第91話 違和感

「それじゃ、まずは軽くストレッチをしようか」


 自主練室へ入ると、三人は壁際に設置されたテーブルへヘッドギアを置いた。幾つもあるなかで、しゅうが選んだ自主練室は、かなり広い方だ。柊は一人で自主練するつもりだったが、この広さは三人で使うのにも適していた。

 散開すると、つばさ西村にしむらはペアを組んで準備体操を始めた。

 二人で練習するようになって一週間が経つせいか、運動が苦手な西村の動きに、上手いこと翼がタイミングを合わせている。

 ただ、女子として背が高い翼と、平均身長よりかなり小柄な西村では、あちこちちぐはぐなところも多いのだが。

 今も背中合わせに腕を組み、シーソーのように背筋を伸ばそうとしている。

 しかし十五センチ近い身長差のせいで、二人の腰の位置は明らかに合っていない。更に十センチは背の高い柊と足の長さが変わらないということは、翼の重心が高すぎるだけなのだが。

 ぐいっと翼の背に乗せられ、西村が背を伸ばす……はずが、上手くいかない。翼の腰が当たる部分は西村の鳩尾みぞおちの裏側なので、かなり苦しそうだ。おんぶに失敗した子どもがずり落ちるような姿勢で、西村が呻き声を上げる。


「ちょお、も、もうちょい屈んでくれな。腰ちゃうくて、背中から反らされてるで、しんどいわ」

「ああ、すまない。今、降ろすよ」


 ジタバタ暴れている西村を床へ降ろすと、翼は優しく微笑みながら、労わりの言葉を掛けた。もう一度、と誘うと軽く腰を落とし、西村の身長に合わせてやる。


「今度はどうかな」

「ん、まあ、どないか我慢できるわ」

「息を吐いて、背筋を伸ばして」


 女子二人が仲良くストレッチする様子を、柊は微笑ましく見守っている。すると、急に西村がこちらを見て目つきを鋭くした。


「ちょお、ニヤニヤしてる暇があるなら、あんたもやったらええやん」

「ニヤニヤはしてないよ、別に」

「せやかて、ストレッチせんでええ理由にはならへんどっしゃろ」

「おっしゃる通りです、はい」


 肩を竦めて笑うと、柊は両手を組み、大きく背伸びをした。それを横目で見た翼が、慌てて声を掛ける。


「柊、西村のストレッチが終わったら、私がペアを組むよ。無理して一人でやらなくても」

「頼むよ。でもその前に、自分でできるところまでやっておくから」

「そうだね。じゃあ西村、次は開脚をやろうか」

「ええで。筋力はあらへんけど、うち、身体はそこそこ柔らかいからな」

「西村は柔軟性がとても高いから、受け身も合わせて覚えれば、かなり怪我をしにくくなるよ」

「ほんまに? せやったら、気張らなあかんな」


 嬉しそうに目を細める西村の表情は、とても柔和だった。長野戦前のような張り詰めた空気も感じられない。それに応じる翼もまた、他の隊員と接するときと比べて自然体で笑っているように見える。

 十日間の治療を通じて、三人はくだらない話ばかりした。

 食堂のメニューで好きなものから、小学生の頃の成績のことまで。家族の話は、柊も翼もあまり語りたがらなかったので、西村が一人で喋っていたが、軽妙な語り口もあって飽きさせなかった。

 柊が発狂すれば、全員、無事では済まない。それを何度も乗り越え、他愛ない会話を続けた結果、三人の雰囲気は明らかに柔らかくなっていた。

 そして更に、すらりとした体躯の美少年に見える翼と、長い髪を揺らして笑う小柄な西村――二人が寄り添っていると、そこだけ少女向けの漫画かアニメのような世界のような華やかさがある。

(二人とも、ほんと戦闘員とは思えないくらいキラキラしてるなぁ……)

 目の保養です、と心の中でそっと手を合わせると、柊も屈伸運動へ移った。

 ゆっくりと腰を落としていく。左足の踵からアキレス腱へかけて、痛みや痺れがないか、じっくり確かめる。

(大丈夫。安定感がないけど、それは筋力が落ちてるせいだ)

 小さく頷き、ゆっくりと関節を伸ばしていく。

 喪失ロストした部分との繋ぎ目も、若干の違和感はあるが、痛みを感じるまでではない。数回、その動きを確認した後、簡単なストレッチを淡々と終えていく。

 暫くすると、はあはあと呼吸を荒げ、西村が壁際のベンチへ腰を下ろすのが見えた。どうやら、体力がなさすぎて、準備体操だけで疲れてしまうらしい。

(小学生以下だぞ、この人……)

 苦笑している柊のところへ、翼がやってくる。彼を見上げる翼の瞳は、優しい光を帯びていた。


「足の調子はどう――と聞かなくても良さそうだね」

「うん?」

「君の顔を見てれば、問題ないと答えを聞くまでもないからさ」

「俺、なんか変な顔してる?」


 ペタペタと自分の頬や口もとを触る。いつの間にか自分が、ニヤニヤと笑っていることに気づかされた。

 思っていた以上に治療の成果があがっていることが、嬉しくないはずがない。

 軽く頷いて大丈夫、と答える柊へ、翼が質問を続けた。


「それなら、私の助けは要らないかな」

「あ、でもさ。しばらく歩いてなかったからか、足腰弱ってる感じがすごくて」

「どんな風に?」

「生まれたての子ヤギが、カクカクしながら山肌を下りていく感じ?」


 柊が例えた光景を想像したのだろう。翼だけでなく、壁際で休んでいる西村までが噴き出した。


「なるほど。それなら、腰のストレッチはしたほうがいいね」

「うん。悪いけど、それだけ相手してもらえる?」

「勿論だ」


 背中合わせに立ち、互いの腕を絡め合う。先ほど西村が、おんぶに失敗した子ども状態になったのを思い出し、ちらりと肩越しに翼の腰の位置を確認する。

(……やっぱり、俺とほぼ同じ長さだ。ってことは、身体の半分以上が脚だぞ)

 案の定、西村から野次が飛ぶ。


「佐東はん。脚の長さ、班長はんに負けとるんとちゃう?」

「外野は黙っててもらえませんかね」

「なんや、クマに食べられてみじかなったんか」

「元からだよ!!」


 言い合いする二人の耳に、呆れたような嘆息が聞こえる。

 ため息を吐いた翼は軽く肩を竦めると、柊へ振り返った。


「ほら、始めよう。私から下になるよ」

「あ、うん。お願いします」


 自分の三分の二くらいしかない細い腰に乗るのは、少しためらわれる。

 そんな心配など、どこ吹く風。翼はひょいっと軽快に腰を曲げ、柊を背負った。


「大丈夫? 重いでしょ、俺」

「私のことは心配要らないから、しっかり息を吐いて、背を伸ばそう」


 返す言葉に苦しげな色はない。

 それは翼が、華奢な外見とは裏腹に、地道な訓練を積み上げている証拠だ。やっぱりという想いと同時に、負けてはいられない、という気持ちにもさせられる。

 吹き抜けになっている高い天井を見上げ、しっかり背骨を伸ばす。作業服越しに、翼の身体の温かさが心地よかった。

 思い返せば、柊はいつも小隊長の榊とストレッチのペアを組んでいた。身長がほぼ同じということもあるのだろうが、不用意に他の隊員と組ませて身体の違いに気づかれないように、という配慮のためなのだろう。

 翼と組ませようにも、二人の身長差はそれなりにある。むしろ『死神』とあだ名される黒木くろきのほうが、柊と体格が近い。

 翼を組ませて違和感を出すくらいならば、と榊がわざわざ相手していたのだ、とその意図に今更気づかされた。

 床へ着地し、くるくると足首を回す。大丈夫、特に違和感はない。

 それを確認すると、今度は柊が下になる番だ。


「はい、翼もどうぞ」

「宜しく頼むよ」


 榊とストレッチを組んでいたときのことを、思い出していたせいだろう。榊は、男としては細身だが、女性にしてはトップアスリート並みに鍛え上げた身体をしている。おまけに、身長もかなり高い。自然と、体重もそれなりにあるはずだった。

 自警団の中では背が高いほうではなかったので、柊の準備体操の相手は、同じように華奢な体格の男性団員だった。そのときと同じような要領で、腰を曲げる。

 次の瞬間、腰に押された重みが、ふわっと消えてなくなった。

 続いて、柔らかなタオルが掛けられたような感覚――それが想像より遥かに華奢な翼の身体と分かるまでに、数秒の時間が必要だった。


「わっ」

「……ん?」


 トスン、と軽い衝撃と共に、何か柔らかくて温かなものが背中に乗っかる。

 くにゃりと折れたそれは、柊の背中で笑い声をあげた。


「ははっ ビックリした」


 なんだか楽しそうな翼の声に、急に心臓の音が早くなる。

 身体が接しているせいで、彼女が喋るたび、自分の身体にその小さな振動が伝わってくるのがむず痒い気持ちにさせられる。

(ていうか、どんだけ軽いんだ、翼の身体)

 そういえば、柊と同じで翼も筋肉がつきにくい体質だ、と明彦あきひこが話していたことを思い出す。

 翼の表情や佇まいは凛々しくとも、思春期前の少年にしか見えない。しかし見た目以上に、彼女の実際の体格は、戦いに向いていないのが分かった。

 気持ちよさそうに伸びている翼の儚い温かさにドキドキしながらも、同時に胸が締め付けられるような思いがした。


「もしかして一瞬、宙に浮いた?」

「そうだね。そのまま背負い投げでもされるかと思った」

「ごめん」

「うん? 普段のストレッチでは味わえないものだから、私は面白かったよ」

「なら、いいんだけど。びっくりさせてごめん」


 恐る恐る、翼を床へ降ろす。

 腕を解いて振り返ると、至近距離から翼がこちらを見上げていた。その表情は、いつもと何も変わらない、どこか遠くを見るようなまなざしだった。

(あれ……? なんだろう。なんか、違和感?)

 けれども柊がその理由に思い至るより早く、翼は壁際で待つ西村のもとへ行ってしまった。


「さ、そろそろ始めよう。西村、ヘッドギアを」

「ええで。うちの頑張り、教育係はんに見てもらわな」

「あ、ああ。そうだね」


 翼が指さすベンチへ座りながら、柊は妙な胸騒ぎがしていた。

 三人の関係は、明らかに以前より深まった。

 翼と西村は、前からの友人であるかのように、親し気に話している。

 柊と西村も、軽口を言い合えるような関係になった。

 明らかに、三人の間に流れる空気は、良い方向へ変わっている。それなのに、翼が自分へ向けるまなざしだけ、かつて自分が着任したばかりの頃に戻ってしまっているような気がした。

 ――自分が研究所にいた間に、何があったのだろうか。

 和やかな練習風景とは裏腹に、柊の身体の中心で、心臓が警告を鳴らしていた。

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