第80話 扉を開く鍵
「
職員の制止の声も聞かず、新品の戦闘服を着た
時刻は、午後六時半。戦闘終了後、長野駅から基地へ戻る道中、翼は小隊長である榊から、
用意された原稿を読み上げることなど、翼にとって造作もない。淡々と放送を終えるとすぐスタジオを出て、今に至る。
小走りで後をついてくる職員は、ネームホルダーに黒の線が二本入っている。つまり、多少は内部の事情を知る者だ。
「小隊長はどちらに」
「いえ……それが、まだ京都からお戻りには」
「では、何時に戻られる予定ですか」
目を逸らしてゴニョゴニョ呟く職員を前に、翼は細い眉をしかめた。分かりました、と返し、そのままエレベーターホールへ向かった。
小隊長の戸を叩くと、中から声がした。
『お名前と階級を』
「
『小隊長は現在、席を外しております。わたくしで宜しければお話を伺いますが』
「お願いします」
榊の秘書が開けてくれた戸を潜り、中へ進む。やはり、榊の姿はない。
ソファを勧められたが、翼は首を振った。
「柊の容態は?」
「他の隊員と同様、懸命の治療を……」
「それは分かっています。他の人には言いません。ですからどうか、本当のところを教えてください」
話しているうち、翼は黒革の手袋を嵌めた手を握りしめていた。
秘書はしばらく黙っていたが、やがて壁の時計を確認すると細く息を吐いた。
「小隊長からは、まだ連絡がありません。それに、京都から基地へ戻るだけでも、二時間はかかります」
「なぜこの忙しいときに、小隊長は呼び出されたのですか」
「
榊だけでなく、巨大生物研究所の所長である
父と姉が上層部に呼び出されて事情聴取を受けている――そう聞かされた翼は、長い睫を伏せた。
秘書は、やりきれない顔をした翼を眺めつつ、僅かに首を傾ける。
「気になりますか?」
「……いえ。小隊長だけでなく所長もご一緒ならば、大丈夫だろう、と分かっております」
「つまり、榊一尉が気になっているのは、
板張りの床を見つめたまま、翼は頷いた。
すると秘書は、一歩前へ出た。翼のほうが背が高いので、軽く見上げる形になる。
「佐東一尉は、集中治療室にはいません。もちろん、個室にも」
「では、どちらに?」
「隣接する『巨大生物研究所』ですわ。そこで、治療を受けています」
理由は、説明されずとも見当がついた。
「では、治療は順調に進んでいる、と」
「最善を尽くしているはずです――しかし、
「それは……」
信じたくない、というように首を振る翼へ、秘書は更に近づいた。そうして、自分の首からIDカードを外し、翼の手へ握らせる。
目を丸くする翼に、秘書は人差し指を己のくちびるへ当ててみせた。
「小隊長がいれば、きっと、面会の許可を出したでしょう」
「けれど、こんなことしたら――」
「始末書の一枚や二枚、すぐに終わりますわ」
秘書はそう言って、優しげに微笑んでみせた。
「……貴女には彼が必要なように、きっと、彼にだって貴女が必要なはずです」
言葉が見つからない様子で、翼は渡されたIDカードを胸に抱きしめた。頭を下げ、すぐさま小隊長室を走り出ていく。
翼の背中を見送ると、秘書は小さくため息を吐いた。その表情は暗く、険しい。
壁の額縁には、教科書にも載っている
「ねぇ、神様。試練を与えるばかりでなく、たまには奇跡を起こしてくれたって良いのでは?」
壁から見下ろす女神は、何も答えない。
それでもあきらめきれず、目を閉じ、語り続ける。
「あの子たちがこんなとこで終わるなんて、あんまりです」
静まり返った小隊長室に、時計の秒針の音だけが響いた。
――――――――
手渡されたのは、小隊長付き秘書のIDカードだ。実質、ダブルギアの基地で行けない場所などない。それどころか、隣接する「巨大生物研究所」の奥でさえ、進むことができた。
ダブルギアの機密を守るために、かかわる人間を減らした結果、入出制限の殆どがIDカードに頼っていた。しかも覚醒前の翼は、研究所で育てられていたのだから、勝手知ったる実家のようなものだ。当然、柊の居場所も見当がついている。
職員たちが翼の侵入に気づいたときには、柊が隔離されている研究室の手前まで来ていた。
白を基調とした無駄のないデザインの室内、白衣を着た職員たち。
そんな真っ白な世界のなか、黒尽くめの戦闘服の翼は、明らかに異質なものとして目に映っただろう。
一瞬、何が起きたか分からない、という顔で職員たちの動きが止まった。
翼が中へ入ってくるのを見て、ようやく数名の職員が集まってきた。
「つば……いえ、榊一尉、なぜここに?」
見知った顔の女性職員の問いかけに、翼は足を止めた。困惑する職員たちとは対照的に、翼の表情は険しい。
ここまで来てしまった以上、何らかの処罰を受けることは確定している。ならばこそ、引き下がるわけにはいかなかった。
「佐東一尉の面会に来ただけです。道を空けていただきたい」
「許可もないのに、そんなことできるわけありません」
「――待ってる暇などないのは、あなたがた研究員が一番よくご存じのはずだ!」
様々な計器や電子機器が並ぶ部屋に、翼の声が響いた。
静まり返った室内に、柊のバイタルを示す何らかの電子音が、ピッピッピッ、と規則的に繰り返される。
翼の指摘に、反論できる者はいなかった。
自分の仕事へ戻る者は誰もいない。翼と、その進路を塞ぐ数名の職員たちを、十数名の職員たちは黙って見守っていた。
「
返答はない。
目を逸らした職員へ、翼は詰め寄る。
「私は、着任当初から彼の秘密を知る、唯一の隊員です。彼にとって、私は他の隊員よりも深い絆がある、そう自負している。佐東一尉の治療のため、面会の許可を」
強い口調で言い切る翼を前に、女性職員は深く息を吐いた。
眉をひそめ、低い声で囁くように返す。
「……佐東一尉は、誰とも会いたくないそうです」
「え?」
「我々も、あなたを呼ぼうとしたんです。あなたなら機密保持の問題はないし、傍から見ても、佐東一尉と親しくしている隊員は、あなたをおいて他にいないから」
そこまで言って、女性職員は頭を抱えてしまった。その後ろに立つ男性職員が、続きを引き継いだ。
「だが、佐東一尉が拒んだんだ。誰とも会いたくない、独りにしてくれ、って」
「独りにしておいて、治療できる状態なのですか?」
「……正直、精神崩壊寸前だ」
「ならば、なおさら躊躇している暇などありません。私を彼の病室へ――」
しかし、誰も頷こうとはしない。
責任者のいない今、勝手な許可は出せない。それは、どこの組織も同じことだ。
翼が熱くなればなるだけ、大人たちは諦めの色を濃くしていく。
ここまで来たのに。
あと一つか二つ、扉を抜けるだけで会えるのに。
(強行突破するしかないのか――)
翼が僅かに腰を落とし、拳をそっと握りしめたそのとき、今しがた彼女も入ってきた扉が開いた。
姿を現したのは、研究所の所長である
「所長!」
「榊所長、戻られましたか」
「お疲れさまです、所長」
「いやあ、参ったねぇ……
話の途中で、明彦は侵入者の存在に気づいたらしい。
眼鏡の奥の目が、大きく見開かれた。
「あれ? なんで、君がここにいるんだい?」
翼の前まで来て、肩を竦めてみせる。大柄で筋肉質な明彦とは対照的に、翼は骨格的にも華奢で、ひょろりとした体格だ。
父親である明彦を見上げた翼は、一瞬、言葉を探すように眉をしかめた。彼女の代わりに、職員たちが状況を説明する。
ふんふん、と軽い調子で相づちを打ちながら、明彦はそれを聞いている。
「なるほどね。榊くんは佐東くんに会いたい。君らは、
職員たちは、口々に反対する理由を訴えた。
「言葉で傷つけるだけなら、榊一尉は受け流せると思います。ですが、暴力に訴えない保証はありません」
「今、小隊は戦える隊員がかなり少ない状況です。この上、榊一尉まで大怪我を負うようだと、次の戦闘に支障をきたすことになりかねません」
「第一、二人は若いとはいえ、男性と女性です。万が一、佐東一尉が乱暴に及ぶようなことがあれば……」
わかったわかった、というように、明彦は宥めるような仕草をした。
そうして、黙って自分を見上げ続ける翼へ笑みを向ける。
「そういうの、全部分かって言ってるんでしょ?」
「所長!」
「榊所長!?」
「拳で殴り合って深まる友情だってあるでしょ。佐東くんが元自警団のエリートだからって、さすがに今は人を殺せやしないよ。手足が半分しかないんだからさ」
「いや、あのそれはそうですが」
職員の相手をしながらも、明彦の視線は翼へ注がれている。
引き返すなら、今の内だ。踏み出せば後戻りはできない。そう、告げている。
「
「所長、それはその、建前であって……」
「うん? 佐東くんも、榊くんも、男の子でしょ?」
有無を言わさぬ笑みで周囲を圧倒しつつ、翼へ語り掛ける。
「少なくとも、うちの
翼は、深く頷いてから口を開いた。
「――私は、男です」
「そういうところ、君ら兄弟はそっくりだよ。僕に似ず、ね」
「誉め言葉として受け取らせていただきます」
「そういう可愛くないところもそっくりだよ。僕に似て、ね」
軽い口調で、明彦は隣の部屋へ続く施錠を開けるように指示を出した。
所長の指示ということで、すぐに面会の手続きが整えられる。その様子を眺めている翼へ、明彦が一歩近づいた。ポン、と翼の華奢な肩を叩きつつ、身をかがめる。
目を合わせたときにはもう、明彦は笑っていなかった。
翼も、その表情に何かを感じ取ったのだろう。唾を飲み込む音がした。
「……彼の心の闇は深い。君と同等か、或いはそれ以上に、ね」
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