第78話 覚悟の犠牲、喪失の痛み

「この距離でドアを動かしたら音で気づかれるから、ビルの中へ逃げこむのは、俺が交戦を始めてからにして」

「え……え?」

「できるだけ、ここから離れて戦うようにするから」


 それだけ告げると、柊は腰の脇差を抜いた。だが、翼がやるようにスムースにはできなかった。手が震えて鞘と擦れたのだろう。

(落ち着け、落ち着け……自警団の予備科で、対人だけど、警棒を使った訓練ならしたことあるだろ)

 格闘術と弓術はかなりやり込んだが、警棒術はあまり自信がなかった。

 予備科に入って一ヶ月目の試験で好成績を出したときに、訓練にかこつけて上級生に半殺しにされたせいだ。

(脇差と警棒は違うけど、基礎は同じはずだ……けど、何が違うんだ? 重さが違うから力がいるんだっけ)

 たった独りで接近戦をけしかける初めての経験に、心臓の音が強くなる。唾を飲み込もうにも、喉がからからで上手くできなかった。

 ちらりと肩越しに視線を向ける。西村は、呼吸をするのも怖い、というように両手で口もとを覆っている。

(この距離だと、いつ他の隊員が救援に来るか分からない。てことは、臨界速ダブルギアは使えないか……)

 ヘッドギア右側頭部のボタンを入れ、現場指揮官である美咲みさきと通信状態にする。【D】が角を曲がる前に、とビルの物陰から勢いよく飛び出した。

 アスファルトへ長く伸びた影の主を、見上げる。


「――こちら、四班佐東さとう。現在、一頭の【D】を目視!」

『こちら一班班長。敵影目視、了解よ』


 焦げ茶色の毛皮に体表を覆われたそれは、四つ足で歩くのをやめ、柊を凝視した。

 恐らくその【D】は、ヒグマと呼ばれる生物が基になったのだろう。実際のヒグマがどの程度の大きさか柊は知らなかったが、実物より遥かに大きいのは間違いない。

 道を半ば塞ぐように転がっているバスの屋根ルーフ部分にひょいっと手を乗せると、【D】はのっそり立ち上がった。その勢いで、バスはゴロンと横倒しになる。

(――でかい)

 神獣型に分類される八咫烏ヤタガラス八岐大蛇ヤマタノオロチよりは、かなり小さい。とはいえ、同じ通常タイプだった山犬型より、一回り大きそうだ。サイズに関しては、元となる生物が犬か熊か、という違いもあるのかもしれない。

 後ろ足で立ち上がったヒグマの頭は、道の両脇に並ぶビルの二階天井部分に達している。おおよそ、六メートル弱か。巡回バスの屋根が、体高の半分しかない。

 交戦時に斬りつけられたのだろう、右腕から出血している。また、両肩から背中へかけて、無数の矢が刺さっていた。

 だが、エサを前にした【D】は、そんな怪我の痛みなど、頭から吹っ飛んだに違いない。だらだらと大量の涎で胸元を濡らし、目を赤く光らせる。

(熊タイプは、犬以上に鼻が利くって習った。西村さんに気づかれる前に、感覚器官を潰さないと)

 柊は右手の脇差を突きつけるように【D】へ向け、大声を上げた。


「四班西村は、すぐ近くのビルに退避させました。これより接近戦を行います。至急、援護求む!」


 距離を詰めながら、準備中に美咲が言った注意点を思い出す。

――熊タイプの【D】は、鼻先が弱点です。感覚器官の殆どが鼻先へ集中しているわ。そして、顎の噛みつく力や爪の引き裂く力等、攻撃力が高いのも特徴よ。

(一撃喰らってでも、鼻を潰す!)


「ファウゥゥ……フグォルルルルルル……」


 威嚇の唸り声をあげ、ヒグマは両腕を開いた。

 勢いよく地を蹴り、横転したバスへ飛び乗る。速度補助ファースト・ギアを使っても、六メートルの高さまで跳ぶことはできない。そこで、横転したバスを助走台にする計算だ。

 そこへ、美咲の返答が聞こえてきた。


『こちらも交戦中よ。悪いけど、そちらへ人員を割くには少し時間がかかるわ。無理をせず、回避や逃走も視野に入れてちょうだい』


 通信越しに誰かの悲鳴が響く。悲鳴の途中で、ブツリと通信が切れた。

(回避や逃走をしたって、西村さんが餌食になるだけだ)

 横倒しになったバスの車体を走り、中央を過ぎたところで勢いよく踏み切る。

(大丈夫、大丈夫だ。俺は、神獣型【D】ヤタガラスのひなにだって、トドメを刺したことがある。通常型【D】くらい、一人で倒してやる)


「行くぞっ」

「フグォルル……グォオオオオオオッ」


 バスの車体を蹴り、宙へ――。

 飛び上がる勢いも威力に変え、前に突き出した黒光りする鼻先を狙う。

(なんだろう、違和感が……そうか。訓練だと筋力補助セカンド・ギアでやってるから、いつもより脇差が重く感じてるんだ)

 袈裟斬りの要領で斜め下から斬りかかろうとした柊の眉が、しかめられる。

(速度が出ない。鼻には届くけど、これだとまともにカウンターを喰らうぞ)

 巨大ヒグマの右腕が振りかぶられる。だが、既に踏み切った後だ。今さら、攻撃を止めることはできない。

(くそっ 一撃、貰うしかない)

 左半身への痛打を覚悟しながら、そのまま突っ込んでいく。


「あああああああっ」

「グォオアアアアアアアアアッ」


 研ぎ澄まされた刃が、黒い鼻を削ぎ落とす――その直前、巨大ヒグマが僅かに身をよじった。切っ先は鼻の横を傷つけたものの、感覚器官は潰せていない。

(野生生物が、フェイント!?)

 直後、振り下ろされる剛毛に覆われた太い腕。成人男性の胴体以上の太さがある腕から繰り出された一撃は、的確に柊の右腕へヒットした。


「――んぐっ」


 発作的に吸い込んだ息の音。

 抗いようのない暴力で薙ぎ倒され、道の両脇に並ぶビルへ叩きつけられる。割れた窓ガラスの破片と共に落下し、アスファルトを転がる。激しい破壊音に、耳が壊れそうだ。

 だが、そんなことなど今はどうでもよかった。

 柊は、道の先に落ちている黒い物体を、信じられない想いで見つめていた。

(……腕……?)

 黒い服をまとうそれは、手首の上、十センチ程のところで切断されている。破れた服が断面を隠しているおかげで、骨や肉は見えないが、赤い血がアスファルトを汚していくのが分かった。

(黒い服……あれは、戦闘服……)

 無意識に右の二の腕辺りを抱きしめながら、柊は必死に息を吸おうとした。

(太刀じゃない、あれはもっと短いから……脇差……脇差を持った右手)

 右腕の三分の一を失いながら、柊はよろよろと立ち上がった。

 先ほど、自分で西村に説明した言葉が脳裏に蘇る。


――戦闘で腕を切断されたとするでしょ。

――この場合、できる限り、切断部位を持ち帰らないといけないんだ。


 四肢を切断されても、縫合さえ間に合えば、ダブルギア戦闘員は九割以上の確率で元の機能を取り戻すことができる。

 そう教えられていても、道の先に自分の腕と唯一の武器が落ちている、という状況を、冷静に受け止められる者がどれだけいるというのだろう。

 ましてや、まだ三戦目の新人同然で。

 これまで【D】との戦いでは、骨折と裂傷しか受けたことがなく、仲間の死すら見届けたことのない柊が、的確な判断などできるはずもなかった。


「腕、俺の……」


(あれを持ち帰らなきゃ、縫合してもらえない……食べられたら喪失ロストする)

 第一、唯一の武器である脇差も、右手が握ったままなのだ。

 周囲の状況など確認する余裕もなく、柊は道の真ん中に落ちている自分の右腕へ駆け寄っていた。

 しかしそれは、血に飢えた獰猛な肉食獣へ、背を向ける行為でしかない。

 すっかり血の気の失せた顔で腕を拾い上げた柊へ、ガラスを震わせるほどの咆哮が浴びせられる。


「グルァアアアアアアアアアッ」


 振り返る暇などない。拾った手を右腕で抱きかかえ、前へ飛ぶ。

 とびこみ前転の要領で、地面すれすれを舐めるように跳び、左手でハンドスプリング。態勢を整えながら距離を取って――。

 散々、自警団予備科で練習した回避行動は、左足への痛烈な一撃で途絶えた。


「く、あああぁああっ」

「グォオオオオ」


 衝撃で地面を転がりながら、必死に敵の位置を確認しようとする。

 僅か三メートル先に、人間の三倍以上もある大きさのヒグマが、口を真っ赤に染めて笑っている。肩から胸にかけて白いラインのような毛が生えているが、それも鮮血によって赤くなっていた。

(……待って。なんで、口が赤いんだ?)

 理解できない事実を突きつけられ、柊は一瞬、ぼんやりと敵を見上げていた。

 敵の胸元や腕が血に染まっているのは、当然だ。柊の右腕を叩き折ったときに、返り血を浴びたのだろう。

 だが、ニチャリ、と開いた口や牙から、粘性のある鮮血がしたたり落ちる理由にはならない。

 無意識のうちに、倒れたまま後ずさりしようとする。

 左足が地面と擦れた途端、足先から脳髄まで直線的な痛みが突き抜けていった。


「な、何で、ウソだろ……」


 左足首から先の感覚がない。

 目の前の巨大なヒグマは、嬉しそうに目を赤く滾らせ、クチャクチャと口を動かしている。

(喰われた? 俺の、足を……俺の左足を、まさか喰われたのか!?)

 駅を出たとき、震える声で問いかける西村へ柊は答えた。


――もし食べられちゃった場合、その【D】を倒しきる前に、奪われた身体を取り返さなきゃいけないんだよ。

――正気の沙汰とは思えへん。

――俺だって嫌だよ。けど、倒された【D】が消えてくときに、食べちゃったものまで一緒に消えちゃうんだから仕方ないでしょ。

――消えてしもうたら、もう、その腕は生えてきいひんの?


 そこまで思い出したところで、強制的に現実へ引き戻される。

 巨大ヒグマは弱った獲物で遊ぶように、のっそりと前足を出した。


「ひっ」

「フグルゥオオオ……フゴルルル……」


 そのとき、道の反対側のビルの三階の窓が開き、西村が顔を覗かせた。

 血まみれの柊と【D】を見た瞬間、大きく目を開く。西村は窓枠を握りしめ、声を張り上げた。


「何しとんのや! は、はよ、た……立って逃げんと!」


 新たなエサの登場に、【D】は一瞬、歩みを止める。

 大型トラックのタイヤのような太い後ろ足で、すっくと立ちあがった。

 地面に横たわる柊と、自分の頭より上の階にいる西村――両者を見比べた後、やはり、手近なほうに決めたらしい。半立ちの姿勢から、再び四つ足で歩き始める。


「ど、どないしたらええんや、なあっ」

「現場指揮官の生駒いこま美咲みさきさんか、班長のつばさに通信して!」

「通信て、どこで操作するんよ」

「み、右こめかみの四角いボタン――」


 どすん、と踏みつぶすように押し付けられる前足。

 内臓を潰されまい、と必死に片腕で受け止める。だが普通のヒグマでさえ三百キロ程度あり、巨大な個体なら五百キロを超える。

 当然、その二倍の体高がある巨大ヒグマは、1トン以上あるのだろう。身近なもので例えるなら、ワゴンタイプの軽自動車か小型セダンに、ゆっくりと轢かれるようなものだ。

 筋力補助セカンド・ギア臨界速ダブルギアも使っていない柊に、それを受け止めるなど不可能だ。

 ミシミシと音を立てる左腕、荒く不規則に乱れる呼吸。


「誰か早ぅ来て! 四班の佐東が、化け物とたたこうて、死にそうなんや」

『西村さん?』


 通信相手を特定しなかったのだろう。西村の呼びかけは、全隊員に聞こえていた。

 応答したのは、現場指揮官の美咲だ。


『落ち着いてちょうだい。佐東さんは、戦歴は浅いけれどエース候補の隊員よ。多少負傷をしても、通常タイプの【D】に後れを取るとは――』

「死にそう、って言うたら、死にそうなんや! 誰かて死ぬときは死ぬんやで。エースだろうが指揮官だろうが、そんなん関係あらへんやろ!!」


 美咲を怒鳴りつける西村の声は、涙で滲んでいた。

 室内に置かれていた植木鉢を取ると、窓から巨大熊めがけて投げようとする。だが、それは真下の道路へ落ちていった。


「佐東はあんたらの仲間なんやろ? はよ助けてやってや」


 西村と他の隊員とのやりとりの合間にも、誰かの悲鳴や、もう一頭の【D】の威嚇の咆哮が割り込む。あちらの戦況も、思わしくないのだろう。

 そんな耳障りな音を聞きながら、柊は必死に圧し潰されまい、と左腕に力を込めていた。

(このまま、なんとか救援が来るまで耐えるんだ。そしたら倒す前に内臓を裂いて、俺の左足を――)

 噛み締めた奥歯が、ギチギチと音を立てる。

 ぐいっ、と重量が増した次の瞬間、身体の奥で何かが潰れるような音がした。


「ぐ、うううぅ」


 口から勝手に零れた血が、ヘッドギア内部に溜まる。

(ウソだろ……まさか、俺、ここで死ぬのか?)

 内臓へのダメージで、血圧が急上昇する。チカチカと明滅する世界の中、段々と音が遠のいていった。

(待って……待って、俺、まだ死にたくないんだ。ここで俺が死んだら、妹は何のために俺を――)

 自分が死ねば、次はすぐ傍にいる西村が喰われるだろう。

 必ず守る、と約束したのに。あれは、なんだったのだろうか。

 目の前で笑うように牙を見せつける巨大熊を、薙ぎ倒して。足を取り返し、脳天へ脇差を突き立て。通常型【D】くらい、一人で倒せる。そう、思ったはずなのに。


――だれか、たすけて。


 心の叫びは独り言のように口から零れ、鮮血が頬を汚した。

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