツの紐を確認した。


「長々と説明しても分からないと思うので、実演しながら喋ります。ちなみに今回は、敢えてヘッドギアなしでやります」

「なんで?」

「ヘッドギアなしで俺ができるパルクールの技は、西村さんもヘッドギアを使えばできるようになるからです」

「ふーん。なんでもええけど、機械みたいな喋り方やな」

「仕様です」


 西村の野次は無視しながら、さてどうしよう、と腕を組む。

 長野戦の前、翼の居合斬りを西村に見せたことがある。だが、西村はそれに関心を持たなかった。

 当時は西村に戦う気がなかったのも大きいが、恐らく彼女は高度すぎる技術を見せつけられても、「自分には関係ない、できそうもない」と感じてしまうタイプなのだろう。

 派手な大技より、ヘッドギアさえ使えば西村でも習得できるような基礎的な動きを見せたほうがよさそうだ。


「うちらはベンチに座っててもええ?」

「はい。ざっくりどんなものか、見ててくれればいいです」

「班長はんも隣どうぞ」


 西村と翼は、壁際のベンチへ腰を下ろす。

 それを横目で確認すると、その場で数度、跳躍した。着地の衝撃を膝で逃がしつつ、床を力強く蹴る。

 本調子ではないが、悪くない。

 悪くはないが、やはり左足が気になる。痛みとは違う、妙な感覚。大丈夫だよ、全然平気――敢えてそう主張されているような。

(意識しすぎないようにしながら、でも注意していかないと)

 柊が選んだ自主練室は、パルクールの練習ができる部屋だった。部屋の奥には、柵や手すり、段差に階段、ポールなどが不規則に並んでいる。これらは、瓦礫の山と化した市街地を想定したものだ。

(自分のリハビリのために選んだけど、ここで正解だったな)

 ゆっくりと歩きながら、人工的に作られた地形を把握していく。リハビリ用なので高度な障害はないし、一番高い部分でも、二階建ての高さに設置されたテラスくらいだ。自警団予備科の一年生が、基礎訓練に使う部屋と同レベルだろう。

(まあ、初めて習う西村さんには、これでもきついかな)

 後でバーの高さを調節してあげればいいか、と考えながら、一メートルほどの高さに設置された障害物をよじ登る。ここは自主練室の最奥だ。二人に対して横を向く形なので、受け身を取る姿勢が良く見えるだろう。

 軽く手を挙げ、始めるよ、と合図する。


「『パルクール』は、最小限の動き・最短の距離・最速で移動を行う『移動術』です。最初に、基礎となる“ランディング”という着地術と、走行技を幾つか見せます」

「そのくらいの高さやったら、うちかて下りれるで」

「うーん、どうやって?」

「縁に座ってよいしょって……滑り落ちるわ」

「それだと時間がかかるでしょ。最速でもないし、最小でもない。暗殺任務中の忍者の移動をイメージしてください」


 そう言うと、柊は静かに飛び降りた。

 宙返りを入れるでもなく、身体を捻るわけでもない。重力に身を預け、地面へと近づいていく。僅か一メートルの段差だ。本物の市街地では、二メートル以上の落差が当たり前だが、今は受け身の姿勢を見せるためなのでこの程度でいい。

 空中で手を構え、着地の準備をする。

 肩幅に開いた足で着地。右足は膝を立て、左は膝を地につける姿勢を取る。ほぼ同時に、三角形を作るように両手を開き、今回は身体の右前方へ突く。衝撃を逃がすように前転を開始。右前方へ手を突いたので、左肘を曲げて地に着け、左肩を中心に前転していく。

 背中、臀部、足の順で受け身を取ることで、落下の衝撃を分散させるだけでなく、次の行動へスムースに繋げられる。“ロール”と呼ばれる、パルクールの基礎となる受け身だ。


「一見すると地味な動きですが、熟練すればするほど、ただ移動しているだけのような感覚で、どんな瓦礫の山も越えていけます」


 西村の目にはきっと、柊が着地と同時に美しい前転をしただけのように映っているはずだ。大したことないように思えるが、技術を磨いていけば、三メートル以上の高さから飛び降りることも可能になる。

 瓦礫の山やスクラップ同然の乗用車が障害物として立ちはだかる市街地において、高低差を気にせず移動できる受け身の技術ランディングは、ダブルギア戦闘員や自警団員に必須の技術だ。

 立ち上がると同時に走り出し、次は花壇を模した形のブロックへ向かう。


「移動術として有名なものには、『パルクール』の他に、『フリーランニング』もあります。でも、俺たちダブルギア戦闘員が習得すべきは、パルクールのほうです」


 花壇を模した形のブロックの縁へ手を掛けながら、説明を続ける。

 左手で花壇の縁をグリップすると、右足を同じく縁へ乗せる。素早く左足を上げ、前へ――飛び越えるのではなく、踏み越えていく感覚。この無駄のない動きが、速度を生み出していく。


「アクロバット要素の高いフリーランニングと、効率や速度重視のパルクール。自分の身体一つでどんな場所でも移動できる、という点は同じです」


 地面と平行に設置された、鉄棒に似たバー。高さはちょうど柊の胸の辺りだ。

 それを両手でグリップすると、膝を引き上げ、バーに両足を乗せる。本来なら一呼吸で飛び越えていくのだが、西村にはこれくらいでちょうどいいはずだ。

(というか、たぶん頑張ってもこれ以上はできなそう)

 バーをひらりと飛び越えると、今度はセンターラインの引かれた壁へ。


「派手さや技の自由度はフリーランニングに劣る一方、完走する速度や体力の温存、隠密性という点では、パルクールのほうが優れています」


 スノーボードのハーフパイプのように、急角度でせり上がる壁。それを勢いよく小刻みなピッチで駆け上がり、二階建て部分に当たる床を掴む。


「整備された道を走るなら、車やバイクのほうが速いです。でも、荒れ果てた街を移動するなら、パルクールに勝るものはありません」


 肘を曲げて身体を引き上げていく。足で壁を蹴り、反動をつけながら。ある程度までくると、曲げていた腕をぐいっと伸ばす。西村が言葉を挟む暇もなく、柊は二階のテラス部分へ上がっていた。

 一つ一つの動きは、難しそうに見えない。

 それは、自警団予備科から訓練を続けてきた柊のパルクール技術が、一分の隙もなく研ぎ澄まされているから、というのもある。

 模範演技を見ていた西村の口は、ぽかん、と開いたままになっていた。


「ほんま……忍者やな」


 彼女の隣に座る翼も、頼もしそうな目で模範演技を見守っている。小さく頷き、説明を補足してくれた。


「パルクールの習熟は、戦闘員の生存率を大幅に上げる。君が移動し続けることで、【D】の標的になる確率は下がる。そして、標的になったときに逃げ場を失わないためにも、移動術は必須だ」

「……まさか思うけど、うちもあれをやるんか?」

「そのための模範演技デモンストレーションだよ」

「アホか! 五十メートル走るんに十三秒かかるうちに、あんな忍者ごっこができるわけあらへんやろ」


 嫌そうに眉をしかめる西村を見ながら、柊は二階の高さに設置されたテラスを歩いていく。

 言葉での説明は苦手だ。説得は翼に任せておこう。


「大丈夫。この程度の段差なら、失敗してもダブルギアの回復力ならすぐ完治する。西村ならきっと、二階から落ちても、頭から着地さえしなければ死なないよ」

「せやかて、もし頭から着地したらどうするんや!」

「宙返りやひねりを多用するフリーランニングと違って、パルクールにそういう技はない。基本に忠実にやる限り、西村が練習で死ぬ危険はないよ」

「本番で死んだら、元も子もないやんっ」

「移動を制する者は戦いを制する――戦いの基本だ」


 翼はそう言いながら立ち上がった。

 左足を少し気にするような動きで、障害物代わりのバー目掛けて走る。

 ガードレールと同じ高さのバーを右手でグリップ。バーと平行に身体を保ち、障害物に近いほうの右足を振り上げ、飛び越える。

 左足が着地したときに僅かに身体が傾きかけたが、最後に残した左手でバーをしっかり押すことで、バランスを保った。

 翼はそこで足を止めると、不安げな顔でベンチに座る西村へ振り返る。


「――やりたいことをするのが神で、できることをするのが人間だ」


 その言葉に、二階部分を歩いていた柊も足を止める。


「誰かの名言なん?」

「一介の兵士からフランス皇帝にまで昇りつめた、ナポレオン・ボナパルトの言葉だよ。私の好きな言葉だ」


 翼は左足の痛みを堪えるように眉を寄せつつ、先ほど柊が飛び越えてみせたバーに手を掛けた。

 柊の胸辺りということは、翼にとっては鎖骨辺りになる。軽い身のこなしで跳び上がると、バランスを取りつつ、そのバーに腰かけた。


「【D】を操る神々は恐らく、『人類を滅ぼす』と決めたのだろう。できるできないではなく、滅ぼしたいから滅ぼす――まさに、やりたいことをするのが神、だ」

「迷惑な話どすな」

「そう。そして我々ダブルギアにできることは、戦うことだけだ」


 翼の声は、いつになく低い。


「神というものが目に見えない以上、人類を滅ぼそうとする神々を倒すことはできないのかもしれない。私達にできることは、目の前に立ちはだかる【D】に対し、『最後まで抵抗すること』だけなんだ」


 敵対する神々を倒し、地上を取り返す――それは、全人類の悲願だ。

 だが、その方法は見つかっていない。だからといって未来を諦めるのではなく、自分にできる精一杯を積み上げていくだけ。

 それを呟く翼は俯き、表情も長い前髪に隠されてしまってよく見えない。

 一方、それを聞かされた西村は、目を輝かせて頷いた。


「諦めるんは、息が切れるまで走ってからで遅ぅない。他のもんより怪我の治るんが速いなら、その分、練習すればええ。そないなことやな? 佐東」


 すっくと立ちあがった西村と、バーに座って俯く翼。

 翼の様子がいつもと違うことを気にしながらも、話しかけられた柊は、西村へ応じるしかなかった。


「うん……その調子だよ。西村さんが速度補助ファースト・ギアを使えば、今の俺くらいの瞬発力になるから、素の俺ができることは大体できるようになるはずだし」

「なんやそれ、自慢しとんのか」

「そ、そういう意味じゃ……翼が“できることをするのが人間”って言ったでしょ。西村さんにもできるようになる動きを見せた、ってだけだよ」

「せやったら、一から教えてもらとぉくれやす」


 いいよ、と答えると、柊はバルコニーから飛び降りた。

 二メートル以上ある高さから、垂直に落下していく。

 このとき、手を後方へ振ることで上体を起こしておく。前屈みのまま着地してしまうと、衝撃を手で受け止めてしまうことになるからだ。

 かといって、膝と足だけで着地しようとすれば半月板を損傷してしまう。なので、中腰を意識しながら両手両足の四点で着地し、前方へ衝撃を受け流す。

 胸を開いて上体を起こし、つま先で着地。しゃがみながら両手を地に着け、軽く前へ踏み出していく。


「……ほんまにそれ、うちにもできるようになるん?」

「できるよ。ヘッドギアの速度補助ファースト・ギアを使えばね」

「そうか、そうなんか」


 すると西村は、目を細めて満面の笑みを浮かべてみせた。


「兵隊なって初めて、うちにもできそうなことが見つかったわ」


 心から嬉しそうな顔で微笑む西村に笑い返しながらも、柊は視界の隅が気になっていた。

 柊の胸の高さまであるバーに座ったまま、翼は自分の影を見つめている。ゆらゆら揺れる足、丸まった小さな背中――きっと柊が声を掛ければ、なんでもないよ、と返ってくるはずだ。

 だけど、口にした言葉が全てじゃないし、何でも言葉にできるわけじゃない。それくらい、分かっている。

 もう治ったはずの左足が、ジンジンと痺れるような感覚を伝えていた。

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