第67話 致命的な凡ミス
もうすぐ始業時刻を迎える基地の廊下は、ざわめきに満ちていた。
訓練用の作業着に着替えた隊員たちが、次々と個室から出てくる。交わされる挨拶、小走りで移動する足音。普段よりもその数はかなり少なかったが、朝の活気は充分に感じられる。
そんな喧噪が去っていくのを、
昨日は新人とコミュニケーションを取ろうとして慣れない気を遣ったせいか、嫌な夢を見てしまった。ふと、壁の時計を見上げた目が丸くなる。
(――待って、朝食時間まで終わってる!!)
食べることのできなかった朝食のメニューを思い浮かべながら、柊はクローゼットを乱暴に開き、黒の作業着を掴んだ。
どうにか身支度を終え、廊下へ飛び出す。
どうせ鍵は自動で閉まる。しかも、虹彩認証か、小隊長が管理するマスターキーでしか開かない。柊は、脇目も振らずに走り出した。
「ヤバい、これ本気で遅刻だっ」
廊下の遥か先を駆け足で進む隊員の後ろ姿を見て、一気に加速する。
元自警団、というのは伊達じゃない。身体能力は折り紙付きだ。僅か数メートルでトップスピードに達すると、美しいフォームで廊下を駆け抜ける。
そんな柊の後ろ姿を、黙って見送る影が一つ。
柊が勢いよく開いたドアにぶつかりかけて、思わず廊下に座り込んでしまったのは、
咄嗟に抑えたドアは、開いたまま。
廊下の先をしばらく見つめた後、西村は柊の部屋へ足を踏み入れた。
「……ちょうどええ。あの男みたいな小隊長も、まさか、訓練に参加してる奴の個室にうちがおるとは考えへんやろ」
ちゃんとドアを閉めない奴が悪いんだ――そんな風に自分へ言い聞かせつつ、西村は玄関から続く廊下を進む。
ベッドや机の置かれた六畳間の真ん中に立つと、辺りを見渡す。どうやら、部屋の造りはどこも同じらしい。
(ろくな私物があらへんな。ここへ来て間もないのは、ほんまなんか)
ベッドに腰を下ろした途端、反射的に眉をしかめる。
まだ温かい――どうやら、柊は部屋を出る寸前までベッドにいたらしい。
(あの
ま、どうせ上辺だけの仲良しごっこなんてそんなもんだろう、と鼻で笑う。
何か暇つぶしになるものはないか、と再び室内を見渡したそのとき、ものすごい勢いでドアが開いた。
西村の視線の先に現れたのは、この部屋の
柊は慌ててドアを閉めると、ズボンを留めるベルトを外し始めた。チャックを下ろしつつ、脇のクローゼットを開き、下着の入った引き出しを漁る。
「くそっ、寝坊して
ズボンを脱ぎ、ボクサーショーツの上に
ベッドに、誰かいる。
まばたきを繰り返しながら、柊は相手の顔を確認した。
艶やかなロングヘアが美しい新人の西村が、大きく目を見開いている。一応、作業着は着ているが、ベルトの位置やブーツの紐等、柊が教えるべき諸々は適当だ。
互いの視線が合った瞬間、叫んだのは柊だった。
「ひぃっ」
心臓の辺りを抑えたまま、その場にうずくまる。
(な、なんで俺の部屋に他人がいるの!? ていうか、まさか今の……全部見られてた?)
止まりかけた心臓が痛い。喘ぐように口をパクパクさせる柊を見ながら、西村も必死に状況を理解しようとしている。
先に混乱から立ち直ったのは、下着姿を見られた柊ではなく、見てしまった西村のほうだった。
「……うちのおとん、
「お、おんよう、りょう?」
どこかで聞いた名前だが、思い出せない。首を傾げる柊へ、西村が補足する。
「元々は吉凶を占ったり、式神で帝や都を護ったりしとった省庁や」
「シキガミ?」
「想像つくやろうけど、かつてそこで働てた“陰陽師”言うんは、各地から集めてこられたダブルギアでな。都に現れた【D】を倒しとったそうや」
「はあ……」
要するに、西村の父親は、基地に隣接する巨大生物研究所と似たような場所で仕事をしているらしい。
混乱している柊を前に、西村は細い足を組み替えながら説明を続ける。
「まだ分からんか? うちは、おとんからダブルギアのことを聞かされて育ってきたんや。そやさかい、騙されへんで」
「だ、騙すって」
震える声で尋ねる柊へ、西村は目つきを鋭くする。
「表向き、ダブルギアは男だけ、ってことになっとる。けどほんまは、
「は、はい……」
「せやけど、あんたの身体、どう見たって男やないの」
「こ、これにはその、深い事情が」
はっきりしない柊の返答に、西村は枕を掴んで投げようとする。
だが、柊を狙ったはずの枕は、何故か西村の背後の壁にぶつかった。
あまりに酷い西村の投擲フォームに、柊は首を捻る。
地上時代ならば、オリンピック候補になっていたであろう、と言われるほど身体能力の高い柊にとって、枕を相手にぶつけようとして自分の背後に飛ばすなど、理解不能な状況だった。
「西村さん?」
「――うるさいっ こっち見んなや!」
西村の顔は、頬だけでなく耳や目元まで真っ赤だ。
だが、追及の手は止まらない。彼女は壁のほうを向いたまま、なお一層、早口で追撃する。
「男ってこと、他の隊員は知らへんのやろ?」
「えっ」
「あんたみたいなよう喋られへん奴が、たった一人だけ男だなんて状況で、女の集団に受け入れられるはずがあらへんもの」
「そうです、ね」
いつしか正座をして肩を丸めていた柊に、西村は余裕の笑みを浮かべてみせた。
「男なら、
西村の父が、ダブルギアや【D】に関する研究員というのは、嘘ではないらしい。
ここまでバレてしまったのなら、もはや騙し通せるはずもなかった。
「
「男ってこと、黙っとってほしおすやろ?」
「は、はい」
「ふふっ 独りぼっちなるんは、あんたかて嫌やろ?」
それまで鈴の音のように高く軽やかだった西村の声のトーンが、低くなる。
「……腹を探られるのんは、ほんま不快やけど。誰にも心を打ち明けられへんのも、敵わんもんやで」
その言葉は、嫌というほど身に染みている。
俯いたまま抗議も否定もしないことが、柊の答えだった。西村の形の良いくちびるが弧を描く。
「なあ、取引しようや」
「ど、どんな?」
「あんたが訓練に参加してる間、この部屋をうちに貸しなや」
「えっ それだけ?」
「自分の部屋におったらすぐ見つかるやろうけど、まさか他の隊員の私室におるとは、上役たちも考えへんどっしゃろ」
西村は、ニィっと作り笑いを浮かべた。
「うちは、京都に帰りたいだけや。訓練も、戦闘も参加しいひん」
「完全にボイコットするの?」
「そうや。やる気も才能もあらへん女に構うてる暇はあらへん、と小隊長はんが分かってくれるまで、この部屋で暇つぶしさせてもらえればええ」
分かったらとっとと行きなさい、とばかりに手を払う。
そんな西村と壁掛け時計を交互に見た後、柊は素早くズボンを直し、部屋から走り出ていった。
走り去る後ろ姿を見送ることもなく、西村は小さなため息を吐く。大きな背伸びを一つした後、暇つぶしの道具を探そうと、本棚の前に移動した。
「『実践弓道』、『プランクの応用と肉体改造の全て』『動体視力はこう鍛えろ!』……本棚まで脳筋やないの。戦闘員は、給料かてええんやろうし、エロ本の一つくらい、持ってへんのか」
上手いこと隠してるのか、と柊が聞いたら卒倒しそうな言葉を呟きながら、西村はベッドの上に寝転がった。
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