第69話 黒表紙の真実

 小隊長室の奥に置かれた、年代物のデスクチェア。その革張りの椅子に座ったまま、さかきは机に両肘を突いている。組んだ手を、コツ、コツ、と軍帽越しに額に当てながら、二人の言い訳を聞いていた。


「それで。言いたいことは、それだけか」


 いつも以上に低く腹に響く榊の声に、しゅうの顔色は更に青くなる。

 一方、その隣に並んで立たされている西村にしむらは、榊の言葉を聞いて露骨に眉をひそめた。


「真剣に訴えたのに“そんなん”なんて、えらい酷い言い草どすなぁ」

「に、西村さん……そんな口答えばかりするのは……」


 いきり立つ西村を宥めようと、柊は慌てて話しかける。

 だが、柊のことなどまるで眼中にないのか、西村は振り返ろうともしなかった。


「うちの要求は、ただ一つ。京都へ帰してほしい、それだけどす。そのためなら、守秘義務も減俸も受け入れる――そう言いましたやろ!」

「おまえ一人を特別扱いするわけにはいかない」

「他人なんて関係あらへん。こら、うちの問題どす。うちはただ、ダブルギアなんかなりたないだけや!」


 柊も、最初は無視されたことにカチンと来た。

 けれどもこうして数十分、必死の訴えを聞いていると、段々と怒りも収まってきた。

(よくまあ、ここまであの榊小隊長に食い下がれるよな……)

 榊は、なまじ容姿が整っているだけに冷淡そうに見えるが、きちんと隊員たちの話にも耳を傾けてくれるし、先日のように雑談に交じることさえある。もっとも、柊を始めとして多くの隊員は、それを戦々恐々と見守っているだけだが。

(でも、初対面に近い上司にここまで言い返すって、普通、気が引けるよな)

 誰だって、化け物と戦うのは怖い。

 長いものに巻かれて生きてきた柊でさえ、「貧乏くじを引いた」と愚痴を零したし、最初は逃げ出そうとした。

 西村の必死の説得を聞くうち、“可哀想だな”という気持ちが出てきてしまったのも当然だろう。

 だが、小隊長である榊は違う。

 新人が、家に帰りたい、戦いたくない、と反抗するのはいつものことだ。榊は彼女たちの涙の訴えを、毎回相手が納得するまで延々と聞かされているに違いない。

 榊の表情は、幾分か疲れが見えるだけで、怒りの色も同情の匂いもなかった。


「ここへ来た以上、戦闘員として基地で暮らすことは、西村自身を守ることに繋がるのだ。おまえが想像するその何百倍も、ダブルギアは、国内外のあらゆる組織及び個人から狙われている」

「うちは、そないな脅しに屈するような小娘とちゃうで」


 その言葉に、榊は息を吐くと背筋を伸ばした。


「よかろう。確かに西村は、十代前半で着任する他の新人とは違う。あと二年で成人だ――おまえには、真実を話しても構わないだろう」


 そう言って、榊は椅子から立ち上がった。壁際に置かれたキャビネットの鍵を開け、黒いファイルを取り出した。

 榊は、西村の顔を窺っている柊をちらりと見ると、ファイルの表紙を開いた。そのまま、西村へ渡す。

 横から盗み見ると、紙が黄ばんでいる。どうやら、かなり古い資料も含まれているようだ。


「……榊小隊長。あの、俺も見ていいんですか?」

「構わん。まだ早いとは思うが、おまえにはいずれ教える必要があった」


 ファイルを受け取ったまま固まっている西村に、一歩近寄る。

 資料を見る西村の目元が、ぴくぴくと痙攣している。榊の言葉からも、愉快な資料でないのは間違いない。

 恐る恐る、柊も画像が何枚も掲載された資料を覗き込む。

 ページのタイトルは、「覚醒者と誤認された者」とあった。

 焦点の定まらない目で中空を見つめる手足のない青年――その説明を読むうち、柊の頬が緊張で強張った。


Case.1 T家に連なる男性、17歳

 家族からの捜索願いが出されて二ヶ月後、国内で発見された。

 ダブルギア覚醒遺伝子を持つと推測されての誘拐か。覚醒剤等、複数の薬物が使用された痕跡あり。「危機的状況に陥ると覚醒する」というデマを基に、人体実験された模様。四肢の内、左腕以外を外科手術で欠損させられている。


(人体実験って……そんな生ぬるいものじゃないだろ、これ)

 次の画像は、殆ど髪が抜け落ちた女性だった。残っている髪も、ほぼ全て白髪になっている。しかし、肌の感じからして老女ではないらしい。


Case.2 P国から救助された女性、21歳

 13歳のときにA国が拉致し、P国へ人身売買された女性。ダブルギア覚醒遺伝子を持つ、との触れ込みとのこと(実際は三親等内に覚醒者がいないため、売るための嘘と思われる)。

 P国にて、人工授精で二百以上の受精卵が代理出産される。そのうち八十名以上の女児(生物学上、女性の娘)が殺処分され、百名以上の男児(同女性の息子)がダブルギア覚醒を期待されて人体実験された。

 女性自身、深い心的障害で意思の疎通はほぼできない。


 三つ目の画像は、死体の痕跡だった。

 血の海に浮かぶ黒ずんだ肉片――何人殺せば、これだけ床を汚せるのだろうか。三十畳はありそうな広い室内は、赤く染まっていないタイルを探すのが困難なほど、血にまみれていた。


Case.3 13歳から19歳の男性、18名。生存者は17歳男性。

 国内の某宗教団体が別件で捜査されたときに、偶然発見された監禁施設。信者の子どもを中心に十八名の少年が一つの部屋に集められ、僅かな水と食料と共に閉じ込められた。食料を奪い合い、殺し合いに発展。

「極限状態で覚醒する」というデマを信じ、自分たちの信じる神の戦士を生み出そうとしたと思われる。


 Case.4……Case.5……無限に続く地獄の光景に、ページをめくることができない。

 虚空を見つめる瞳、肉の切断面、黄色い脂肪粒――それらが意味するものを理解した瞬間、資料が柊の手に押し付けられた。

 慌ててそれを握った次の瞬間、西村が床へ倒れ込む。


「ぉえ……えっ あ、あ……はあ、はあ……ううぅ……」


 透明な胃液を吐きながら、西村は背を震わせている。

 柊も胃がむかむかしていたが、手の甲を口もとへ押し当て、どうにか堪える。

 柊は自警団予備科時代、【D】に破壊された都市の復興救助に参加していた。そのとき、【D】に潰され切り刻まれた大量の死体を見たことがあった。

 八咫烏ヤタガラス戦でも、親鳥に襲撃された青森シェルターの惨状を目の当たりにしている。

 それがあったから、どうにか踏みとどまることができた。でなければ、柊も西村の隣で胃液を吐いていただろう。

 真っ白な顔で口もとを押さえる柊から、榊は資料を受け取った。いつもより低い声で、静かに語り掛ける。


「毎年、何百人という少年が拉致され、もっと酷い地獄を彷徨い、そして殺されている。西村、これはおまえの未来だ」


 床に座り込んだまま、西村はぶるぶると肩を震わせた。


「最初の二件だけでも分かる通り、実際に覚醒していない者でも、可能性がある、というだけで拉致されている。西村が中央へ呼び出されたことは、既に何百という国や組織に報告されているはずだ」

「……うちもこうなる、と脅迫するつもりどすか?」

「おまえは女だから、ケース2に近い扱いになるだろう」


 もう胃の中はからっぽのはずなのに、再びこみ上げてくる吐き気。西村は、二十代なのに白髪になってしまった女性の画像を思い出したのだろう。

 捕まれば、自分も同じ目に遭わせられる――想像さえ脳が拒否するほどの恐怖に、大粒の涙が床へ落ちた。

 榊は、黒い表紙のファイルをキャビネットへ戻した。


「私は、二十歳の退役を迎えた者だけでなく、戦闘不能の負傷で除隊した者も、できる限りこの基地へ残るよう、説得している。この基地にいれば、戦闘員と同じように守ることができるからだ」


 柊の脳裏に、先日の食堂での会話が蘇る。

 もうすぐ退役の美咲は、ここに残ると言っていた。しかし二班班長だった藤波ふじなみは、郷里へ帰るつもりだ、と言っていた気がする。


「あ、あの……でも、それでも戻るっていう人はいるんですか?」

「少数だがな。だから、私はそういう者には早めに資料を見せる。それでも故郷へ戻るというなら、生きる道は二つしかない」


 白手袋を嵌めた長い指を、一つ、と示してみせる。


「エースに相応しい実力をつけること。その場合、佐東さとうのような自警団出身者でなくとも、帰郷後すぐ、要人警護の職に就くことができる」


 人差し指に続いて中指が伸ばされ、二つ、と示される。


「もう一つ。ここの座学で概ね四百八十点以上を出せるようになれば、シェルターを統括する知事の秘書になることができる。どちらの道も共通するように、要は、権力者の加護を手に入れなければならない」

「……誰かに守ってもらえなかったら、その写真みたいになる、ってこと、ですか」


 柊の問いかけに、榊は手を戻しながら頷いた。


「そうだ。だから西村、おまえがどうしても京都へ帰りたいと言うのなら、訓練に参加し――」

「……子ども騙しも、ええ加減にしとぉくれや。小隊長はん」


 それまで黙っていた西村が、口もとを拭いながら立ち上がった。

 顔色は悪いが、榊を睨みつける目には怒りがこもっている。


「うちが運動音痴なんは、知ってるやろ? 勉強かて、顔しか取り柄のなかったおかんに似て、さっぱりや。そないなうちが努力したところで、エースになれるわけあらへんやんか!」


 榊は、その言葉を否定しなかった。

 十八になる西村に、上辺だけの慰めは通用しない、と分かっているのだろう。

 西村の握りしめた拳が、ぶるぶると震える。怒りに目元を赤くし、西村は声を荒らげた。


「京都へ帰してや! ここへ来て、まだ一日や。おとんが陰陽寮おんようりょうの職員やさかい、その関係で資料を取りに行かされたやら……理由なんて適当に作れるやろ」

「無理だ。この基地を出たら、京都へ帰ることなく、どこかへ連れ去られるだろう」

「報告が上がった時点で、うちが兵隊なんかに向いてへんことくらい、分かっとったやろう? なんで、そっとしておいてくれへんかったんや……!」

「戦闘員は、常に足りていない。我々も、ギリギリの戦いをしている」

「勝手なこと言うなや!」


 西村は、鋭い視線をスライドさせた。

 彼女を心配そうに眺める柊と目が合う。

(あんな資料を見せられても、帰りたいって言うなんて……何か、深い理由があるんじゃないのかな)

 そんなことを考えていた柊の襟へ、細い手が伸ばされた。

 すっかり西村に同情しつつあったせいで、避けるのが遅れる。

 西村は、柊の胸倉を掴んだまま榊に言った。


「京都へ帰せ――であらへんと、『こいつは男や』て、兵隊たちに・・・・・バラすで・・・・!」

「――ちょっ お、俺、関係ない」


(前言撤回――この人、最悪だ!!)

 しかし、西村は全体重をかけて掴んだ胸倉を引っ張る。その手を振りほどけば、運動音痴の彼女は派手に転がるだろう。

 押し問答していると、榊が小さく息を吸う音がした。

 慌ててそちらへ視線を向ける。榊は、いつもと変わらない無表情に近い顔で西村を正面から見つめていた。


「好きにしろ」

「え……さ、榊、小隊長……」

「はっ 残念やな。はったり・・・・っちゅうもんは、相手の持ってる情報が少ないときにしか通用しいひんのやで」


 柊の胸倉を掴む力が強くなる。


「こいつ、月読命ツクヨミノミコトの兵隊なんやろ? てことは、定年のない、死ぬまで戦わされる兵隊蟻や」


 そのことは、既に柊も知っている。

 西村は、反応の薄い榊を睨みながら続けた。


「あんたは、こいつをエースか指揮官にでも育てたいんやろうけど……男かてバレたら、女たちに寄ってたかって虐められんで。それでもええんか?」

「――だから、どうした」


 そう言うと、榊は一歩前へ出た。

 柊の胸倉を掴んでいる西村の細い腕を掴むと、強引に引き剥がす。殴られる――と身を竦めた西村だったが、その予想に反し、榊はパッと手を離した。

 柊とほぼ同じだけの背丈がある榊に見下ろされながら、西村は柔らかそうなくちびるをそっと噛み締める。


「西村の件と、佐東の件は別問題だ」

「うちには分かる。こいつ、根っからの虐められっ子や。そんでここの女たちに虐められよったら、一発でメンタル病むで。それでもええ、言うんか?」

「だから、それがどうした」


 冷淡に言い放つ榊を、柊も困惑した様子で眺めている。

 まさか、榊は自分を見捨てるつもりなのだろうか?

 すると西村は、顔を歪めて笑った。


「……それがあんたらの本性や! 自分さえ良ければ、それでええんやろな。兵隊なんて、使い捨ての駒としか思うとらんのや」

「好きにするといい」

「――後悔しなや」


 西村は踵を返すと、あまり褒められたものではないフォームで走り始めた。力任せにドアを引っ張り、よろめいて廊下へ出ていく。

 柊は目を丸くして榊へ振り返った。


「ちょ、ちょっと、あの人どうするんですか!」

「不安なら、ついて行ってみればいい」

「行かないわけないでしょう!!」


 何考えてるんだよ――心の中で榊へ毒づきながら、柊も小隊長室を後にする。残念ながら、その言葉は口から出ていることに柊は気づいていなかったが。

 西村と柊を見送った榊は、黒いネクタイを軽く直した。


「……さて。私も後を追うとするか」

「かしこまりました。総理への報告書は、わたくしがまとめておきますので」

「そうしてくれ」


 モップを手にした秘書へ声をかけると、榊は急ぐ素振りもなく廊下へ出た。

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