第81話 ガラス張りのケージ

 その病室は、三方向がガラス張りになっていた。病室という名がつけられただけで、実質は鳥かごケージと変わらない。

 ガラス越しに中を覗くつばさの隣に、明彦あきひこが立っている。先ほどはスーツ姿だったが、今はその上から白衣を羽織っていた。

 病室を観察するフロアには、柊と翼が面会すると聞いて、三十名以上の職員が集まってきた。何かを計測する者だけでなく、純粋な見物客も多い。月読命ツクヨミノミコトのダブルギアに関することは、どんな些細なことも貴重なデータなのだろう。

 準備が整うまでの間、明彦は京都での出来事をかいつまんで説明してくれた。

 陰陽寮おんようりょうにとって、月読命のダブルギアが片足を喪失ロストしたことは、極めて重大なミスであること。その責任を問われ、榊と明彦が呼び出された。

 柊の治療を理由に明彦は帰されたが、榊が解放されるには、まだ時間がかかりそうな様子だった――。

 そんな説明を、翼は黙って聞いていた。視線は、部屋の中央に置かれたベッドへ注がれている。ベッドの脇には、心電図や輸血用の点滴台、他にも様々な医療器具が並べられていた。


「……面会の許可をいただいたこと、感謝いたします」

「仕方ないよ。あのままじゃ君、うちの職員相手に大立ち回りをやりかねなかったでしょ?」

「一刻を争う事態、と判断したまでです」

「相変わらず、アクセルベタ踏みな生き方をしてるねぇ。たまにはブレーキも踏まないと、エンジンが火を噴くよ」

「私にブレーキペダルはありません」

「……君は、欠陥品なんかじゃないよ」


 どこか嗜めるような明彦の口調に、翼は返事をしなかった。数ヶ月ぶりに顔を合わせた父娘の会話には見えない。

 話題は柊の治療方針へ移った。普通に治療するだけでは、喪失ロストした足が再生する可能性はあまり高くない。だが、月読命のダブルギアである柊には抜け道があった。


臨界速ダブルギアをね、彼に使ってもらうんだ。で、戦うためじゃなくて、回復に集中してもらう」

「そのようなコントロールができるものなのですか?」

「理論上はね」


 明彦の説明は、翼も初めて聞く内容だった。

 しかし、研究所で働く職員にとっては当たり前の話なのだろう。行き交う職員たちのなかに、足を止める者はいない。


「その前提条件として、精神的安定が必要不可欠なんだ。じゃないと、あの世へ直行しちゃうからさ」

「しかし今は、強い疲労と心身への深刻なダメージで発狂リスクが高い、と」

「そういうこと。で、君にやってもらいたいことは、ただ一つ」


 休憩中の雑談でもするような軽いノリで、明彦は人差し指を立ててみせた。


「彼を、臨界速ダブルギアを使わせる気にさせること。それだけだ」

「分かりました」

「まあ、臨界速ダブルギアを使ったところで、必ず足が生えてくる、って保証があるわけじゃないんだけどね」

「彼は、それを知っているのですか?」

「僕がいない間に、職員たちが説明しているはずだよ」


 準備が整ったことを、一人の職員が明彦へ告げた。明彦に先導されて、自動ドアの前まで移動する。

 すると、近くにいた職員が翼へ話しかけた。


「何かあってはいけませんので、太刀と脇差はこちらでお預かりいたします」

「ああ、気づかなくて申し訳――」


 太刀を外そうとした翼を、明彦はさりげない仕草で制する。

 顔は職員へ向けたまま、いつもの食えない笑顔を浮かべたままだ。


「これ? 国営放送用の衣装なんだから、偽物フェイクに決まってるでしょ。なくすと面倒だから、このままでいいよ」

「左様でしたか。失礼いたしました」

「…………いえ」


 口ごもる翼へ、明彦がちらりと視線を流す。

 護身用に、念のためね――そんなところだろう。

 自動ドアの前に立つと、明彦は一歩下がった。翼は、ガラス越しに柊の横たわっているベッドを見つめている。


「行っておいで。偽らざる彼・・・・・を、見てくるといい」

「行ってまいります」


 空気を輩出する音と共に、ドアが開く。

 翼が中へ入ると、すぐにドアが閉まった。脱走を警戒しているのだろう。

 中から周囲を見渡すと、意外なことに、真っ白な壁が一面に広がっていた。マジックミラーに似た原理になっているらしい。

(当然か。ただでさえ気が立っている状態なのに、実験動物のごとく観察されているなんて分かったら、落ち着くどころじゃない)

 ベッドへ、一歩一歩近づいていく。

 今この瞬間も、数十名の職員たちが二人の様子を観察している。だが、そんなことはどうでもいい。今はただ、柊の様子が知りたかった。

 人の形に膨らんだベッド脇へ辿り着く。柊は、頭から布団をかぶっている。

 足を止め、翼は口を開いた。


「柊、私だ。さかき翼だ」


 布団の端から、短い黒髪がはみ出ている。

 やがて、くぐもった声が布団から聞こえてきた。


「……何しに来たの」


 これが、柊の声なのか――翼の目が見開かれた。

 落ち込んだとき、怒ったとき、照れたとき、焦ったとき、食堂でみんなと笑っているとき……様々な彼の声を聞いてきた。だがそのどれとも違う、何の感情もこもらない、無機質で冷たい声だ。

 良くも悪くも感情の上げ下げが激しく、傷つきやすくて繊細――それが、柊という少年の印象だったのに。

 慎重に言葉を選びながら、翼は話しかける。

 

「君に会いに来た」

「何のために?」


 低い声が、布団の隙間から漏れてくる。


「戦えなくなった俺は、もう翼の仲間じゃないだろ」

「そんなことない。それに足のことなら、臨界速ダブルギアを試す価値はあるだろう。リハビリを重ねれば――」

「試したら最後、俺は発狂するよ。絶対」


 適当なこと言ってるんじゃなくて、と付け足す。


「俺、八岐大蛇ヤマタノオロチ戦で発狂しかけてるんだ」

「……え?」

「足を折った直後から、色が認識できなくなってたんだ。狙撃用のスコープで覗いてるみたいに視野が狭まって、心臓が破裂しそうになって、足や腹の傷がめちゃくちゃ痛いはずなのに、妙にそれが気持ちよくなって」

「それは、誰かに相談したのか?」

「言うわけないでしょ。言ったら、速攻で戦闘員から降ろされただろうし」


 翼は、震える手で布団を掴んだ。

 深く息を吸ってから、白い掛布団を取り去る。

 頭を両腕で抱えるように背を丸めた柊は、そっと視線を向けてきた。怯えとも怒りとも違う深い諦めの色が、その瞳に滲んでいた。


「……戦えなくなった月読命のダブルギアがどうなるか、翼なら想像がつくだろ」

「それは」


 黒表紙のファイル――それを読んだことがあれば、想像は難くない。

 人類のため、という錦の御旗の下、二十四時間体制で監視されるだろう。監視だけで済むはずがない。せっかくの貴重なサンプルなのだ。手厚く、そして容赦なく、あらゆる実験が行われるはずだ。


「一度、発狂しかけたから分かる。今の俺が臨界速ダブルギアを使ったら、一分ももたずに発狂する。でも、数十秒はもつんだ……その間に、たぶん何かの処置をされて、あとはモルモットだよ」


 翼は、それが被害妄想とは思えなかった。

 だからといってそれを肯定すれば、柊を見捨てるのと同じことだ。


「だからこそ、私は君の力になりたい。君が落ち着いて臨界速ダブルギアを使えば、足が再生する可能性は高まるはずだ」


 その言葉に、柊は笑うこともなかった。

 反発するでもなく、自嘲するわけでもない。ただ静かに首を振るだけだ。右腕の中ほどに繋がれた輸血用の点滴が、ポタリ、とパックの中で赤い雫を垂らす。


「何のために、そんな無駄なことをするの?」

「え……」

「俺がここで発狂したら、最初に死ぬのは翼だよ。発狂しなくたって、足は再生しないかもしれない。再生したって、俺はこれから一生、『発狂しかけた月読命のダブルギア』として監視され続ける。次に何かあれば、モルモットに直行だ」


 苦しそうな吐息をつきながら、柊は上体を起こした。背中を支えようと差し出された翼の手を、乱暴に払う。

 布団に隠された下半身は、左足の先が不自然にへこんでいた。


「榊小隊長に認められるため? それとも、榊所長に認められるため?」

「柊……」

「自己犠牲でできるレベルの話じゃないでしょ。人間は、利益か目的がない限り、他人とかかわろうなんてしないんだから!」


 色のないまなざしで、柊は翼を見上げた。

 初めて見る空っぽなまでに冷たい表情に、翼の喉が鳴る。

 自棄を起こして、衝動的に口にしているのではない。これが彼の心からの言葉なのだと、氷のように冴え切った瞳が示している。


「利益がなければ人間は繋がれない……君は、本当にそう思っているのか?」

「例えばだけどさ、血の繋がった親だからって、子どもを大事にするとは限らないんだよ」


 柊の言葉を、翼は黙って聞いている。

 病室の外からも、制止の声はない。明彦は、ガラス越しに二人を見つめていた。


「同じ学校に通うからって、誰とでも仲良くするわけじゃない。命懸けでシェルターを守る同僚だとしても、助け合うとは限らない――少なくとも俺の周りは、そんな奴ばかりだったよ」


 それは柊が人生で得た事実なのだ、と彼の経歴書を見た翼には分かった。

 同時に、それを上辺だけの言葉で否定することができなかった。

 ダブルギアに覚醒しなければ、生まれてきた意味がない――それは彼女自身、この施設にいた頃、大人たちに浴びせられてきた言葉だ。

 覚醒して優秀な戦闘員になり、小隊長である榊の支えとなる。そのためだけに、翼のような子どもが何十人と作られ、育てられている。今、この病室を観察する中にも、元はそうやって育てられた者がいるはずだった。

 利用価値のない人間は、ゴミ以外の何者でもない。

 同じ呪いが、翼の胸にも深く刻み込まれている。


「戦うしか能のない癖に戦えなくなった俺を、まだ捨てない、って言う翼は、俺に『どんな価値』を見てるの?」


 翼の胸の奥底を見透かそうとする柊のまなざしに、射すくめられる。

 知らず知らずのうちに、翼は臍の辺りに当てた手をぎゅっと握りしめていた。

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