第41話 花弁を濡らすしずく
エレベーターで、居住区のある地下九階へ。
そういえば、他の隊員の部屋へ入るのは初めてだ、と思いながら、ノックのために拳を軽く握った。数度叩くと、少し置いて声が返ってくる。
「……どうぞ。鍵は開いてるよ」
自分でノックした癖に、ドアを開けることができなくなってしまった。
(もしかして、
昨日、部屋まで来てくれた翼を、
どうしよう、と迷っているうちにドアが開いた。
ノースリーブとショートパンツ姿の翼が、目をしばたたかせている。
「……柊?」
初めて見る私服姿の翼は、絵画から抜け出てきたかと錯覚するほど可憐で美しかった。驚いた顔も、薄い生地に包まれた身体つきも、どこからどう見ても愛らしい少女にしか見えない。
そういえば、今日の訓練に翼の姿がなかったことに気づく。今日も治療を理由に欠席した隊員が多かったせいで、見落としていたのだろう。
「……おは、よう」
「こんにちは、の時間かな」
翼も、まさか柊が来るとは思っていなかったのだろう。
無防備な私服姿を隠すように、翼は自分の両腕を抱きしめる仕草をした。抜けるように白い肌が、頬だけでなく耳まで赤く染まっている。
「用件は?」
「花を届けてくれ、って伊織に頼まれて――」
「伊織? ああ、お見舞いの」
青と白でまとめた花籠へ視線を落とした翼の口もとに、笑みが零れた。
それにしても、目の保養を通り越して、目の毒だ。
長い手足に華奢な腰回り。あちこち巻かれた包帯やガーゼが、危ういまでの美しさを際立たせている。花へ触れる指先さえ、天使の所作のような優美さがあった。
おまけに、伊織が変なことを言うものだから、妙な意識が働きそうになる。
そんな状態で彼女をじろじろ見るのも悪い気がして、柊は、背後に覗く室内へ無理やり視線を向けた。
ぱっと見たところ、自分の部屋と大差ない。しかし、奥に置かれたベッドの周囲には、点滴台の他に様々な医療機器が並べられている。治療を優先しなければならないほどの怪我をしたのは、事実らしい。
(国営放送の準備中、別々に待機させられてたから分からなかったけど、あまりよくない状態だったんじゃないのか、これ)
そんな大怪我を負いながら会見をしていたとすれば、昨日の翼は、相当無理を重ねていたはずだ。
「あの、昨日は無視してごめん」
「何が?」
「わざわざ声を掛けてくれたのに、その」
翼は、さもおかしそうに肩を揺らして笑った。
「ああ、そんなことか。深刻そうに切り出すから、何かと思ったよ」
「昨日は、ちょっと人と話したくない気分で」
「分かってるから、気にしないで。それに、人と話したくなくて逃げたのは私も同じだろう?」
長谷部と言い争いになったときのことを、話しているのだろう。
「それとは次元が違うような……」
「大して違わないよ。だから、おあいこ、ってことにしないか」
背筋を伸ばして微笑むその姿は、怪我をしているようには見えない。
だが、僅かに乱れた前髪と奥に置かれたベッドシーツの皺が、直前まで彼女がベッドへ横たわっていたことを示していた。
「そういえば、どんな怪我をしたの?」
「別に、大したことないよ」
「大したことないなら教えてよ」
笑みを崩さず、翼は視線をそっと外した。
「肋骨が折れた程度かな」
「いや、それ大怪我だよ」
「傷ついた肺の治癒は会見前に終えていたから、呼吸器系統に支障はない」
「それ、完全に重体患者だよね」
飄々とした顔で答える様子に、眩暈を覚える。
今思えば、控え室から飛び出した翼を追いかけたときから違和感があった。
柊は道に迷いながら走っていた。本来なら、シェルターの構造を熟知している翼に追いつけるはずがないのだ。それが、彼女の肋骨が折れていたから、柊を振り切れなかったのだろう。
華奢な身体で戦う以上、死は常に付きまとう。最前線で指揮を執る翼にとって、実際問題、この程度の怪我は珍しいことではないのだろう。
掛ける言葉が見つからない。くちびるを噛み締める柊を、翼は不思議なものでも見るように眺めている。
「……柊、花を渡してくれないか」
「そんな身体で、無理はさせられないよ」
「花籠くらい持てるよ」
「俺が置くから、どいて」
驚いて目を丸くした彼女へ、一歩近づく。しかし、翼は
さり気ない仕草でドア枠に手をかけ、突破されないようにしている。互いの服が触れてしまいそうなほど近づいても、翼は笑みを崩さず見上げるばかりだ。
絶対に踏みこませない――強いまなざしが、そう訴えかけてくる。
「私は、自分で運べると言ったはずだ」
「肋骨が折れた人が持つには、重すぎる」
開いたドアの奥から、消毒の匂いがした。その途端、押し問答することさえ、翼は体力的にぎりぎりなのでは、と思い直す。
言い返そうとした言葉を飲み込み、宥めるような口調に変えた。
「今は、無理をするところじゃないよ」
「この程度の怪我、大したことないさ」
「肋骨骨折が大怪我じゃないなんて、他の隊員には言わないでしょ?」
その言葉に、翼は口を噤んだ。
伏せられた瞼から伸びる長い睫が、頬に影を落としている。しばらく黙った後、翼は首を横に振り、再び目を開けた。
「私にとっては、大したことじゃない」
「絶対安静の重傷だって」
「そんな程度で膝を突いていたら、現場指揮は務まらない。私は……現場指揮官は、どんな戦況でも立ちあがる義務があるんだ」
そう言うと、翼は花籠へ手を伸ばした。
言葉を探していたせいで、籠は呆気なく奪われてしまう。腕が楽になった反面、言いようのない空虚感が胸に沸き起こった。
翼は痛みを堪えるように眉を顰めながら、いつもと同じ笑顔を作ろうとした。
「届けてくれてありがとう。それじゃ、私はもう少し休むから」
その言葉を残して、白いドアは閉じた。
柊は途方に暮れていた。伊織が危惧している通り、翼は常に戦い続けている。
確かに、翼は多くの隊員の期待と信頼を集めているのだろう。だがそれは、他の隊員の荷物を独りで担いで山を登るようなものだ。
このままでは、いつ足場が崩れて谷底へ滑落してもおかしくない。そのとき翼が掴める命綱は、どこにもない。
ふと、脳裏に蘇る、妹の言葉。
(何回失敗してもいいよ。だけど、諦めないで)
「翼、返事をしなくてもいいから、聞いて」
ドア越しに、気配は残っている。
返事のない室内へ向けて、柊は語り続けた。
「今すぐ何か手伝える状態じゃないことは、分かったよ」
「…………」
「だけど、憶えていて。俺はいつでも翼のすぐ近くにいる。俺の手が必要なときは、何を差し置いてでも力になるから」
返事がないのを確認して、柊はその場を去った。
後ろ姿が曲がり角に消えた後、白いドアは音もなく開いた。翼は、壁に寄りかかったまま花籠を抱きしめている。
次第に遠ざかっていく足音。力が抜けたのか、ずるずると玄関先へ座り込んでいく、満身創痍な細い身体。
「……君が気を遣ってくれていることくらい、とっくに知っているさ」
溢れ出た涙が、花籠に落ちる。
ぽたり、ぽたり。まるで雨が降るように、しずくが花弁を濡らしていく。震える指で青紫の花弁に触れると、しずくが指を伝って流れた。
「バカだな、私も。誰かを頼ろうとする弱い心があるから、中途半端だなんて叱責を司令から受けてしまったんだろうに。なあ、そう思わないか?」
独り言を口にしながら、視線を落とした。
青を基調とした花たちは、無言で翼を見上げている。中央で咲き誇る青い花へ頬を寄せ、掠れる声で呟いた。
「君と出逢って、私はどんどん弱くなっていく。こんなに苦しい気持ちになるくらいなら、何も知らないままのほうがよかった――」
細い眉がしかめられる。涙が一筋、頬を伝って落ちた。
やがて深く息を吐くと、翼は花籠を抱いたまま立ち上がった。荒い呼吸を繰り返し、部屋の奥へ。
白いドアは、再び音もなく閉じた。
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