第59話 キス・アンド・クライ
戦果報告を終え、基地へ帰還した数時間後。遮るもののない青く澄んだ空を、柊は、独り眺めていた。
普段、立ち入り禁止となっている基地の屋上は、想像と違って綺麗に掃き清められていた。榊の秘書に頼んで置いてもらった長椅子に身を預けると、キィ、と錆びついた音をたてる。
二十四名の戦闘員に、殉職者は出なかった。それだけでなく、脊椎損傷や脳挫傷といった、戦闘不能状態の隊員もいない。
時間はかかるが、数ヶ月後には全員が戦場へ復帰できるだろう、とのことだった。
だが、柊の顔色は優れなかった。
遠い空を流れていく白い雲を、ぼんやりと見上げている。
(目撃情報は、全て嘘だった)
つまり、初めから京都自警団はダブルギアへ通報し、助けを求めていた。それを
京都自警団は、居住区の集中する京都駅地下のシェルターを守るため、工業地区が集中する平安神宮周辺へ火をつけた。体温で獲物を探す蛇の習性を利用し、
更にそれだけでは足らず、自警団員たちは自らを囮に、平安神宮周辺でわざと徹底抗戦し、全滅したのだという。
「山犬型【D】が来たとき、リーダーが同じことを命じたら、俺は、囮になれたかな……」
ゆるゆると首を振る。
できない。できるはずがない。
リーダーにそこまでの信頼を感じていなかったし、家族も同僚も信じられずにいた柊に、尊い自己犠牲の心などなかった。
だが京都自警団の人々は、それをやり遂げたのだ。
元自警団だったからこそ、どれほどの恐怖を押し殺し、葛藤の末に辿り着いた決断か、柊には痛いほど理解できた。
日本中の人々がダブルギアを英雄と仰ぎ、仲間たちも柊の活躍を喜んでくれている。けれども、それに応じる気持ちになれずにいるのも事実だった。
(長谷部元司令のことだって……)
小隊長室で、
ほんの数時間前、胸倉を掴んで怒鳴り合った相手がこの世にいない――そのことを受け止めるには、まだ時間が必要だった。
死んだと聞いても長谷部を許す気にはならないし、自分の決断が正しかった、という考えが揺らぐことはない。あんな恐ろしい計画を実行に移す男を、放置するわけにはいかない。
翼たちを見殺しにしろ、と言った長谷部の薄笑いを思い出すだけで、はらわたが煮えくり返りそうになる。
だがそこには、妹の声が聴こえなくなったときと同じ虚脱感があった。
今までいたはずの存在が、いつの間にか消えている。恐れや哀しみよりも先に、自分の無力さが胸にこみ上げてくる。
(……妹と長谷部元司令なんて、何にも同じところなんてないのにな)
誰かと顔を合わせるのも億劫だ。
そんなわけで、治療優先の非番をいいことに、柊は屋上で日向ぼっこをしていた。
青い空を白い鳥が渡っていく。あの鳥は、何という名前だろうか。
山犬型【D】を発見する寸前、同じことを考えていた。だが、相変わらず鳥の名前は分からない。わざわざ調べようという気にもならないから、きっと、これからも知らないままなのだろう。
そのとき、屋内へ続く唯一の扉が音を立てた。
「こんな所にいたのか」
柔らかなボーイソプラノが、屋上に響く。
長椅子に寝そべり空を仰ぐ柊のもとへ、電動車いすに乗った影が近づく。身体のあちこちに包帯を巻いた人影は、翼だった。
「まったく。凱旋の主役がエスケープか? ベッドから起きられる隊員たちは皆、君を探していたぞ」
そう言いながら、寝そべる柊の顔を覗き込む。
青い空を侵食するように、翼の顔が視界の半分を占める。これまで見せたことのない素朴な微笑みを浮かべ、彼女は目を細めた。
「そろそろ昼食だよ」
「……食欲ないから、パスで」
なんて顔しているんだ、と呟き、翼は肩を竦めた。
「君のおかげで助かった人が、何十万人といるんだ。胸を張っていいんだよ」
「でも、もっと早く気づけたら、死ななくて済んだ人がたくさんいたって」
低い呟きに、翼はすぐには返事をしなかった。
フェンスの先に広がる、壊れたジオラマのような街並みを見やる。二人が生まれる半年前まで、数百万の人々が生活していた日本の首都は、今や野生動物の楽園だ。
埃と砕けたコンクリート片にまみれたかつての大都市を前に、翼が呟く。
「……それでも、君が奴らの隠謀を退けてくれたから、私は生きている」
高層ビルと背を競うように葉を茂らす木々を眺めながら、柊は小さく頷いた。けれども、長椅子から起き上がろうという素振りは見せない。
「生きるってことは、ご飯を食べて眠るってことだよ、柊」
「そんな原始的な」
「私達に力を貸してくれる神々も食事をするんだ。ちっぽけな人間ごときが、三大欲求に打ち勝てるわけがないだろう」
「い、いいって。昼はパスする、って言ったでしょ」
嘘まみれの発言に対する抗議のように、盛大に柊の腹が鳴った。
真顔から一転、翼が笑いを堪えるように口もとを手で覆い、肩を揺らす。それをジト目で睨みながら、柊は首をゆるゆると振った。
「……今のは消化の音なので、気にしないでください」
自分の身体にまで裏切られた柊は、がっくりと肩を落としてため息を
翼は、どこかからかうような口調で話しかける。
「素直じゃないな、君って人は」
「いや、翼も
「むっ ……そ、そんなことないはず……私は、自分の信念と目標に忠実に……」
「うーん。感情を押し殺してます、って聞こえるなぁ」
「素直になることくらい、わ、私にだってできるよ」
ふと、長椅子に横たわっていた柊の視界が暗くなった。
目をしばたかせる柊のくちびるに、柔らく温かなくちびるがそっと触れる。
「えっ」
すぐに身を離した翼の白い肌が、頬だけでなく目元や耳まで赤く染まっている。
何が起きたのかようやく理解した柊が、高速で瞬きをした。
「え? え、あの、今、まさか、と思うけど……は?」
動転する柊を前に、翼は、まるでいたずらっ子のようにくちびるをそっと突き出して目を逸らす。
しばらくして柊と視線を合わせると、翼は一瞬、泣きそうな顔をした。けれども、すぐにいつもの自信に満ちた笑みを浮かべてみせる。
「君は、私の
白い花束を、柊の膝へ置く。同じ品種の色違いの花束が、車椅子に座る翼の膝にも置かれている。きっと、
「月と太陽、二つの歯車がこの地を照らすように、私と共に戦おう。そして、いつの日か――」
その後に続く言葉は、強いビル風にかき消されて聞こえなかった。
青と白の花弁が風に揺れるたび、キスを繰り返すように触れては離れ、離れては影を同じくする。
柊はそれを見つめながら、深く頷いていた。
――
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