第77話 狙撃か、迎撃か

 しゅう西村にしむらが飛び出したのは、旧長野駅の東口駅前広場だった。

 半壊した市街地が続く善光寺口と違い、東口は長野県最大規模のターミナル駅としての面影を残している。

 二階建ての駅舎から続く、近代的な匂いを感じさせる立体的な通路。しかし、ここも十七年の間に何度も【D】の襲撃を受けたのだろう。立体通路の一部が完全に破壊され、通れなくなっている。

 横倒しのバスや乗用車が埃で灰色に染められ、アスファルトのひび割れまでもが前衛美術のようだ。

 埃と錆の匂いに交じり、どこからかむせるような甘い匂いがする。それは一瞬のことで、近くの草むらを飛び回るハエの群れが目についた。


「なんやこれ……配給車でも襲われて、食べもん零したんか?」

「西村さん、見ちゃダ――」


 制止する声も間に合わず、西村は喉の奥で悲鳴をあげた。

 無意識のうちに柊の腕に縋りつき、もう片方の手を口もとへ当てている。ヘッドギア越しなので、物理的な意味はないが、咄嗟のことで気が回らないのだろう。

 二人の視線の先――ハエの飛び回る草むらには、血だまりに浮かぶ白い腕が落ちている。持ち主が今も生きているかどうかは分からないが、状況的に、【D】に襲われたと考えるのが自然だ。だとすれば、高確率で巨大熊の腹の中だろう。


「な、なんや……あれ、まさか、【D】に食われたんか」


 高い声を震わせる西村のヘッドギアの目の辺りを、柊は手で覆った。


「たぶんそうだよ」

「なんで、そないな冷静でいられるん」

「冷静じゃないよ。落ち着かなきゃ死ぬ、って分かってるから、必死に冷静になろうとしてるだけ」


 西村の目元を覆う柊の手は、微かに震えている。

 怖くない、はずがない。新青森駅で八咫烏ヤタガラスと戦ったときも、必死に吐き気を堪えながらだった。山犬型【D】に追いかけられたとき、もしほんの少しでも身を躱すのが遅れていれば、左腕の裂傷ではなく、切断までいっていただろう。

 あそこに落ちている白い腕は、僅かな選択の違いで自分の腕であったとしてもおかしくない。それどころか、この後の戦闘の展開によっては、西村や自分が同じ目に遭うことも考えられた。


「ここにいても悪目立ちするだけだ。まずは、この駅前広場を出よう。正面のビルまで走るよ」


 返事はなかったが、柊は西村の背を抱えるようにして走り出した。

 広々とした駅前広場には、あちこちに血だまりができている。駅の二階部分から伸びる立体通路ペデストリアンデッキは、捩じ切られるように破壊されている。それは、今回の襲撃によるものだろうか。それとも、それ以前のものを修復する余裕がなく、放置しているのだろうか。

(ダメだ、集中しないと)

 いきなり人間の腕と血だまりを見て動揺しているのは、柊も同じだった。西村がいるから、取り乱すところを見せずに済んでいるだけで、何も感じていないわけではない。

 ドン・キホーテの看板がぐらぐらと揺れるビルまで走ると、西村を陰になる部分へ隠し、横道へ顔だけ出して辺りを確認する。かなり遠いところから聞こえてくる物音。翼たちが二体の【D】と戦う音だろう。

 ヘッドギアの機能を使い、仲間たちの位置を把握する。

 シールド部分に表示された地図へ、青い光で各戦闘員の位置がマークされる。その殆どは、駅から数百メートルほど離れた地点に集まっていた。どうやら、小さな公園にいるらしい。

 駅前には青い光が二つ――柊と西村だ。


「ここから三百メートルくらいのところで戦ってるみたい」

「そ、んなん……わか、るん?」


 西村は、完全に息が上がってしまっている。立っていられないのか、いつの間にか座り込んでしまっていた。


「配られたテキストに書いてあったでしょ。読んでない?」

「読む、わけ、あらへん……やろ」

「っていうかあの、まだ移動するんだけど……走れるよね?」


 項垂れたまま、西村は頭を振る。


「無理……もう、走れへん」

「いや、だって、まだ百メートルも走ってないのに?」


 すると、西村は自分の両腕を抱きしめるような仕草で叫んだ。


「こないな状況で、まともに走れるわけあらへんやろ!」

「え……」

「に、人間を食べるでっかい化け物と戦え、って放り出されて、あんた、ほんまに怖ないんか? 内臓全部吐きそうなくらい、緊張せぇへんの?」

「お、俺だって怖いし……緊張もしてるけど……」

「緊張なんてしてへんよ、あんたは。うちみたいな普通の人間からしたら、あんたたち生まれつきの兵隊みたいなんは、人間とちごうて見えるわ!」


 涙交じりの声で罵ると、西村はもう我慢できなくなったのだろう。わあわあと声をあげて泣き始めた。


「嫌や……うち、あの腕の人みたいに化け物なんぞに喰われとうない……」

「西村さん」

「なあ、あの腕の人、どうなったん? 身体は全部食われたんか。今、あっちで戦ってる化け物を倒したら、その人はどうなるん?」


 座学の授業は居眠りばかりしている柊も、そのページの内容だけは憶えていた。


「……【D】に捕食された場合、その物質は全て、この世から喪失ロストするんだ」

「ろ、ロスト?」

「普通の人は、喰われた時点で出血で死ぬんだけどね。俺たちダブルギアに限定して説明すると、確か……」


 テキストの文言を思い出しながら、柊は続けた。

 例えば、戦闘で腕を切断されたとする。

 この場合、可能な限り、切断部位を持ち帰らなければならない。

 ダブルギアの高い自己治癒力では、切断されても縫合できれば、高確率で再び戦えるようになる。少なくとも、除隊したとしても普通の生活や仕事をする分には支障はない。そのくらい、彼らの治癒力は高い。

 一方、捕食されてしまった場合は、かなり面倒だ。


「もし食べられちゃった場合、その【D】を倒しきる前に奪われた身体を取り返さなきゃいけないんだよ」

「取り返すって……どないして?」

「それはまあ、普通に、お腹辺りを太刀か脇差で裂いて……」


 腹を裂き、【D】の内臓を掻き分ける映像を想像しかけたのか、西村の肩がぶるりと震える。


「正気の沙汰とは思えへん」

「俺だって嫌だよ。けど、倒された【D】が消えてくときに、食べちゃったものまで一緒に消えちゃうんだから仕方ないでしょ」

「消えてしもうたら、どないなるんや。もう、その腕は生えてきいひんの?」


 先ほどより幾らか呼吸の乱れが収まってきた西村の問いかけへ、柊は首を捻った。


「個人差が大きいみたいだよ。両足を失ったのに、足が生えて、また戦えるようになった人なんかもいるらしくて……まあ、それはあまり多くない、って書いてあったけど」

「……そう」


 柊は、体育座りをしている西村へ手を差し出した。

 ちらり、と西村はその手を見る。


「なんや、その手は」

「行こうよ、戦場へ。もう、呼吸は整ったでしょ」

「うちは化け物の昼飯なんかなりたない」


 柊もそれに深く頷く。


「だけど、こんな場所で襲われたら、俺一人で西村さんを守らなきゃいけないでしょ。それよりも、みんなと一緒に戦えば、みんなで守れるから」

「……うちはどうせ、あんたらの足手まといにしかなれへん。うちも、兵隊なんかなりたない。うちがここでずっと戦わずに逃げてれば、あの小隊長はんもそのうち諦めてくれるやろ」

「西村さん!」


 思わず声を張ったが、西村は嫌々をするように首を振るばかりだ。


「独りで隠れてれば、化け物も気づかへんとちゃうか?」

「ダメだよ。敵がどのくらいの大きさか分からないけど、古いビルは【D】の攻撃で崩落することもあるから。生き埋めになって死ぬだけだよ」

「もう、それでもええ。頼むさかい、うちを独りにしとぉくれやす」

「――っ」


 言い返そうとして息を吸ったそのとき、柊に通信が入った。


『こちら四班班長! 柊、応答しろ!』

つばさ? なに」

『大熊タイプ【D】の内、一頭が逃走した。駅前広場へ向かっている』


 先ほど確認した戦場方向に続く道へ、顔を向ける。

 どうやら、大通りにはいないようだ。だが、明らかに人間ではないものの大きな足音と、唸り声が近づいてきている。


『まだ敵に見つかっていないなら、すぐ西村とその場を離れろ。速度補助ファースト・ギアを使えば、西村も少しは走れるはずだ』

「了解っ」


 通信が終わる前に、柊は屈みこんだ。西村のヘッドギア左こめかみに並ぶ、二つの歯車を模したボタン。金と赤、その中の金色のボタンを押し込んでやる。

 その途端、西村は身体を二つに折るように身を縮めた。


「――うぇ……ぐ、うぅ……き、気持ち、わ、る」

「えっ?」


 必死に吐き気を押さえようとする西村の背を擦りながら、思い出す。

 ヘッドギアのギアを入れると、副作用として眩暈や吐き気を感じる。柊もその副作用に慣れるまで、一週間以上かかった。

(ダメだ、こんなんじゃ余計に走れない。速度補助ファースト・ギアは切るしかない)


 そうしている間にも、足音はどんどん近づいてくる。

 慌てて西村の速度補助ファースト・ギアを解除してやりながら、柊は唾を飲みこんだ。

(やるしかない)

 速度補助ファースト・ギアを使ったところで、副作用に慣れていない西村は、恐らく立つこともできないだろう。

 ならば、残された道は二つだけだ。

 西村をここに残し、狙撃しやすい位置へ自分だけ移動するか。

 それとも、ここで【D】を迎え討つか――。


「……他のみんなが来てくれるまで、俺が【D】と戦うしかない」


 ぽつりと呟く柊を、西村は震えながら見上げた。アスファルトを砕く足音は、すぐそこまで来ている。

 距離を取れないならば、接近戦をするしかない。

 柊は弓と矢筒をその場に捨て、腰に差した脇差の束へ手を掛けた。

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