第56話 身も心も魂も

 さかき明彦あきひこが説明した通り、月読命ツクヨミノミコトに選ばれたしゅうは、発狂せずに臨界速ダブルギアを使える。

 その明彦でさえ、体力を消耗しているときや長時間の使用は避けるように、と注意を促していた。

 そして今、柊は気絶してしまいそうなほどの疲労に襲われていた。狭まり、揺れる視界。恍惚感の奥にちらつく猛烈な吐き気。ぞくりとするような寒気を感じつつも、背中から額から汗が噴き出ている。

(このまま、目を閉じて眠ってしまえばどんなに気分がいいか――)

 だが、そういうわけにはいかない。背負った矢筒から矢を引き抜き、やじりの辺りを小指と薬指で握る。

 柊の傍らに立つつばさが、金色の歯車ギアを押し込んだ。

 重いダメージを負った今、パワーを上昇させる筋力補助セカンド・ギアでは敵の攻撃速度に対応できない、と判断したのだろう。


「柊、よく聞いてほしい。神獣クラス相手では、私は決定打になれない。私が囮役を務めるから、とどめは君に任せる」

「了解」


 そのとき、公園の敷地外に停められたジープから、さかきとその秘書が走り出るのが見えた。

 長谷部はせべの企てに関しては、榊を信じるしかない。

 こちらを品定めするかのように舌をちろちろさせている二つの首へ、視線を戻す。


「目標、八岐大蛇ヤマタノオロチの首、残り二つ」

「了解」

「三分で決めるぞ、柊!」


 翼は滑らかなフォームで走り出した。臨界速ダブルギアを使用している柊も、スピードを抑えて追走する。

 八本のうち、二本の首を残すばかりとなった八岐大蛇型【D】は、迫りくる二人に対し、威嚇音を大きくした。鎌首をもたげ、間合いを測る。

 二人が公園東側の中央へ差しかかると同時に、二つの首は左右へ展開した。

 翼は一方の死角へ回り込み、果敢に斬りかかる。

 囮役の翼の動きに、柊を狙おうとしていたもう一つの首も、慌てて攻撃目標を変えた。二体の突撃をひらりと躱し、地面を転がる。噛みつこうとする頭へ、カウンターで逆袈裟斬り。その攻撃に合わせ、柊も矢を引いた。

 頭蓋を射抜いてやる――狭まりつつある視界の中央で、翼の握る太刀が、キィンと音をたてて折れた。


「――翼!」


 刃が折れた反動で、翼の身体が硬直する。その隙を逃さず、反撃に転じる大蛇の鼻先を蹴りとばし、距離を取る。

 斬りつけられた大蛇は怒りに目を赤く染め、執拗に彼女の影を追った。

 バックステップで逃げる翼。その細い脚を狙い、カシッカシッと牙が鳴る。

(いつもの翼より動きが鈍い。やっぱり、あの傷で囮役なんて無理だ)

 援護しなくては――身体の向きを変えようとした柊の背後から、不気味な風の音が響いた。

 壊れた水道管から水が噴き出すような音だ。

 それが何か理解した瞬間、必死に振り返ろうとした。

 迫りくる大蛇の真っ赤な瞳に、自分の姿が映る。咄嗟に矢を捨て、脇差しを構えようとした。だが、間に合うはずがない。

(翼を狙うと見せかけて、フェイント!?)

 突撃をもろに食らい、公園脇のテニスコートまで吹っ飛ばされる。激突したフェンスが、グワシャン、と耳障りな音を立てながら破れ、更に地を転がる。握っていた脇差しも、草むらへ転がってしまう。

(油断したっ)

 砂地へ指を這わせ、起き上がろうとする。その瞬間、焼けつくような左足の痛みに悲鳴が喉を震わせた。


「くっ」


 着地をミスしたときに、骨が折れたのかもしれない。

 ヘッドギアの影響で、すぐさま痛みは和らぐ。慌てて立ち上がろうとした途端、柊は奇妙な感覚と共に地へ伏していた。

 痛みが軽減されるなら、骨が折れても無理やり立てるだろう、という甘い予測は、呆気なく裏切られる。

 周囲の炎で熱を帯びた砂を頬に貼りつかせ、柊の瞳が不安に揺れる。


「何、これ……どうなって」


 目の前がチカチカと明滅したかと思うと、全ての色彩が消失した。

 乱れた呼吸音が、やけに響いて聞こえる。落ち着こうとして息を呑んでも、モノクロの世界と騒々しいまでの旋回音に、ますます混乱するばかりだ。

(なんで、身体がうまく動かない……どうして)

 既に宇治橋で両足・両肩・腹部に合計六発の銃弾を受けている。初めて負傷したわけでもない。それなのに、感覚がコントロールできていない。

 考えられる可能性は、ただ一つ。

(まさか、臨界速ダブルギアの限界が、そんなっ)


「あ、ああっ ああああああああっ」


 パニックに陥った柊の叫び声に、もう一方の首と対峙している翼が叫んだ。


「柊、落ち着け! ちゃんと足先を見ながら動かせば立てるはずだ」

「わかってるっ わかってる、けどっ」


 理性ある人間ではなく、本能のままに人類を餌とする【D】へ――。

 自分とは無縁だったはずの「発狂」の二文字が、すぐ目前に迫っている。そのことに、柊の理性は振り切れそうになった。

 噛みつこうとする蛇の鋭い牙へ、嫌々をするように首を振る。

 翼は折れた太刀を投げ捨て、脇差しを構えながら叫ぶ。


「柊、落ち着くんだ。私が敵の注意を惹きつけるからっ」


 高く跳びあがり、脇差を大蛇の左目へ突き立てる。眼球深く食い込んだ刃は、びくともしない。引き抜くのを諦め、翼はひらりと着地した。

 柊も自らに噛みつこうとした大蛇の牙を掴み、必死に抵抗を試みる。

 だが、先ほど本体と思しき頭を押し返したときと違い、どうにか噛みつかれるのを防ぐことしかできなかった。踏ん張りがきかず、じりじりと姿勢を低くする。

 その様子に、きゅっと翼がくちびるを噛む。


「態勢を整えさせないと」


 無手となった翼は、流れるような動作で構えを取った。

 隊員たちの血で赤く汚れた牙を睨みながら再び接近し、右足を軸に、くるりと身を反転させる。隻眼となった大蛇の側頭部へ、鋭いハイキック。

 衝撃に、大蛇の動きが一瞬止まる。致命傷にはならずとも、ダメージは蓄積されているらしい。

 武器を全て失った彼女が使える武器は、己の肉体しかない。そんな絶望的な状況下でも、彼女の瞳は闘志に輝いていた。


結衣ゆいから聞いたぞ。君は、座ったまま射る方法を知っているはずだ」


 柊を丸呑みしようと、更に大蛇の真っ赤な口が迫る。咄嗟に、電子強弓でんしごうきゅうをつっかえ棒のようにして、噛みつかれるのを防いだ。

 二メートルを超える和弓が口蓋の窪みに嵌り、柊が転がって逃げるだけの時間稼ぎをしてくれた。

 地べたを転がりながら、必死に距離を取ろうとする。

 だが、大蛇は口蓋に嵌った金属製の弓を外そうと、身体をくねらせ暴れ回る。予測できない動きに、柊は反応ができなかった。


「シャアアアッ シャアアアアアアアッ」

「こ、のっ」


 突撃を受け、柊はテニスコートの中央へ吹っ飛ばされた。

 痛みを堪えて周囲を見渡す。すぐ隣に、傷ついた隊員が横たわっていた。割れてしまったヘッドギアのフェイス部分から、薄ピンクのくちびると左目が覗く。六班班長の美咲みさきだ。

 そして美咲の傍らには、彼女の電子強弓が転がっていた。


「弓、お借りします!」


 ぴくりとも動かない美咲へ叫びながら弓を拾う。弦は無事だ。

 電子強弓は、歯車ギアチェンジによって筋力が大幅に変化するダブルギアのために作られた武器だ。当然、突発的に他人の弓を使うことも想定されている。

 素早く周囲を見渡し、背負った矢筒から矢を引き抜く。

 大蛇の首は、二体とも柊を見ている。

 一つは翼の近くで威嚇しているだけだが、もう一方は鎌首をもたげ、攻撃のタイミングを計っている。

(数秒でいい、矢を引く時間を――)

 柊のまなざしの意味を理解し、翼は囮になろうと声を張る。


「どうした、私が相手だ!」


 叫びつつ、大蛇の後頭部へ連続で回し蹴りを仕掛ける。

 だが大蛇は翼のことなど眼中にない様子で、するすると柊へ近づいていった。


「ま、待て、そっちへ行くな! 私のほうが弱っているはずだろう!!」


(なぜ私を狙わない?)

 柊は一か八か、矢を引こうとしている。右膝を軽く浮かせ、弦に矢をつがえた。地面についた左膝で体重を支えつつ、右足は立膝の状態へ。

 しかし、口蓋に刺さった電子強弓を破壊した首は、まさに今、柊へ噛みつかんとしていた。

(思い出せ、神話には何と書かれていた?)

 覚醒前、巨大生物研究所で学んだ古事記の一文。

――私達には八人の娘がいましたが、八岐大蛇に毎年食べられてしまいました。

(八岐大蛇は、若い娘・・・を喰らう……)

 直後、脳裏に蘇ったのは、毎日復唱する祖母の言葉。

 その意味を理解した翼の目が、見開かれる。


「身も心も魂も、すべて捨ててみせよう。これが、私の覚悟だ――」


 直後、翼は自らのヘッドギアを脱ぎ捨てた。

 更に黒い戦闘服のボタンを、引きちぎるようにして外す。黒いタンクトップに包まれた抜けるように白い柔肌が、燃え盛る周囲の熱風に晒された。

 羞恥に頬を染めながらも、翼は僅かな膨らみを誇るように胸を張る。更に、タンクトップの襟を指で少しだけ下げて叫んだ。


「八つ首の悪魔よ! 見るがいい、おまえの好物の穢れなき乙女だ!」


 それを視界の隅に入れた途端、二体の蛇の目が煌々と輝いた。

 殺気と狂気の混ざり合った視線が、翼の全身を射抜く。

 欲にまみれた視線の先では、黒髪の美少女が、煌々と燃え盛る炎に柔肌を晒している。更に大蛇を挑発するかのように、手招きさえしてみせた。

 あどけなさの残る美しい顔と、なまめかしい手つきを視認した瞬間、二つの大蛇の首は舌なめずりをするかのように、ちろちろと細長い舌を出した。

 すっかりおとこへの興味を失ったのか、長い身体をくねらせ、まるで酔ったように目を赤くしている。

 二体の大蛇が自分に釘付けになったことを確認した翼の口が、曲線を描く。


「さあ、命懸けの追いかけっこだ」


 その言葉が合図となったのか、隻眼の首が翼に襲い掛かる。

 それを見越していた翼は、勢いよく垂直線上へ跳んだ。

 ヘッドギアを脱ぎ捨てた今、彼女は若く美しい少女でしかない。しかし、迷うことなくベルトの金具から外した鞘を両手で握り、高く高く空へ舞い上がる。

 厚い雲と火事の黒い煙に隠されていた月が、再び姿を現す。

 冴え冴えと輝く満月を背に、翼はくるりと宙返りをした。その手に握られた黒い鞘。全体重と落下速度を鞘の先へ集中させ、先ほど突き刺した眼球へ。

 ヘッドギアを使わない状態のダブルギアは、回復力の高い人間と変わらない。当然、翼の攻撃では、【D】に傷を負わせることはできない。

 だが、先ほどの脇差によってできた傷口へ、「鞘を引っ掛ける」ことはできる。

 文字通りの囮になるためだけに、翼は【D】の口のすぐ上にぶら下がっていた。


「シャアアアアアアアアアアアアッ」

「絶対、放すものかっ」

「シャアアッ シャアアアアアッ」


 目の前に揺れる、美しい少女。それを喰らおうと暴れる隻眼の大蛇。赤く濁った眼球に突き刺した脇差の鞘へ、翼は必死にしがみつく。振り落とされれば、一呑みだ。

 更に、その背後から遅れて襲い掛かるもう一つの首。真っ赤な口を大きく開き、翼にかぶりつこうと跳びかかる。

 それを横から狙うは、弓を引き終えた柊。


「やれ、柊!」

「了解」


 既に殆ど見えなくなりつつあるモノクロな視野の中央、翼の上下へ矢を放つ。

 頬を掠めるほど至近距離に突き刺さった矢の勢いに、遅れて翼の身体が揺れる。かき乱される黒髪、噛み締める赤いくちびる。

 白い柔肌へ牙を突き立てようとしていた大蛇は、爆音と共に霧散した。

 翼に脳天を突き刺された隻眼の首も、次の矢に射抜かれる。

 飛び散る肉塊、迸る血飛沫――その全てが、光の粒子となって消えていく。足場にしていた隻眼の首が塵と化したことで、翼は地面へ転がった。


「翼っ」


 思わず立ち上がろうとしたところで、柊の視界は完全にブラックアウトした。

 がくん、と全身の力が抜け、膝立ちの姿勢から前のめりに倒れていく。暗闇の中、地面とは違う柔らかな衝撃が胸を打った。続けて、細い腕が抱きかかえるように上体へ巻きつけられる。


「柊、大丈夫か」

「あ……つば、さ……?」


 翼は柊を抱きしめたまま、柊の左こめかみに並ぶ二つの歯車ギアを長押しし、臨界速ダブルギアを解除した。

 凄まじい駆動音がやみ、耳鳴りだけが残る。

 その隙間を縫うように、途切れ途切れに声が聴こえてきた。


「しゅう……あり……と……」


 薄れゆく意識の中、むわっとするような外気が頬を撫でた。

 恐らく翼が、ヘッドギアのフェイス部分を上げてくれたのだろう。

 視覚が正常に働いていない世界では、他の感覚器官が鋭くなる。脱力した身体を支えてくれる柔らかな胸。戦闘服越しに感じる鼓動は、自分と同じくらい早いリズムで打ち鳴らされている。

 頭を預けた華奢な肩や、柊の身体を抱き寄せる腕は震えていて、耳元で何かを語り続ける声は涙交じりだ。けれども同時に、その声はどこか弾んでいる。そして、微かに鼻腔を掠める甘い匂い。それら全てが、一人の少女をかたどる記号だった。

 掠れた声が、耳の傍で響く。


「……助けに来てくれて、ありがとう」


 目を閉じたまま笑うと、柊は遠退いていく意識を完全に手放した。



 戦闘終了時刻、二十二時五十四分。

【D】出現予想時刻から四十一時間以上が経過するという、絶望的状況から始まった戦闘でありながら、京都シェルターは、居住区を含む主要な地下建造物の破壊を免れた。

 その一報をいち早く受けた京都シェルターは、歓喜の声に沸いた。

 人々は街を救った黒尽くめの英雄たちへ感謝の言葉を口にし、続いて家族や友人といった親しい者たちと、生存の喜びを分かち合った。

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