第64話 密室に二人

 午後の訓練が終わった後は、夕飯まで自由時間となっていることが多い。しゅうは、弓道場にいるか、自室で筋トレのどちらかだ。

 彼なりに、先日のあまりにも悲惨な試験結果を引きずっているのだろう。今日は弓を触る気にもならず、部屋で黙々と筋トレをしていた。

 誰に見られるわけでもないので、暑いから、とTシャツは脱いでいる。濃灰色のハーフパンツは支給品ではなく、基地へ来てから買った私物だ。

 と、ドアをノックする音に気づいて腕立てを止める。汗だくの上半身をタオルで拭きながら、返事をした。


「はい、誰ですか?」


 しかし、それに応対する声はない。

 首を傾げながら、シャワールームの隣に置かれた脱衣籠へ近づく。午前の訓練時に着ていた作業服のシャツを、籠から取り出した。

 自由時間なのだから私服でも構わないのだが、柊の場合、下手に柔らかな素材の服を着ると、体つきで男だとバレかねない。

 そのため、つばさ以外の隊員と会うときは、作業服か支給品のジャージを着ることにしている。慌てているせいか、うまくボタンが嵌らない。

 やっと身支度を終えると、口を尖らせつつドアへ向かった。


「……さかき小隊長や教官なら、内線電話だろうし」


 シャツの裾は出したままでいいか、と独り言を呟きながらドアを開ける。

 そこに立っていた相手を見て、柊は瞬きを繰り返した。


「どうしたの? そんな顔して……」


 翼は、柊の問いかけには答えないまま、足を出す。いつもとは違う重苦しい雰囲気に、柊は廊下の隅へ寄って道を開けた。

 バタン、と閉じるドアの音が、やけに大きく響く。

 奥へ歩く翼の背は、いつもと違って覇気がない。それどころか、迷子になって途方に暮れる子どものような危うさが感じられた。

 黙って後をついていくと、翼は部屋の中央で立ち止まる。

 振り返った彼女の顔は、すっかり血の気が失せていた。


「……基地と研究所の生活しか知らない私に、教えてほしい」

「えっ な、何を?」

「男同士の友だちって、どうやって慰め合うんだ?」


 普段なら、どういう意味ですか、と首を傾げていただろう。

 だが、そんな言葉は出てこなかった。慰め合う――つまり、今の翼には慰めが必要だ、と自分から吐露しているのだから。

 ほんの一ヶ月前は、肋骨が折れても柊を頼ろうとしなかった彼女が、こうして弱音を吐いている。それは、二人の距離が縮まった証拠だろうか。

 ふと、柔らかなくちびるの記憶が蘇りかけて首を振る。

(違う、そうじゃないって。翼は、男同士の友だちがどんな慰めをするか、って聞いているんだから)

 そこまで考えると、柊はため息を吐きながら壁に寄りかかった。


「……柊?」

「ごめん、翼。そういう慰め方、俺は教えてあげられない」

「私は柊の友だちではないのかな」

「いや、そうじゃなくてですね」


 がっくりと肩を落とし、低い声で自嘲する。


「友だちがいたことがないから、誰かと慰め合った経験がないんだよね、俺」

「一人も?」

「まったく」

「…………それは、こくなことを訊いた。さっきの言葉は忘れてくれ」


 そそくさと立ち去ろうとする翼の手を、思わず掴む。

 驚いて振り返った翼の瞳は、泣きそうになっていたのか、赤くなっていた。


「友だち同士で慰めるって、どうするのか知らないけどさ。俺でも、話くらいなら聞くから」


 こくん、と頷く翼を見た途端、心臓の動きがぎこちなくなる。

 ギクシャクしながら、好きな所に座って、と勧めると、翼は柊のベッドへ腰かけた。隣に座るのはなんだかマズい気がして、柊は勉強机とセットになった椅子へ。

 キィ、と軋む音に驚かされる。


「隣の部屋の隊員に、翼の話、聞かれたりしない?」

「大丈夫。それもあって、ここへ来たんだ」

「どういうこと?」


 柊の個室は、角部屋にある。そのため、隣り合う部屋は一つしかない。その境に存在する壁を見ながら、翼は質問に答えた。


「柊が着任する前日に、この部屋は防音素材を壁に張り巡らされたんだよ」

「俺だけ? なんで?」


 すると、翼はちょっとだけ笑みを浮かべてみせた。


「君がいたシェルターからの申し送りに、赤字で書かれていたんだ。『独り言が非常に多く、寝起きや睡眠中は思考が垂れ流しになる』って」

「待って。起きてるときの独り言が多いのは、一応、自覚があるんだ。でも、寝てるときとか寝起きに垂れ流し、ってのは……」

「そのままの意味みたいだよ。お腹すいたとか、寝足りないだとか、延々と呟いているらしいけど」


 翼の言葉を遮るように、柊は自分の顔を両手で覆った。


「絶対、それ以外のことも口走ってるだろ、俺」

「……君の着任前に防音処理は終えたから、他の隊員に寝言がバレることもないよ。私も口外しない。だからその、安心してほしい」


 ガンッ と、机に突っ伏した柊の頭が音を立てる。

(どう考えても、アレな夢を見たときにアレなことを呟いてるってことだろ。しかも、その報告書を翼に読まれてるってことかよ)


「死にたい。それか、穴に埋まって灰になりたい……」

「だ、大丈夫だよ。小隊長も、思春期の少年にとって妄想程度は健常な範囲のことだし、内容も偏執的マニアックではない、と言っていたから」

「ああああああああっ それ以上、触れるな、俺のアレな話に!」

「そこまで思いつめなくても」

「じゃあ、逆の立場なら翼は耐えられるの!?」


 しばらく待っても返答がないことに気づいて、そっと顔を上げる。

 翼は両手で顔を覆ったまま、柊のベッドに倒れ込んでいた。


「……なるほど。私は戦場以外で死ぬわけにはいかないけど、それでももし、同程度の秘密を他人に知られたとしたら、即身成仏せざるを得ないな」

「ご理解いただけたなら、その話には、もう触れないでくれます?」


 泣きそうになっている柊へ、コホン、と咳ばらいを一つ。翼は再び身体を起こし、ベッドの隅に座り直した。

 柊も姿勢を正すのを待って、翼は本題を切り出した。


「さっき、小隊長室に行ってきたんだ」

「何か叱られたの?」


 翼は柊へ背を向けると、小さく首を振った。


「……現場指揮を、美咲みさきさんと交代することになった」

「えっ」

「美咲さんの発案だけど、小隊長や上層部も、前からその予定でいたらしい」


 掛ける言葉が見つからず、柊は視線を彷徨わせた。

 翼にとって、現場指揮官とは単なる役職ではなく、強い思い入れのあるもののはずだ。だからこそ、安易な慰めの言葉は、却って傷つけてしまう。かといって、気の利いたセリフが思いつくほど柊はコミュ力に長けていない。

 黙り込んだ柊を前に、翼の背はいつしか丸まっていた。


「自分でも、薄々分かっていたんだ。現場指揮官になるには、十五歳は若すぎるし、経験も足らない。第一、私は元々、指揮官の適性が高いわけではない」

「でも、指揮官になるだけが生きる道じゃないでしょ。例えば伊織いおり結衣ゆいとか――みんな頑張ってると思うよ」


 階級とか役職じゃないんだ、と呟く翼の声は、震えている。


「私たち、巨大生物研究所で生まれた子どもたちは、ダブルギアになるべく作られた。計画通りに覚醒した後は、指揮官になることを要求されている。そこから外れるということは、欠陥品以外の何物でもないんだよ」


 頭に思い浮かぶ言葉を、柊は、一つ一つ潰していった。

 そんな悲しいことを言うな――翼の口を塞げば、心も閉ざされるだけだ。

 人間はみんな自由だ――地下都市での生活が不自由と理不尽に満ちているのは、誰だって知ってる。

 頑張れ――これ以上ないほど、彼女は努力している。

 欠陥品なんてヒドイことを言う奴が悪い――悪かろうが何だろうが、翼の周りにいる大人がそういう奴ばかりなら、どうにもならない。

 結局、掛けるべき言葉は見つからなかった。

 翼も、それ以上は説明しようとしない。ただ、静かな時間が流れていく。そうしている内に、柊は基地へ来る前のことを思い出していた。


 故郷のシェルターで、柊は自警団に所属していた。

 狭い部屋に三段ベッドが二つ入った寮と、訓練場を往復するだけの毎日。ロッカールームは怒声と卑猥な笑い声に満ち溢れていた。

 喧嘩や苛めのターゲットになるのは、柊だけではない。厳しい訓練や、身体テストで不合格になった団員も含まれた。

 そういうとき、彼らはどうしていただろう。

 周囲から浮いていた柊が慰めてもらった経験はないが、慰めの場を横から見ていたことはあった。

 あるとき、同期の新人が、教官に酷く叱られたことがあった。

 すると彼は、いつもつるんでいる団員の座る長椅子へ近寄り、黙って隣に腰を下ろした。友人らしき団員は、特に声を掛けるでもなく、手指にバンテージを巻く。

 無視するわけではないが、気を遣ってやるわけでもない――それなのに、叱られた団員は、次第に落ち着きを取り戻していった。

(ああ、それと同じなのか。翼は、ちやほやしてほしい、気を遣ってほしい、ってタイプじゃなさそうだもんな)

 腑に落ちた気がして、柊は顔を上げた。


「筋トレの途中だったんだ、俺」

「え……?」


 突拍子もないセリフに、翼の目が丸くなる。

 けれども柊は、何でもない素振りで言葉を続けた。


「俺は筋トレの続きをするけど、翼はそこに居たいだけ居ていいから」

「あ、ああ……うん」


 敵意がないことを示すために、一応、笑顔を向けておく。そうして柊は、先ほどまでと同じように、床へ両手を突いて腕立てを始めた。

 機械のように正確なリズムで沈んでは浮かび上がる柊の身体を、翼は黙って見つめていた。段々と荒くなっていく息、険しくなっていく表情。額や鼻筋を伝う汗。背中に張り付いて色を変えるシャツ。

 一セット分を終えて床へ転がった柊が、額の汗を腕で拭う。

 すると、それまで黙って観察していた翼が、ようやく声を掛けてきた。


「毎日、自主的にやってるの?」

「自警団のときの日課を続けてるだけだよ」

「腕立て五十回を一セットとして、毎日どれくらいやってるんだ。二セットくらい?」

「暇を見つけてはやってるから日に依るけど……七~八セットくらいじゃない?」

「四百!?」


 柊の返答に、翼はベッドから跳びはねるようにして立ち上がった。そのまま腕まくりをして、自分も腕立ての姿勢を取る。


「私もやろう」

「あの、俺、腕立ては今終わったばかりなんだけど……」

「私がやりたくてやるだけだ。柊は、そこで休んでいてくれ」

「まあ、付き合うけどさ」


 一、二、と数を数える翼を見ながら、柊も腕立て伏せをする。

 女子にしては頑張っているほうなのだろうが、自警団予備科で三年、偵察班に一ヶ月いた柊の目には、生ぬるく感じられる。


「腰が浮いてるよ。ちゃんと身体のラインを意識してやらないと」

「ラインか。これでどうだろう」

「姿勢はそれでいいよ。そしたら、もう少し頑張って顎を床へ近づけようか」

「ん……改めて、やるとなると……キツイもの、だね」

「無理しても意味ないから、二十回で終わりにしよう」


 しかし、それさえもやっとのことらしく、腕立てを終えた翼はそのまま床へ転がった。

 長めの前髪が、汗で額に張り付いている。まつげが影を落とす頬は紅潮し、はあはあと荒い呼吸を繰り返すたび、薄い胸板が上下した。

 ただの筋トレのはずなのに、妙になまめかしく感じてしまうのは、翼が無防備すぎるからだろうか。

 しかも、自分の部屋で二人きり、と考えると妙な気分になりそうだ。タオルを取りに行くふりをして、翼の隣から離れる。

 入口のドアから六畳間までは、数メートルの廊下になっている。

 廊下には、シャワールーム、トイレ、クローゼットの扉が並ぶ。横開きのクローゼットの戸を開く柊の背中へ、翼が小さな声で語りかけた。


「……私が指揮官を下ろされたことは、もう食堂で騒ぎになっているらしい。何人もの隊員が、私の個室へ慰めに来てくれたんだ」


 無地のフェイスタオルを取り出しながら、柊は声のほうへ視線を向けた。

 翼は微笑んでいるようにも見えたが、その肩はいつもより小さく感じられる。


「そのこと自体は、とてもありがたいんだ。だけど、“大丈夫?” と聞かれると、“大丈夫な顔”をしなければならないのが難しくて」


 まだまだ未熟だな、と笑おうとして、ため息が洩れる。

 そんな翼の手前まで来ると、柊は翼の顔へフェイスタオルを投げた。


「汗、拭きなよ。風邪ひくからさ」

「あとでタオルは洗って返すよ」

「いいよ。適当に洗っておくから、脱衣籠に入れといて」


 ロッカールームで見かけた同期たちの様子が、思い出される。

 叱られた自警団員へ、大袈裟に気を遣うでもなく、ただ寄り添うだけだったあの同期のように、自分も少しは翼に寄り添えているだろうか?

 今の翼と、叱られて落ち込んでいた同期の姿が重なる。

 優しくされると、却って苦しくなることもある――そんなところなのだろう。

 だから、柊は何でもない素振りで笑った。


「筋トレくらいなら、いつでも付き合うよ。勉強はからっきしだけど、体力作りなら、俺も小学生の頃からやってるから」


 話くらいは聞くからさ。

 そう続ける柊へ、翼は笑った――ほんの少しだけ、目を伏せて。

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