第38話 手向けの花

「山犬型【D】から逃げきった一般人って、しゅうのことだったのか?」

「そうだよ。でも、自警団だからって戦えるわけでもないし、つばさが助けに来てくれなかったら死んでたんだけど」

「なら、翼は最初から男と知ってたわけか……」


 小さく何度も頷きながら、伊織いおりはそれきり口を閉ざしてしまった。

 とりあえず、伊織は秘密を黙っていてくれるらしい。それどころか、どちらかといえば、協力的な雰囲気だ。

 やっと心から落ち着いて最後の一切れを食べると、柊は話を変えた。


「ここって、伊織の私室なの?」

「どんな功績を立てたら、こんなだだっ広い部屋をもらえるんだよ」

「……ですよね」


 伊織は、鉄製のシェードがついた灯りにグラスを翳した。


「ここは、ただの“温室”だよ。基地が建設された当時からある、隊員のための花を栽培する施設だ。管理人は土いじりの代わりに、個人用の冷蔵庫が使えたり、多少の予算を使えたりするのさ」

「他には誰がいるの?」

「係は代々一人だ。あたしは、同班の上級生からここの鍵を引き継いだんだ」


 十八歳になる伊織は、現役の戦闘員としては古参の部類に入る。そんな彼女よりも上級生というなら、二十歳の退役を迎えていてもおかしくない。


「その先輩が故郷に帰ったから、仕事を引き継いだの?」

「いや、あの人は……三年前・・・に死んだよ」


 そう言って、伊織は壁に掛けられた金属プレートを見上げた。

 柊も黙ってその視線を追う。プレートには、日付と班、そして氏名が刻印されている。数百はあるプレートを眺めるうち、ふと、あることに気づいた。


「まさか、これ……」

「金のプレートが殉職者、銀のプレートが戦闘不能で除隊になった隊員だ」

「隊員のための花を育てる施設って、じゃあ」


 比較的新しい金色のプレートを眺めながら、伊織は頷いた。


「そう。ここの花は、無事に二十歳の退役を迎えた隊員に渡す祝いの花でもあるし、死者へ贈る手向けの花や、除隊させられた隊員へ惜別の花にもなる。今作ってたのは、まだ治療中の隊員の見舞いの花だけどな」


 作業台で咲き綻ぶ大輪の薔薇の花が、むせるほど強く香った。


「なんで、そんなものを作るの」

「あたしらは厳しい訓練に明け暮れて、顔も知らない誰かのために命懸けで戦わされている。しかも、死んだら事故に遭ったことにして、骨だけ家族へ届けられる。花の一つも供えてやりたい、って誰かが言い出したんだろうさ」

「……そんなに酷い扱いなの?」


 伊織は、目を伏せたまま首を振った。


「死ぬのはまだマシなほうさ。戦闘不能者は、恩給もなく実家へ送り返される。もし隊のことを口外したら、気が狂ったことにして殺処分する、と脅されて」


 重苦しい口調は、嘘を吐いているようには聞こえなかった。

 いたたまれなくなった柊が、グラスを呷る。冷えたハーブティーが喉を駆け下りていった。


「ごめん、変なこと聞いて」

「おまえもここで暮らす以上、知っておかないとダメだろ。翼はそういう話をしたがらないから、副班長のあたしが教えておこうと思ってたところさ」

「ありがとう」


 茶のおかわりを聞かれた柊は、大丈夫、と答える。

 すると伊織は椅子から立ち上がり、壁際の作業台へ向かった。台には何種類もの切り花が置かれ、それを飾る小さな籠もある。伊織は籠の中へ緑のスポンジを置くと、鋏と花を手にした。

 作業を再開した伊織の背中へ、柊が話しかける。


「伊織のこと、前衛最強だ、ってみんなに聞いたよ」

「ああ……“現役で”かつ“接近戦”に限定すれば、そうかもな」

「もっと強い人がいるの?」

「そらまあ、小隊長は別格さ。ヘッドギアなしで、それを被ったあたしに稽古をつけられるんだからさ」


(そんな人がヘッドギア被ったら、人類最強間違いなしじゃないか)

 さすがレジェンド、と呟く柊へ伊織は続ける。


「けど、前衛最強ってのも訓練中の話でしかないけどな」

「どういうこと?」


 戦場での伊織はピカ一、輝いていた。

 身体能力の高さだけでなく、勇ましく周りの隊員を鼓舞し、真っ先に切り込んでいくその背中は、頼りがいのあるものだった。

 しかし猛々しい戦いぶりが嘘のように、今の伊織は穏やかな顔をしている。こうして美しい花を生ける彼女は、争いなど好まない年頃の乙女に見えた。


「……あたしは、自警団出身なんだ。予備科で覚醒して、こっちへ来たんだけどさ。自警団でも、戦意に乏しい、って上官に叱られてばかりだった」

「本当に戦うのが嫌なら、あんな勇ましい戦い方はできないでしょ」


 山犬型【D】以上に巨大で獰猛な八咫烏ヤタガラスを前に、怯むことなく最前線で戦い続けた雄姿を思い出す。

 しかし、今の伊織と戦場の彼女の印象はまるで重ならない。咲き終えた花殼を優しい手つきで摘み取りながら、静かに微笑むばかりだ。


「あたしが戦わなきゃ、他の奴が死ぬだけだ。知り合いの死体を見たくないなら、自分が戦うしかない――残念だけど、あたしは他の奴より強いからな」


 仲間ではなく、知り合い、という単語を選ぶ伊織の後ろ姿は、どこか普段より小さく感じられた。殉職者を見送る役目の彼女は、特定の隊員と深い関係になるのを意図的に避けているのかもしれない。


「三年前の事件がきっかけで、そう思うようになったの?」

「……ああ。前の管理人が死んだときにな。他の奴が死ぬくらいなら、自分が戦おうと決めた」


 意を決し、柊は話を切り出した。


「三年前、何があったのか教えてほしいんだ」

「好奇心で知りたいなら、他の奴を当たってくれ」

「伊織もそうだけど、翼もその事件をすごく引き摺っているみたいなんだ。何か俺にできないか考えてるけど、そのことを避けていたら、永遠に答えには辿り着けない気がするから――」


 咲き終えた花殼や余分な葉をゴミ箱へ捨てると、伊織は園芸用の鋏で白い花の茎を切った。

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