第89話 命短し、恋せよ少年

 長野戦から十日後の朝。

 申告された検温結果を、チェックシートへ書き込む明彦あきひこ。ベッドに座るしゅうは、明彦の隣に立つ女性職員から新しい服を受け取った。すっかり見慣れた、訓練用の黒い作業服だ。

 人前で着替えることに抵抗を感じる。だがよく考えれば、この十日間、マジックミラー越しに数十名の職員が二十四時間体制で観察していたのだ。どうせ、今さらだ。

 半ば諦め顔で嘆息すると、前合わせの入院着のボタンを外していく。

 地下世代特有の真っ白な肌に、白い傷跡がシュプールのようについている。それさえも、何週間か経てば消えていくのだろう。

 人間離れした肉体だからといって、不死身なわけではない。尋常ではない治癒力とはいえ、秒で治るわけでもない。切断までいった右腕は、まだ固定されている。

 そんな柊の身体を観察していた明彦が、おどけた様子で片方の眉を上げた。


「君、脱ぐとイイ身体してるよねぇ」


 明彦の感想に、女性職員もまんざらではない様子で頷く。

 褒められた側の柊は、何とも言えない顔で苦笑を浮かべた。


「一応、元自警団なんで」

「首が長くて撫で肩ってことは、うちの息子と同じ、筋肉がつきにくい体質だ」

「小学生の頃は、“一反木綿いったんもめん”ってあだ名でした」


 着替えを用意してくれた女性職員が、堪えきれず、ブフォ、と噴き出す。

 おまけに何を思ったのか、明彦は右腕に力拳をつくる仕草をしてみせた。


「僕も結構、脱ぐとイイ身体してる、って言われるんだよね」


 女性職員は、更に身体を折り曲げて笑いを堪えている。明彦は茶化すように、ほらほら、と無駄にキレのあるポージングを次々と決めてみせる。その胸筋や大臀筋、僧帽筋などは、五十代の研究員とは思えないほど無駄に鍛えられている。

(なんでこの人、対抗意識出してるんだ)


「あれ、ウケなかった? 日本の研究者ってモヤシっ子が多いじゃない。巨大生物研究所の学者バカが筋肉自慢、って飲み会の鉄板ネタなんだけど」

「自警団のロッカールームじゃ、日常茶飯事なんで」

「そっかぁ、そうだよなぁ……学者の間じゃイイ筋肉でも、自警団の偵察班のトップ筋肉を見慣れてたら大したことないよね」

(トップ筋肉、って何だソレ)


 なぜか悔しそうな明彦と、そんな彼をけらけらと笑い飛ばす女性職員を尻目に、てきぱきと着替えていく。

 黒いタンクトップの上に黒い上着を羽織る。ベッドの端へ座り、足を布団から出す。入院着の綿ズボンを脱ぎ、黒の補正下着サポーターを下着の上から重ねた。作業着のズボンのボタンを留めようとして、微妙に緩いことに気づく。

 少し考え、十日も寝ていたせいで筋力が落ちているのだ、と思い至った。


「ウソでしょ、たった十日で減るなよ、俺の腹筋……」

「ははははっ 左足を十五センチも骨から再建したんだよ。その分の筋組織は、他の部位から調達するんだ。一時的に筋力が衰えるくらい、仕方ないでしょ」

「俺、筋肉つきにくいから元に戻すのも大変なんですよ」

「いいじゃないの、また鍛えれば。こうしてまた、立派な足が生えてきたんだから」


 明彦が手にしたペンで示した先、柊の左足は、喪失したはずの足首から先がある。

 右足首と比べて幾らか細いが、こうして立って着替えるのに不自由はない。

 口にする愚痴とは裏腹に、嬉しさを隠し切れない様子でトントンと爪先で床を蹴った。痛みもない。間違いなく、自分自身の足が再生されている。


「本当に、ありがとうございました」

「礼なら、手術した職員や、再生の手伝いをした二人に言いなよ」

「はい。だけど、さかき先生にも言っておこうと思って」


 律儀だね、と呟き、明彦は目を閉じた。


「臨床心理士の僕は、今後も君の愚痴を聞くことくらいしかできないんだけどさ」

「そういえば、初めて会ったとき、榊先生は“ただのカウンセラー”って自己紹介しましたよね」

「嘘じゃないよ。FBI捜査官としてアメリカにいた頃に、犯罪心理学を齧っててね。ついでだから、資格も取ったんだ」


(地上時代の仕事ってあまり詳しくないけど、生粋の日本人で元FBI捜査官って、珍しい経歴だよね……)

 あはは、と適当に笑って流しながら、話を戻す。 


「榊先生が巨大生物研究所の所長さんって聞いて、後でびっくりしました」

「だって、所長の肩書のほうがついで・・・なんだもの。何なら、誰か代わってもらいたいくらいだよ」

「いやですわ、所長ったら」


 着替えを渡してくれた女性職員が、目を細めて笑う。呑気に笑い声をあげる大人たちを前に、柊は作り笑いした。

(どこまで本気なんだろう、榊先生この人

 しばらく雑談した後、明彦は柊へ、ベッドに腰かけるよう勧めた。

 事前に打ち合わせをしてあったのだろう。女性職員は、柊へ挨拶をすると病室を出ていった。退室したといっても、どうせマジックミラー越しに観察する集団へ加わるのだろうが。

 女性職員の姿が消えるのを待って、明彦は話を切り出した。


「これで、ひとまず再生治療は終わりになるわけだ。もう、訓練に復帰するの?」

「榊小隊長の指示待ちです。翼が言うには、自習室でリハビリからだろう、って」

「それがいいね。君の身体はこの十日、足を再建することに全精力を懸けていたわけだ。腹筋が痩せてしまった以外にも、あちこちガタがきてるだろうから」

「はい。でも、また歩けるようになって、ホントに良かったです」

西村にしむらくんと榊くんには、もう足を向けて眠れないねぇ」


 ですね、と答えながら頷く。

 左足首の再生治療中、二人は毎日、合同練習を休んで面会に来てくれた。しかも、柊でも話しやすい話題を何十個と考えてきてくれた。

 話下手な彼が言葉に詰まっても、茶化したり窘めたりしながら話の輪に入れてくれて、思考が汚染されるのを防いでくれた。二回ほどかなり危険な状態へ陥りかけたときなどは、翼が柊の手を握り、西村が立ち上がろうとする足を抑えつけた。

 この左足が元通りになったのは、彼女たちの献身の賜物だ。

 ベッドの端へ座った状態で、柊は左足をぶらぶらさせる。この十日間のことを思い出すうち、自然と口もとに笑みが浮かんでいた。

 明彦は、そんな柊の隣へ腰を下ろした。背も高くて筋肉質な明彦は、体重もそれなりにあるのだろう。ベッドが軋む。

(榊小隊長は俺と同じくらいの身長だし、翼も、女子にしては高いほうだもんな……背が高いのは、榊先生父親譲りなのかも)

 そんなことを考えていると、明彦は微笑みを崩さず訊ねた。


「ところで。西村さんとのキス、どうだった?」

「…………はい?」


(ここで、それを聞くのか?)

 思わず白い壁へ視線が流れてしまう。あの壁の先には、西村の父もいるだろう。ダブルギアの研究者なら、月読命ツクヨミノミコトのダブルギアを観察できる権利を、履行しないはずがない。

 そんな思考ダダ洩れな視線の動きを隠そうともしない柊に、明彦は肩を竦めた。


「教えてくれよ。ここには、僕しかいないなんだから」

「目の前には一人でも、壁の外に何十人もいるじゃないですか!」

「どうして? キスシーンだって目撃されたし、独り言だらけの君の日常も二十四時間体制で観察されてたんだよ。今さら、恥ずかしいことなんてないでしょう?」


 無自覚な独り言を記録されていたと知って、思わず頭を抱えてしまう。

 項垂れる柊を前に、明彦は手の中のボールペンをくるくる回しながら言う。


「この年になると、コイバナなんて甘酸っぱい単語から遠ざかって久しくてねぇ」

(俺は十五年間、遠ざかり続けてましたが)

「嫁さんに先立たれた侘しいおっさんに潤いを恵むと思って、青春アオハルな話してよ――ってのは、僕の個人的意見でさ」

「え?」


 ボールペンがピタリと止まり、柊が顔を上げる。

 隣に座る明彦は、穏やかな笑みを口もとに浮かべ、軽く首を傾げてみせた。


「だって、痴情のもつれで小隊壊滅、なんてことになったら笑えないでしょ」

「ま、まさか。イケメンな榊小隊長とか玉置たまきさんじゃないんだし……俺は、そういうイザコザとは無関係ですよ」

「おやおや。神話の時代から、痴情のもつれは争いの火種だよ。美醜、年齢、異性同性・異種族――そんなもの、愛の前では障害になり得ない」


 そう言って、明彦は胸ポケットから一枚のプリントを取り出した。プリントには、掛け軸の写真がコピーされていた。

 髪を中央で分けた長髪の男性神が、長鉾を手に、海をかき混ぜている。男性神に寄り添うように立つ女性神は、波間を静かに見守っている。

 それは、日本の神話で語られる伊邪那岐イザナギ伊邪那美イザナミの姿を想像して描かれたものらしい。


「たとえば、この二人だってそう。夫婦の間に子どもができたんだけど、その出産が原因で、妻である伊邪那美イザナミが死んじゃうのね」

「はあ」

「愛妻家だった伊邪那岐イザナギは、妻の死が受け入れられなくて、『黄泉よみの国』まで妻を迎えに行くの。あ、黄泉の国=死後の世界ね」


 ファンタジー小説みたいですね、という柊の感想に明彦は深く頷いてみせた。そうして、伊邪那岐・伊邪那美の物語を掻い摘んで説明する。

 恐ろしい黄泉路よみじを渡り、迎えに来てくれた夫を見て、妻は涙を流して喜んだ。

 ところが、再会を喜んだのも束の間、一緒には帰れない、と妻は夫を拒否する。死者の国の食べ物を口にしてしまったせいで、現世へはもう戻れないらしい。

 しかし、愛の前ではそんな些細な問題は関係ない――伊邪那岐イザナギは、強引に妻を連れ帰ろうとした。


「へぇ。じゃあ、奥さんを取り返してハッピーエンドですか?」


 呑気に訊ねた柊へ、明彦はニヤリと笑う。


「それがね、妻に近づいてやっと夫は気づくのさ。妻は腐乱死体になってた、って」

「ふ、ラン!?」

伊邪那美イザナミの怒りは凄まじかった。そりゃそうだよね。見るな、って言ったのに、勝手に腐り果てた身体を見た夫が、ひぃひぃ言いながら逃げていくんだもの」

「腐乱死体は、誰だって無理じゃ……」

「そう、その気持ちはそのまま、この夫婦の心境なんだ。死体でもいいから一目会いたかった夫、ただしグロ耐性なし。美しい思い出だけを胸に生きていってほしかった妻、ただし侮辱された以上、絶対に許さない」


 追いかける妻、逃げる夫。

 黄泉の国(死後の世界)と地上(生者の世界)を結ぶ黄泉平坂よもつひらさかへ辿り着くと、夫は大岩で道を塞いでしまう。結果、妻はそれ以上、夫を追いかけることができなくなってしまった。

 大岩を隔て、妻は夫へ語り掛けた。

「愛する人よ。こんな酷いことをするならば、貴方の国の人を、毎日千人殺してあげましょうぞ」

 それを聞いた夫は、大岩越しに妻へ語り掛けた。

「愛する人よ。それなら私は、毎日千五百人、新しい命を産ませるとしようぞ」

 こうして二人は離縁することとなり、たくさんの人が生まれ、それと同じくらいたくさんの人が毎日亡くなるようになったのである――。


 語り終えた明彦は、じっと柊の表情を観察した。

 柊は、腕組みをして小さく頷いている。自分なりに理解しようとしているのだろうが、勉強が苦手な彼のことだ。あまり、深くは考えていないだろう。

 いきなり一気に話しても、消化不良になってしまう。そう考えたのか、明彦はいつもの微笑みを浮かべてみせた。


「ごめんごめん。佐東くんが名うてのプレイボーイじゃないことは分かってるよ。一応、君の交遊関係を知りたくて、さ」

「はあ……」


 確かに、上層部としては、戦闘員たちの人間関係を把握しておきたいだろう。柊自身の話ではないが、西村の手に箸を刺した黒木くろきのこともある。

 ただでさえ、戦闘前後では殺伐とする基地だ。何が起きてもおかしくはない。ましてや――異性が紛れ込んでいるともなれば、大人たちが目を光らせるのは当たり前のことなのだろう。

(俺が男、って知ってるの、翼と伊織と西村さんくらいだけどね)

 適当に愛想笑いをする柊へ、明彦がにやりと笑って耳打ちする。


「……で。西村くんのこと、どう思ってるの」

「どうって」


 一拍おいて、ちらりと白い壁を見る。室内からは、外の様子は分からない。西村の父がどこにいるのか、どんな顔をしているのかも。

 なので、できるだけ簡潔に、少し素っ気なく答えた。


「美人だと思いますよ。見た目だけなら、大和撫子って感じだし……気が強いけど、悪い人じゃないのは分かります」

「じゃあ、このまま西村くんがアプローチしてきたら?」

「こ、困ります」

「なぜ? ああ、榊くんが本命なのかな」

「ちょ、ちょっと、なんでそういう話に」


(この人、翼のお父さんなんだよね!?)

 西村のことを聞くだけなら、理解できる。人間関係を把握しておきたい、もっと直接的な表現をすれば、恋愛関係になる可能性を把握したいのだろう。翼のことだって、同じだ。この質問が無関係な職員から発されたのなら、西村の場合と変わらない。

 だが、その質問者が翼の肉親――それも父親となれば、話は別だ。

 どういう意図で質問しているのだろう? 頭がこんがらがりそうになる。


「いや、その、どっちが本命とか、そういうアレじゃ……」

「西村くんが『自分とのキスが初めてのはず』って確認したら、君、咄嗟に榊くんを見たじゃない。てことは、榊くんともキスしてるんでしょ?」

「ちょっと、あの今それを――」


 完全にパニックになった柊は、一歩、身を引いた。

(た、確かに二人とキスしたけど、どっちも急に相手からされたから、俺がどうとかそういうアレじゃ……)

 唾を飲み込もうとしたが、緊張でからからに渇いてしまっている。

(これ、もしかして修羅場なの? 目の前には翼のお父さん、壁の外には西村さんのお父さん、って、どう答えれば正解なの?)

 じわりと背中が汗ばんでくる。

 柊はしばらく視線を彷徨わせていたが、何も答えることができなかった。すると、それを観察していた明彦が、ふいに肩を竦めてみせた。


「“いのち短し、恋せよ乙女”――って、聞いたことあるかい?」

「あるけど、元ネタは知らないです」

「大正時代のヒットソングらしいよ。僕も昭和生まれだから、オマージュ作品しか知らないけれど、とても良い言葉だと思っててさ」


 何を言いたいんだろう、と目を細めて訝し気に見つめる柊へ、明彦は小さく頷いてみせた。


「こんな時代だ。恋の一つも知らずに死んでいく乙女や少年が、たくさんいる。ダブルギア戦闘員になれば、なおのことね」

「……今回は、俺も危なかったと思います」

「僕はね、君が誰かと恋をすることは、ちっとも悪いことじゃないと思うのさ。それは、榊くんや西村くんも同じことで」


 優しく諭すような口調で、明彦は続けた。


「いのち短し、恋せよ少年」

「…………」

「君を見てると、榊くんと似ていてね。ちょっと、お節介したくなるんだよ」

「え?」


 明彦は柊を見つめるのをやめて、視線を落とした。

 彼の左手に嵌められた腕時計には、文字盤の中にももう一つ、文字盤がある。しかしそちらは、動いていなかった。ときを刻み続ける秒針と、動かない秒針。その二つを、じっと見つめている。


「恋じゃなくてもいい。友情でもいい。心揺さぶられる相手を、生きている間に見つけられるといいね」


 柊は明彦の腕時計を見つめながら、静かに頷いた。

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