第54話 黒尽くめの少年

 音もなく、熱さも痛みも遠ざかった世界の中、つばさはたった独りで戦っていた。

 細い眉がしかめられる。三年前と同じ相手に、同じように苦戦を強いられていることで、彼女の意識は当時の記憶と感情に支配されつつあった。


「今度こそ、私も使わないと……死んでいったみんなに、申し訳が立たない」


 突進をひらりと跳んで躱し、敵の背へ太刀を突き立てる。

 キィン、と音を立てて刃が折れる。刺した敵の背からも血が流れているが、致命傷にはほど遠い。絶望に顔を歪めた次の瞬間、翼は弾き飛ばされていた。


「くっ ああああっ」


 公園に隣接する美術館まで飛ばされた翼は、ガラスの割れる音を聞きながら天井を見上げた。ちらちらと視界は霞み、咳き込んだ拍子に口腔へ血の味が広がる。

 全身が床へ磔にされたような感覚。鈍くなった思考でも、自分の命が消えようとしていることが感じ取れる。


「ダメ、だ……死ぬ前に、臨界速ダブルギアを使わなければ」


 起き上がろうとして、左肩に大きなガラス片が刺さっていることに気づく。

 呻き声をあげ、肩を上下ながらどうにかしてガラス片を引き抜くと、翼はよろよろと立ち上がった。傷口から噴き出した鮮血が、埃まみれの床を赤く染める。


「……お祖母さまだって、一班のみんなだって使った」


 脳裏に蘇る、三年前の地獄。

 赤く染まった世界の中、「なんで死ねないのぉ」と泣き喚きながら仲間の隊員の死体を貪り食らう、一班の隊員だった成れの果て。


「私は……このために作られ、生まれ、育てられてきたんだ」


 基地に隣接する「巨大生物研究所」の一角にある、養育施設。翼と同じように、人工授精で作られた異母兄弟・異父兄弟たち。遺伝要素があると言われても、実際に覚醒できたのは、ほんの二割程度の子どもだけだった。

 基地へ移動することになった翼を、憎しみと嫉妬の瞳で見つめる異母兄弟・異父兄弟たち。

 覚醒できずに職員となった兄や姉は、「せいぜい、肉の盾となって死ねばいい」と施設を出る翼へ呪詛を吐いた。


「私にだって、できる……できるはずだ」


 瓦礫と化した美術館から出てきた翼へ、八岐大蛇ヤマタノオロチの本体が頭を向ける。慎重に距離を詰める敵を睨みつけ、翼は左こめかみの歯車ギアを確認するように、震える指をそっと添えた。


「武器を手に入れたら、臨界速ダブルギアを発動させる。八岐大蛇を倒し、意識のあるうちに自決する。ただ、それだけのことだ。それだけ考えろ」


 先に動いたのは、翼だった。

 一直線に公園の敷地へ戻り、地面に落ちていた誰かの太刀を拾う。ヘッドギアの歯車ギアへ指を添えた瞬間、再び彼女の身体は宙を舞った。

 沿道のケヤキの木に衝突した彼女は、もはやぼろきれのようだった。薄い胸が上下していることで、辛うじて生きていると分かる。

 本体と思しき黒い首は、滑るように近づき、シャーシャーと威嚇の声を響かせながら獲物の様子を観察した。そうして獲物に反撃するだけの力さえ残されていないと悟ると、目を赤くぎらつかせ、下顎の関節を外して最大まで口を開く。


「シャアアアアアアアッ」


 もはや抵抗する力も残されていない翼は、虚ろな瞳で大蛇を見つめていた。

 その視界に、黒い影が飛び込んでくる。

 すらりと細身の人影は、突進してきた大蛇の鼻先を両手で掴む。

 信じられないことに、黒尽くめの戦闘服を着た人影は、突進の勢いを殺すだけでなく大蛇を押し返そうとした。

 咄嗟に翼は、公園の反対側を見た。二つの首は、こちらの動きを観察している。

 二つの首からさほど離れていない地点には、二人の戦闘員が地に伏している。恐らく、伊織いおり美咲みさきだろう。


「……だれ?」


 目を丸くする翼の前では、なおも人影と大蛇の力比べが行われていた。

 大蛇に押され、ズザザッと音を立てて人影の足が後退する。しかし、投光器の白い光に照らされた人影は、その場で踏みとどまろうと更に姿勢を低くする。

 一歩、前へ出した左足を起点に、長い腕を押し出す。

 神獣クラスの【D】と押し合っているのに、まったく力負けしていない。それだけでなく、黒い鱗で覆われていない鼻の孔を掴むと、少しずつ両腕を開こうとした。

 逃れようと、大蛇がもがく。

 それを許さず、人影は蛇の顔面を一気に引き裂いた。


「あああああああああっ」

「シャアアアアアアアアアアアアッ」


 血飛沫を全身に浴びながら雄叫びをあげる人影は、毟り取った大蛇の鼻先を地面へ乱暴に投げ棄てた。

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