さらば、弱き者たちよ

第60話 父の教え

――五年前、京都シェルター居住区。


 体育館のような広場に、次々と担ぎ込まれていく人々。

 血の臭い、赤子の泣き声、あちこちからあがる怒号と叫び声の中、衛生局に属する医師や看護師たちが駆けずり回っている。


「バイタル下がってるで!」

「輸血用の血液が足らなすぎるんや」

「くそっ 知事は何やってんだ。無事な住民を献血ルームへ集めろ、ってアナウンスはしたんか?」


 人外の力を神降ろしダウンロードされた巨大生物ダウンローダー――通称【D】。その脅威によって人々が地下都市へ居を構えて十年。しかし、人類を脅かすものは化け物だけではなかった。

 排気や水質汚染による居住環境の悪化。慢性的な物資不足。生き残るために特化した法改正による、倫理観の歪み。しかし、人々にとって何よりも身近で恐ろしいものが、地下ゆえに逃げ場のない火災だった。

 皮膚表面の殆どに熱傷を負った患者の手首に、黒のタグが付けられる。

 トリアージ――治療の優先度を表す命の指標において、黒は「死亡群」とされる。既に死亡している、もしくは明らかに蘇生の可能性がないことを意味した。


「おかあさんっ おかあさあぁんっ」

「おい、ちょっと待て!! うちのはまだ生きとるやろ」


 血走った目で掴みかかる男へ、白衣の職員は真っ青な顔で叫んだ。


「放してください! 治療を待つ患者が、何百人、何千人といるんです」

「うちのもその“治療を待つ患者”やろが! 皮膚移植でもなんでもあるやろ」

「そんな旧時代の設備が、まだ残ってるとでも思ってるんですか!?」


 黒焦げの胸元は、僅かに動いているように見える。

 だが、それも職員の目には断末魔の痙攣として認識された。


「骨も残らないくらい高温で焼かれた人もいるんです。生きている間にお別れが言えるだけ、マシだと思ってください」

「死体扱いのどこがマシなんや。貴様は鬼か、鬼畜か!」


 殴りかかった男を、自警団の団員が取り押さえる。そんな光景が、広場のあちこちで見られた。

 京都シェルター北部の化学プラントで起きた爆発は、塗料に燃え移り、二十四棟の地下建造物を灰に帰した。

 死者六千人、重軽傷者は三万人ともいわれるこの災害は、地下へ退避後最悪の火災として全国に報道された。

 慢性的な物資不足は、絶望的なまでに医療水準を低下させていた。地上時代ならば助かった命が、塵のように吹き飛んでいく。

 広場の片隅に横たえられた少女も、そんな一人だった。

 製造部予備科に進学したばかりの彼女は、出火したプラントの隣の紡績工場で職業訓練を受けていた。だが火災の知らせを受けるのが遅れ、同級生三百人と共に蒸し焼きの状態で発見された。

 辛うじて息をしていたため救護施設まで運ばれたが、専門家でなくとも彼女の優先度は「黒」と分かる状態だった。

 小刻みに震える指先、浅くゆっくりとした呼吸、垂れ流しの涙と涎。さぞかし美人だっただろうと思われる様相も、白目をむいた状態では悲壮感を増すばかりだ。

 そんな少女の傍らに、スーツの上に白衣を重ねた口髭の男が、力を失ったようにペタリと座り込んだ。

 口髭の男は人目もはばからず涙を流し、ピンク色になった少女の手を握りしめた。高熱を発してるのか、蒸されたせいか、全身が酷く熱い。だがそれは、まだ辛うじて彼女が生きている証拠でもある。


綾乃あやの……綾乃、おとんやで。分かるか」


 父親の声に反応もなく、少女は小刻みに震えている。


「怖かったな、熱かったな。けど、おとんがおるさかい。なんも怖ないで」

「……西村にしむらさん」


 同僚と思われる若い男が、父親の肩をとん、と叩く。


土御門つちみかど所長には、俺から伝えときますから……お嬢さんについとったってください」

「すまへんな。父一人、娘一人の父子家庭やさかい。私がついとってやらな」


 同僚の男は、嗚咽を堪えるようにして去っていく。だが父親は、振り返ることも、溢れる涙や鼻水を拭うことさえせず、娘の痙攣するくちびるを見つめていた。

 ヒュッ と喉が鳴るたび、これが最後の呼吸では、と手を握る指に力が入る。


「しんどいなぁ、痛いなぁ」

「…………」

「おとんが医者やったら、綾乃を助けたれたのかもしれへんのに。こないに必死に息してるのに、なんにもしたれあらへんなんて」


 ぐちゃぐちゃになった視界の中、少女の閉じたまぶたに、ぎゅっと力が入る。

 ああ、いよいよなのだろうか。

 受け入れがたい現実を否定するように、口髭の男は何度も首を振った。


「綾乃、死んだらあかん。おとんを独りにしいひんでくれ」


 痙攣するようなくちびるの動きに、少女が何かを言おうとしていると気付く。

 はっと目を見開くと、男は咄嗟に娘の口もとへ耳を寄せた。


「なんや、綾乃。おとんはここにおるで」


 寄せた耳へ、ひゅーひゅーという喉の音に隠れるほど小さな声が届く。


「の、喉……渇いた」

「水か、水やな! すぐに貰うてきたるさかい、頑張るんやぞ」


 口髭の男は広場脇の給水所へ走ると、借りたコップに水を注ぎ、娘のもとへ戻った。

 せめて最期の願いくらい、叶えてやりたい。だが、それまで娘は生きててくれるだろうか――。

 息を切らして戻ってきた男は、娘の様子に息を呑んだ。

 生きたまま蒸され、ピンク色に腫れあがっていたはずの肌が、幾分か落ち着いた色になっていた。

 それだけではない。熱気で弾けてしまったのか、めくれていたくちびるの皮も、息苦しさから掻き毟ったと思しき首筋の爪痕も、いつの間にか出血が止まっている。


「……あや、の?」


 ゆっくりと、娘の傍らへ腰を下ろす。

 すると黒髪の少女は、まつ毛のなくなった瞼を開いて父親を見上げた。


「お父さん……」


 弱々しくもしっかりとした言葉に、口髭の男は、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに、というように自分のくちびるへ人差し指を当ててみせる。それに対し、娘も大人しく頷いた。

 男は注意深く辺りを見渡した。

 大丈夫、誰も自分たち父娘おやこを見ている者はいない。周囲にいるのは、要救護者とその関係者、そして真っ青な顔で駆け回る衛生局の職員だけだ。

「黒」のトリアージ、つまり実質上の死亡宣告を受けた者など、この広場だけでも何十人といる。

 本来なら、「黒」を付けられた後に医師が死亡診断をしたら、速やかに遺体安置所へ移されるはずだ。だが、数千人はいるであろう被災者の数に対し、圧倒的に医者の数が足りていない。結果的に、「黒」の患者は放置されていた。

 口髭の男は、死に瀕した我が子を抱きしめるような素振りで、そっと娘の耳元へ口を近づけた。


「……綾乃、死んだふりをするんや。誰にも気づかれたらあかん」

「なんでや」

「多分、おまえはダブルギアに・・・・・・覚醒・・しとったんや・・・・・・。それで、普通の人間の何倍もの治癒力で生き残ったんやろう」


 訝しがるように、娘が目を細める。


「せやったら、ダブルギアどす、って言うたほうが、治療を優先してもらえるんちゃうん?」


 しかし、父親は表情を険しくするばかりだ。


「おとんが、陰陽寮おんようりょうでダブルギア関連の書物の研究をしてるのんは、綾乃も知ってるやろ?」

「うん」

「せやから、他のもんよりダブルギアについては詳しいつもりや」


 男は白いものの混じり始めた口髭を震わせ、小さく首を振る。


「ダブルギアの戦闘員なんかになったらあかん。上層部は、戦闘員を使い捨ての駒としか見てへん。運動神経の鈍いおまえなんて、弾除たまよけにされておしまいや」

「……う、嘘や」

「嘘やあらへん。そやさかい、覚醒したことは絶対に誰にも知られたらあかん」


 そうして会話する間にも、徐々に少女の呼吸は楽になっていく。ひゅーひゅー、と鳴っていた音も消え、掠れていた声も、元の高いトーンに戻っていた。


「もし、ほんでも兵隊に取られてもうたら、うちはどうしたらええの?」


 恐れるようにくちびるをきゅっと噛む娘へ、父親は低い声で囁いた。


「拒否するんや、なんもかも」

「なんもかも、って?」

「全部や。戦うことも、同じ立場になる戦闘員たちも、上司も、訓練も、出撃要請も、基地のルールも――中途半端はあかん。なんもかも、全部を拒否するんや」


 そう言いながら、白衣のポケットに入っていたカッターをそっと取り出す。

 キチキチと鳴らしながら刃を出し、トリアージのタグを切る。黒色のタグは、口髭の男のポケットへしまい込まれた。


「そこまで拒否しとったら、関わるだけ時間の無駄や、と諦めてくれるはずや。戦闘員は、毎年何人も覚醒するさかい。後は、守秘義務に同意のサインして、京都へ戻ってくればええ」


 ええな、と言い含める父を、じっと娘は見上げた。

 父一人、娘一人の父子家庭ということは、彼女にとっての家族も父だけだった。


「……分かった」

「起きれるまで回復したら、おとんと一緒にここを出よう。それまで、死んだふりをするんや」


 娘は頷く代わりに、黙って瞼を閉じた。

 父親も、あたかも臨終の娘を励ますような顔で、娘の手を握り項垂れる。

 それは今から五年前の、京都シェルターでの出来事だった――。

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