第37話 猛獣と小ウサギ

 全く予想していなかった温室のあるじに、しゅうは思わず目を疑った。


「なんでここに伊織いおりがいるの?」

「そら、ここの管理人だからな。昼休みはいつも水やりタイムだ」


 伊織は土で汚れた軍手を外しながら答えると、深緑色のエプロンのポケットへ、それを無造作に突っ込んだ。汚れるのを嫌ってか、訓練用の作業服ではなく、白いワイシャツと細身のデニムを着ている。並大抵の男より大柄な彼女の身体にフィットした、ちょうどいいサイズの品だ。

 いわゆる「糸目」と呼ばれるような、かなり細い目。くちびるも薄い。鼻筋は通っているものの、地味な部類の顔立ちだろう。洗いざらしのワイシャツにジーンズ、服装まで男らしい。広い肩幅、服越しにも感じられる確かな筋肉の厚み。鎖骨までの髪を一つにまとめているが、それがなければ柊よりも高い身長もあって、男にしか見えかった。

(――はずだったんだけど)

 柊は、普段の伊織と違う一点から目を逸らすことができずにいた。

 ラフに着こなしたワイシャツの胸元は、メロンでも抱えているのか、と聞きたくなるほどたわわに膨らんでいた。

 興奮というより驚愕の表情で固まっている柊へ、伊織は肩を竦める。


「口が開いてるぞ」

「ご、ごめん……じゃなくて」


 目を閉じて、午前中の伊織の姿を思い出そうとする。

 訓練用の黒い作業服に身を包み、小隊長の榊と組み手の稽古をする伊織。その胸元は――鍛えられた胸筋といった雰囲気だった。

(身体の厚みが、完全に別人なんですがっ)

 柊の視線は、伊織にとって慣れたものなのだろう。谷間も露なシャツの襟を、長い指でクイッと引っ張ってみせる。


「胸のある隊員は、専用の下着サポーターで押さえているんだ。戦うのに邪魔だし、出動時に見られたら、一発で女ってバレるからな」

「あ、なるほど」


 ダブルギアは少年部隊、ということになっている。「男にしては」背が低い、線が細い、というのは「子どもだから」で済むが、胸のふくらみは誤魔化しようがない。

 冷静に思い返すと、女性らしい身体つきの美咲も、戦闘中は他の隊員と見分けがつかない。美咲も、伊織と同じような専用の下着サポーターを使っているのだろう。

 伊織の言葉に納得しつつ、柊は安堵した。その下着が全員へ支給されていたら、今の一言で怪しまれていたはずだ。

 柊は背中に冷や汗をかきながら、作り笑いを浮かべた。


「ごめん。俺はそういう下着要らずの身体だから、びっくりしちゃって……」

「そらそうだろうよ、男なんだし・・・・・

「………………」


(今、なんて言った?)

 眩暈がするほど、サァッと血の気が引いていく。

 足が震え、思わず近くの鉄製ラックへしがみついた。そうしてやっと立っていられるほど、視界は暗くなり、視野も狭くなっている。あまりの精神的ショックで、貧血を起こしているのかもしれない。

男なんだし・・・・・、って言った?)

 柔らかそうな見事な渓谷を胸元に持つ伊織が、男なわけがない。ということは、男という単語が示す人物は――。


「おまえさん、男なんだろ・・・・・?」

「――――っ」


 今度こそ立っていられなくなった柊は、ラックにしがみついたまま、ずるずるとへたり込んでしまった。プラスチックの箱に入ったサンドイッチが、床へ落ちる。

(な、なんで、バレてたの? いつから? どうして? 他に誰が知って――)

 声にならない言葉で、口がパクパクと動く。酸素の足らない魚のように。床にぺたりと座ってしまった柊へ、伊織が大きな手を差し出した。


「なんつー顔してんだよ。ほら、手ぇ貸しな」


 言われるがまま、自分と同じくらいの大きさの手を取る。

 伊織の手は、赤く荒れていた。手指も長く、骨ばっているように見える。だが男である柊と比べて、不思議な柔らかさがあった。


「おまえさん、昼はどっちにした?」

「独りで食べようと思ったから……カツサンド」


 ここの食堂は、常にメニューが二つあって、好きなほうを選ぶことができる。もちろん、そんな贅沢は基地へ来て初めて経験したことだ。

 生まれ育ったシェルターでは、どこの部署に所属しようが、偉くなろうが、同じ食事しか出ない。アレルギーがあっても、自分で取り除け、と言われるだけだ。

 些細なことかもしれないが、食事を選べることは、ダブルギアがあらゆる面で優遇されている証拠の一つだった。


「あたしもこれから食うから、奥のテーブルに来いよ」

「えっ」

「どーせ、昨日のことを気にしてぼっち・・・なんだろ」


 口籠る柊を前に、伊織は大きな口で、にかっと笑った。


「あんまり気にすんなよ。小学生のガキから十九歳の大人の女まで、一緒くたに詰め込まれてんだ。全員と仲良しこよしなんざ、誰だってできるわけないっての」

「うん……」


 脂汗が額を伝う柊の背をエスコートするように支え、伊織は先ほど彼女が出てきた奥の部屋へ案内した。

 小部屋は、六畳ほどの広さがあった。三方向にラックが置かれ、スコップやじょうろ、他にも柊には名前の分からない園芸用品が綺麗に並べられている。その脇には、種や肥料の入った段ボールが積まれていた。

 ラックのない壁には、ドアがある。伊織はこっちだ、と言いながら柊の背を押し、一番奥の部屋へ連れていった。

 ドアを開けた途端、爽やかな香りが鼻をくすぐる。

 古材とアイアンで作られた、小さなテーブルセット。壁には逆さに吊るした花々。柊はドライフラワーという物を知らなかったが、とてもいい香りがする。

 作業台の上に設置された棚には、色とりどりのリボン。部屋の隅には小型冷蔵庫。

 三畳ほどの広さの小部屋は、伊織の休憩スペースだった。

(こんな部屋が、ダブルギアの基地にあるなんて……)

 ぼんやりと部屋を眺める柊から離れ、伊織は冷蔵庫を開けた。冷やしていたガラス製のボトルを取り出し、琥珀色の液体をグラスへ注ぐ。


「おまえさんも飲む?」

「それ、何?」

「ハーブティー、って言っても飲んだことないよな。まあ、座れよ」


 伊織に勧められ、簡素な椅子へ腰を下ろす。

 地下に広がる製造部の地下農場で、最低限の食糧は確保されている。とはいえ、常に物資は不足している。飲み物と言えば、緑茶か麦茶、土地によって蕎麦茶が出る程度だ。

 当然、経験したことのない味というものに、人々は飢えている。柊も、先ほどの強いショックも忘れ、思わず頷いていた。


「くださいっ」

「はいよ。ちょっと独特の風味があるから、一気に――」


 伊織の忠告が終わるより早く、柊はコップに注がれた液体を飲み干していた。柑橘系の爽やかな香りが、鼻腔をくすぐる。


「――何、この味、変っ」

「レモングラスって、レモンに似た香りのハーブだよ。まあ、四国以外のシェルターは、レモン自体、口にしたことないだろうけど」


 変、と言いつつ目を輝かせる柊のグラスへ、伊織はおかわりを注ぐ。

 おかわりも一気に呷った後、ようやく柊は満足げにため息を吐いた。

 いつの間にか、もう一つの椅子へ伊織も座っていた。伊織は対面の席で、柊と同じカツサンドの入った容器の蓋を開けている。

 その豊かな胸元に視線がいきそうになって、柊は先ほどのことを思い出した。


「……あの、伊織。さっきのことだけど」

「ん? ああ、おまえさんがって話な」


 大きな口でカツサンドを頬張りながら、伊織は頬杖を突く。


「い、いつから、どうして、他の人は……」

「そう矢継ぎ早に質問するなよ。あたしはつばさと違って、頭が回るほうじゃないんだ」

「すみません」


 ガチガチに緊張している柊の様子に、伊織は、くっくっ、と肩を揺らして笑う。


「いつから、って――初日からだよ」

「ウソっ」

「つーか、みんなバイアス掛かりすぎだろ。これまで女しか覚醒してないからって、喉仏がある声変わりした女なんているかよ」


(ですよね、そうですよね。二十二人全員を騙しきれるはずがないですよね……)

 食べな、と勧められ、震える指でカツサンドを摘まむ。何の味もしない。まるで紙か土でも咀嚼しているような気分だ。

 それでも、事実を確認しないわけにはいかない。


「このこと、他の隊員には」

「話してないさ」

「誰か、伊織の他に気づいてそうな人は?」

「違和感程度ならいるかもしれないが、確信を持ってる奴はいないと思うぞ」


 ほっと一息ついて、唾を呑みこもうとする。

 ハーブティーを飲んだばかりなのに、緊張で喉がカラカラだ。なみなみと注がれた琥珀色の茶を、ぐいっと呷る。

(どうしよう……もうこれ、完全にバレてるよな。黙ってくれてるみたいだし、ウソを重ねて伊織に嫌われるより、素直に認めたほうがいいのか?)

 そんな柊の仕草を、伊織はちらっと見ながらカツサンドを頬張った。

 やっと人心地がついたのだろう。彷徨っていた柊の視線も、ようやくまともに伊織へ向けられた。


「なんで、黙っててくれたの?」

「小隊長が見過ごすはずもないし、翼は妙に緊張してたし……この二人が敢えて言わないなら、あたしが首を突っ込むことじゃないだろ」

「そういうものなの?」

「面倒ごとはお断りだ。仲良しこよしとか、派閥争いだとか、性分じゃないのさ」


(ぶっきらぼうに言う割には、こうやって、人のいないところで訊いてくれているんだよな)

 グラスに口をつけるふりをしながら、伊織の様子を観察する。

 彼女は遠い目で、壁一面に下げられた小さなプレートを眺めていた。どこか遠くを見るようなまなざしは、深い哀しみを湛えている。

 そんな柊の視線に気づいたのだろう。目を合わせた後、伊織はまつ毛を伏せ、静かに口もとだけで笑った。


「万が一、おまえさんが隊員たちと男女の関係になりそうになったら、あたしが制圧すればいいだけのことだしな」


 とんでもない発言に、思わず吹き出しそうになる。


「しないよ、そんなこと」

「おまえさんはしないだろうさ。見てれば分かる」

「じゃあ、どういう意味?」

「柊が女子に襲われそうになったら、女子たちを制圧する、って言ったのさ」

「普通、逆でしょ!」


 自警団には、全体の二割ほどではあるが、女性もいた。訓練も男女合同で行われるし、組手などで密着することもある。そのせいか、ロッカールームは過激で露骨な妄想丸出しの会話で、常に盛り上がっていた。

 柊がその輪に加わることはなかったが、それを聞かされていたせいで、男が女を狙うことはあっても、女が男を狙う、という感覚がぴんとこない。

 すると、伊織は片方の眉を上げてみせた。


「ここをどこだと思ってんだ。毎月、命懸けで化け物と戦う決死部隊だぞ」

「……う、うん」

「命短し恋せよ乙女――せめて死ぬ前に初恋ぐらいしてみたい、って女は大勢いる。男として戦わされて恋することも許されない乙女猛獣の群れに、大人しそうな男小ウサギを放り込めばどうなるか」


(古参組の伊織が言うと、シャレにならないんですが……)

 思わず二の腕を擦る柊の様子に、伊織は苦笑した。


「一応、聞いておくが、小隊長と翼は知ってるんだよな?」

「小隊長は、俺が護送される間に来歴書を読んだみたい。翼は――初めて会ったときに、しつこく女じゃないのか、って聞かれたから」


 その言葉に、何か思い当たる節があったのだろう。

 伊織の細い目が、僅かに見開かれた。

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