第51話 残り13.7km

 北北西の方角の空は、依然として血のような赤に染まっている。


「直線距離で」

『地図上の最短距離は、倒壊した建物や通行止めが続くため、お勧めできません』

「何とかする。直線距離で」

『――経路設定、完了いたしました。まずは、宇治うじばしを北上してください』


 しゅうは助走をつけると、高く宙を舞った。臨界速ダブルギアを使用している今なら、川の中ほどの瓦礫へ一息で飛び移ることができる。

 置いてきた弓矢を拾い上げ、背中の金具に固定した。


『目的地、平安神宮まで、残り13.7キロメートル。宇治駅の駅舎裏手の道を通り、北上してください』

「よし、行こう」


 そう呟くと、柊は橋の左手に見える京阪電車・宇治駅を目指して走り出した。半壊した古い二階建ての建物を眺めながらロータリーを突き抜け、裏手の道へ。

 十七年前に【D】が現われた直後、逃げ惑う人々と車の行列で、地上の交通機能は完全に麻痺した。それは柊の故郷だけの話ではなく、ここ京都でも同じこと。

 左手に宇治川沿いの河原が見える細い裏道も、遺棄された乗用車で埋め尽くされている。

 軽く助走をつけて乗用車のボンネットへ跳びあがると、前の車両のルーフ部分へ。そこから飛び石を渡る要領で、次々と乗用車の上を移動していく。

 高く跳びあがった後、手で荷台を突き、ハンドスプリングの要領でトラックの荷台へ上がる。

 着地の衝撃で大きな音が響くと、見慣れない侵入者へ野良犬の群れが吠え立てた。

 人類が地下へ退避した後、地上は野生動物の楽園と化した。

 自警団の座学でも、野良犬の群れに襲われれば命取りと習った。涎を垂らし、定まらない視線で吠え立てる野良犬たちを、じっと睨みつける。

 野良犬のいない道などない。避けて通ろうとすれば、時間がかかる。

 ナビゲーションシステムの無機質な機械音声が響く。


『このまま道に添うように、空き地を北北西方向へ直進してください』

「だったら、道は一つだ」


 柊は、フェンスを越えて空地へ飛び込んだ。

 先ほど吠え立てた野良犬の仲間だろう。何十頭もの薄汚れた野良犬が、泡を吹きながら駆け寄ってくる。遠吠えを聞きつけ、あちこちから集まってくる狼の子孫たち。

 タクシーのボンネットを飛び越え、生垣を走り、バスとタンクローリーの隙間を潜り抜ける。吠え立てられ、噛みつかれそうになりながら、ひたすら地を蹴った。

 やがてフェンスの先に、ビルが建ち並ぶのが見えてくる。

 間に合わないかもしれない――そんなことを考える暇はない。仲間たちは生きている、と信じて北へ。

 いつしか背後の野犬たちは、数百頭もの大集団になっていた。

 目を血走らせ、口から涎を垂らし、エサを狩ろうと襲いかかる。すぐ後ろから、カシッカシッと鋭い牙が空を切る無数の音。我を忘れて獲物を追うその姿は、自警団や予備科で柊を嘲笑した同僚たちを想起させた。

 奴らに思惑などない。目障りだから、気に食わないから、ムカツクから――。

 それだけの理由で、暴力を振るい、罵声を浴びせ、嘲笑し、忌み嫌い、消費し、何もかもを柊から奪い取った。自分たちよりも柊が下だ、と思うことで、危険な訓練や不条理な生活から目を背けるために。

 だが、そんなくだらない輩を相手にしている暇など、今はない。

 こちらが手の届かない格上だ、と知らしめればいいだけのこと。長谷部の部下を、力任せに薙ぎ倒したように。

 目の前には、ビルとビルの狭い隙間が迫りつつあった。


「――追いついてみろ」


 吠え立てる野良犬へ呟き、柊は強く地を蹴った。

 三角跳びの要領で片側のビルの壁を蹴り、反対側のビルの壁へ飛び移る。その幅は、二メートルもない。

 高く、もっと高く。もっと速く――。

 いつしか雲の切れ間から顔を覗かせていた月に照らされ、ビルの隙間を駆け上がっていく影を、何百と言う野犬が吠え立てた。

 冴え冴えと輝く銀月を背に、宙を舞う細身の少年。

 高く跳躍した柊は、宅配便トラックの荷台へ降り立った。

 半壊した街を胸元のライトが照らす。その一筋の光を頼りに、柊は前方に停められた車のルーフ部分へ飛び移った。

 大通りを超えた辺りから、野良犬の声は聞こえなくなっている。


『まもなく、京滋バイパスです。経路変更をしますか?』

「パス。このまま直線距離で現地へ向かう」

『了解しました。スタート地点から七キロメートルです』


 あと、半分。次第に激しくなる眩暈を堪え、柊は更に加速した。

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