第39話 それぞれが背負う十字架

 伊織いおりはこちらに背を向けたまま、作業を続けている。


「今回戦った八咫烏ヤタガラスが、『神獣クラス』って呼ばれるタイプの【D】ってことは憶えてるか?」


 カウンセリングルームで説明してくれた、明彦あきひこの顔が思い起こされる。


「うん、臨界速ダブルギアで暴走してるのと同じ状態の敵だよね。あれって、どのくらいの頻度で来るの?」

「滅多にないさ。着任して五年目のあたしも、神獣クラスの【D】と戦ったのは、これで三回目だ」


 リボンが並んだ棚へ、伊織の長い手が伸ばされる。

 どれにするか迷った挙句、細いピンク色のものをするりと引いた。


「三年前、あたしらは神獣クラス・八岐大蛇ヤマタノオロチ型【D】と戦った。当時は今よりも隊員が多くて、二個小隊、計十二班で出撃したんだ」

「今の倍近くいたんだね」


 リボンを籠へ結ぶ指が、微かに震えている。


「だけど、生きて帰ったのは、たったの十九名。生還率三割、小隊発足史上、最悪の激戦だった」


 凄惨な数字に、柊は相づちさえ打てなかった。

 黙り込んだ柊を相手に、伊織は淡々と当時のことを語っていく。


 一人、また一人、と動かなくなる仲間。

 やがて当時の現場指揮官は、自らが率いる五名の班員へ、禁忌とされていた臨界速ダブルギアの使用を命じた。

 臨界速ダブルギアを使った四名の隊員は、鬼神のごとき強さで【D】を葬り去る。だが、一人だけ自決が間に合わず、自我を失ってしまい――。


「……ここの管理人をしてた先輩は?」

「発狂した隊員から、あたしを庇って死んだよ。後輩のことなんて見捨てて逃げていれば、生き残れたかもしれないのにさ」


 ふんわりと垂らしたリボンの端を三角に切り、形を整える。伊織が肩越しに様子を窺ったことを、柊は気づいていない。


「エース格の一班でただ一人、臨界速ダブルギアを使わなかった隊員――それが、その日が初陣だった翼だ」


 全体の形を見ながら、バランスの悪い葉を切った。別の隙間には、小さな花や葉を生け、花籠を仕上げていく。


「ベテランでさえ虫けらみたいに殺されていく地獄で、一番の新人だった翼が守ってくれた。それはあたしたちにとって、まさに奇跡そのものだった」


 奇跡、という単語とは裏腹に、伊織の表情は険しい。

 当然だ。その言葉は、翼が発狂した隊員を手にかけたことを、暗に示しているのだから。

 初陣で玉砕命令を言い渡され、独りだけ生き残り、命令とはいえほんの数分前まで仲間だった【D】を介錯する――当時、十二、三歳だった翼がどれほど深い心の傷を負ったか、想像もつかない。


「そしてあたしたちは、翼に依存するようになった。翼がいれば、何とかなる。翼さえいれば、どうにかしてくれる。そうやってまだ新人の翼に、上層部だけじゃなく、先輩であるはずのあたしたちまでもが、重い責任を背負わせたんだ」

「翼は、逃げ出そうとしなかったの?」

「そうさ。翼はあの日からずっと、精神的支柱として小隊を支え続けている。誰にも頼らず、たった独りでな」


 淡いブルーの花を、伊織はガラス細工でも扱うように触れた。


「……伊織や、美咲さんだっているでしょ」

「三年前のあたしらは、ただ怯えるだけだった。後から支えてやりたいと思っても、もう翼にとって、自分以外の隊員は『守るべき仲間』であって、『頼れる仲間』にはなれなかったんだよ」


 そう言うと、伊織は震えるまぶたを閉じた。

 それだけで彼女がどれほど翼を心配しているか、伝わってくる。伊織だけではない。当時の生き残った隊員の多くが、同じように翼を案じているのだろう。

 でも、その気持ちは翼には届かないのだ。きっと、永遠に。


「柊が一人で二匹目の八咫烏を倒した、って話は本当なのか?」

「まあ……」


 伊織に嘘を吐いても仕方ない。

 柊は告白した――自分が男であり、月読命ツクヨミノミコトのダブルギアである、と。そして、だからこそ臨界速ダブルギアが使えることも。


「そうか。それなら、おまえさんに頼みたいことがある」

「どんなこと?」


 柊は椅子から立ち上がり、作業台へ近づいた。

 伊織は自分から切り出しておいて、どう伝えようか、言葉を探しあぐねているように見える。散々悩んでみせた後、彼女は元から細い目を、更に細めてみせた。

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