第63話 舵取り

 午後の訓練が終わって、自由時間になった頃。

 日頃、さかきが常駐している小隊長室を一人の隊員が訪ねていた。

 ノック音に気づいた榊の秘書は、インターフォンで応じる。認証用カメラで相手の顔を確認すると、秘書はデスクで書類を読む榊へ耳打ちした。


「……通してくれ」

「かしこまりました」


 赤い口紅が印象的な秘書は、笑顔を作ると電子ロックを解除し、重厚な木製の扉を開いた。

 廊下で待機していたのは、あと二戦で退役を迎える美咲みさきだ。


「榊小隊長がお会いになられるそうです。どうぞ中へ、生駒いこま一尉」

「失礼します」


 目礼をすると、生駒は軽く背筋を正して入室した。壁際に置かれた年代物のチェアデスクの前へ、まっすぐ向かう。

 榊はその椅子に座ったまま、パタン、と何かの資料を閉じた。


「どうした、生駒」

「単刀直入にお話しいたします。次の戦闘について、進言がございます」

「聞こう」


 秘書はちらりと二人を見やると、部屋の片隅でお茶を淹れ始める。そんなことには構わず、美咲はいつになく真剣な表情で続けた。


「次の戦闘に出撃可能な隊員は、何名いるのでしょうか」

「おまえの目算は」

「これまでの治療実績からして、恐らく十五、六名かと考えております」

「衛生班の主任は、十四名と言っている」

「……そんなに悪いなんて」


 ピンクのリップを塗ったくちびるを、美咲はそっと噛む。

 だが、そんなことを聞くためにここへ来たのではない。


「進言は二つあります。一つは、戦闘可能な隊員がそれしかいないなら、班の再編成を行うべきということ。もう一つは……」

「現場指揮官の交代か」


 榊の静かな返答に、一瞬、美咲が息を呑む。

 背後へ視線を流す。しかし、背後にいる秘書は、美咲の進言に動じた様子もない。美咲がそのことを言いだすだろう、と榊と秘書は予想していたのだ。


「そうです。つばさちゃん……榊一尉が、将来有望な隊員であることは事実です。しかしここ数ヶ月、現場指揮を譲ってからの彼女は、精彩を欠きます」

「であれば、代わりに誰を推挙するつもりだ」

「――わたしを」


 その言葉にさえ、榊は表情を変えない。感情の滲まない強いまなざしで、美咲を見つめる。しかし美咲は、臆することなく続けた。


「前現場指揮であるわたしが、退役までの残り二ヶ月、現場指揮を執らせていただきたく、参りました」

「おまえが退役した後、次の現場指揮官には誰を」

「二班班長の藤波ふじなみ二尉と、榊一尉を比較し、決めるつもりです」


 榊は、そっと視線を青い表紙のファイルへ移した。

 数秒おいて、一つ頷く。


「宜しい。本日ただいまをもって、現場指揮官の交代を命じる。生駒、おまえは三日以内に班の再編案を提出しなさい」

「そう言われると思って、既に用意してまいりました」


 美咲は口もとに笑みを浮かべ、後ろ手に持っていた書類を机に置く。

 しかし榊は、それを受け取ろうとはしなかった。


「いや、こちらからおまえに伝えるべき案件がある。それを考慮し、その上で再編案を出してもらいたい」

「伝えるべき……ああ、新人ですか?」


 頷くと、榊は先ほどまで読んでいた青いファイルを差し出した。

 それを受け取ると、美咲はファイルを開いた。やや垂れ目がちな瞳が見開かれる。


「本当に新人なのですか? 十八歳だなんて――」

「覚醒そのものは、五年前だそうだ」

「自分がダブルギアと知りながら、黙っていたのですか!?」

「単純だが、深い事情がある」


 榊の言葉にも、美咲は納得した様子ではない。不信感も露わに、ファイルに綴じられた個人情報を恐ろしいスピードで読み込んでいく。

 時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。


「榊小隊長、失礼ですが」

「言いたいことは、分かる」

「お分かりいただけるのならばこそ、言わせていただきます」


 美咲は珍しく眉をひそめ、吐き捨てるように言った。


「この新人が参戦したところで、墓標が一つ増えるだけです」

「墓標は、一つでは済まないかもしれん。あとは教育係次第だが、この人材不足の状況下では、教育による改善もあまり見込めまい」

「……では、その教育係もわたしに選ばせてください」

「引き受けてくれるか」


 長いまつげを伏せ、生駒は数秒、考え込んだ。

 だが瞼を開いたときにはもう、揺るぎない意志がその瞳に宿っていた。


「憎まれ役こそ、退役目前のわたしがやるべき仕事ですもの」

「ならば、おまえに頼もう」

「勿論ですわ。では、新人が着任しましたら連絡をお願いいたします」

「着任予定は、明日の昼過ぎだ」

「了解いたしました」


 一礼して美咲が退室するのを、榊は黙って見送った。

 秘書が扉を閉めるのを待ってから、デスクの隅に置かれた内線電話を手にする。慣れた手つきで番号を押し、受話器を耳に当てた。


「……榊だ。小隊長室へ来なさい」


 手短かに用件だけ伝え、受話器を置く。

 肘をつき、祈るように組み合わせた手を額に当て、深くため息を吐く。

 すっかり冷めてしまった茶の代わりを出しながら、秘書が囁いた。


「心中、お察し申し上げますわ」


 秘書の慰めの言葉を拒否するように、榊は小さく首を振る。


「いずれはこうなると、初めから分かっていたのだ。それなのに、私たちは翼に無理を強いておいて、今度はその手から奪うなど……」

「榊一尉も、小隊長のお気持ちは理解なさっておりますわ」


 榊の低い呟きが聴こえた。


「……私の気持ちなど、誰も理解などしていないさ」


 気まずい空気の中、榊は熱い茶を口に含んだ。

 何も知らずにここへ来る翼へ、残酷な通達をするために。

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