タクシーに乗る幽霊

大堂 真

タクシーに乗る幽霊 Ghost in the taxi

「いやあ、お客さんは運がいい。こんな時間にタクシーが拾えるなんてね。

 私もいつもは街の方を流してましてね。今夜こっちに来たのも、この湖の近くにあるホテルにお客さんを送っていった帰りなんですよ。この辺は夜間の交通量が少なくてね、タクシーを拾おうと思ってもそうそううまくはいかないんですが、まあそこで運良く私に出会えたって訳でね。

 それにしてもお客さん、こんな時間にあんな人気の無い湖の近くで何をしてらしたんですか?

 いやね、真夏のこんな夜遅くでしょ。私、最初お客様の事を幽霊かな~と思ってしまったんですよ。

 お~っとっと、怒らないで下さいよ。

 ほら、有名な怪談話であるでしょ、タクシーに乗る幽霊って奴。あれに似てるなって思ったんですよ。

 タクシーが真夜中に墓地やら霊園やらで若い女性を客として拾う。で、彼女の告げた目的地に着いてから後ろを振り返ってみると、そこにはだぁれもいなくてシートが濡れているだけだった……ってあれですよ。誰でも一度ぐらい聞いた事あるでしょ。

 お客さんの……こう、なんといいますかねえ。ミステリアスな雰囲気がどうも気になったものでしてねえ。

 いやね、会社の同僚でもよくいるんですよ。『真夜中に湖の辺りで女の幽霊を乗せた』とかなんとか馬鹿な話をする奴がね。私なんかよくそんな奴に『お前さん、そりゃ寝惚けてたんだよ』なんてツッコミを入れるんですがね。お客さんを乗せた時にその事を思い出しましてねえ、どうも失礼致しました。

 大体ねえ、あのタクシーに乗る幽霊の話はナンセンスの塊ですよ。先ず第一になんで幽霊がタクシーを拾うんですかねえ。行きたい所があるなら、自分で飛んでいけばいいじゃないですか。

 それに、全く関係の無いタクシードライバーの前に現れるってのも変ですよねえ。無関係の人間の前に姿を見せたって何の意味もないでしょうに。

 終いには自分でタクシーを拾っておいて、何時の間にか何処かへ消えていたってオチもなんなんでしょうね。一体何が目的でタクシーを拾ったのやら。

 そうそう、シートが濡れていたってのも、何が言いたいのか意味不明ですね。後部座席を振り返ったら誰も居なくてシートが濡れていたってのが、怪奇現象が本当に起きたと言う痕跡だった……とでも言いたいんでしょうかねえ。

 もし私が幽霊だったら、そんな無関係のタクシードライバーの前なんかじゃなく、殺してやりたいほど憎い相手の前に化けて出ますけどねえ。折角幽霊になったんだからね、ここぞとばかりに恨みを晴らさなくちゃ損ってもんでしょう、ねえ」


 そこまで話して私はバックミラーに目をやった。後部座席に座る女は終始無言で、私の言葉に相槌一つ打たなかった。長い黒髪に隠されて表情は窺えず、僅かに口元が見えるばかりだ。

 よく見ると、女の髪は風呂上がりの様に濡れていた。濡れた髪の間から僅かに女の唇が見えた。女の唇は生気を失った様な紫色をしていた。まるで死体の様な……。

 ふと、女の喉元に紫色の痣がある事に気付いた。その痣は、人間の手の形をしていた。まるで正面から首を絞められた様な痣だった。

 その痣を見た瞬間、私の封じられていた記憶の扉が開いた。

 そこに封じられていたのは、若き日の忌まわしい記憶だった。忘却の彼方に葬った忌まわしい記憶が蘇り、私の脳裏で激しく渦を巻いた。

 そして、私には女の正体が分かった。分かってしまった。

 だが、そんな事は絶対にあり得ない。彼女が此処に居る訳が無い、居る訳が無いのだ。何故彼女が此処にいるのだ!?

 ――


 もう三十年以上前の出来事だ。

 私は、人を殺した。

 

 それは真夏の夜の事だった。

 私は既にタクシードライバーとして仕事をしていた。忙しい日々の合間に私は休暇を取って、当時交際していた女性とこの湖に旅行に来ていた。

 月の綺麗な夜だった。二人で湖のそばの林を散歩している時、私は彼女から妊娠を告げられた。

 あなたの子供を産みたい――月光に照らされ柔らかな微笑みをたたえながら、彼女は無邪気な声で私に言った。だが、私は彼女の言葉に頷く事が出来なかった。当時私は別の女性と結婚していて、子供が産まれたばかりだったのだ。

 私は彼女の足元に土下座し、子供を堕ろしてくれと彼女に懇願した。

 だが、彼女は頑として応じなかった。それどころか彼女は私の事を罵倒した。ありとあらゆる言葉を用いて罵倒したのだ。そして私にこう言い放ったのだ、「身体目当てのけだもの」と。

 違う! 違う、違うんだ! それは誤解だ! 私は断じて、そんな獣なんかじゃない!!

 私は怒りと興奮に我を忘れた。彼女を突き飛ばし、地面に倒れた彼女の上に馬乗りになった。

 そして……この手で……力の限りに……彼女の首を……。

 彼女の首の骨が砕ける音を耳にして、私は意識を取り戻した。私の目の前には彼女が……いや彼女だったモノが横たわっていた。唇の間からまるで軟体生物の様な紅い舌がデロリとはみ出し、綺麗だった二つの瞳は白目を剥いてしまっていた。

 若く美しかった彼女は、もうそこになかった。そこにあったのは、ただの醜い死体だった。死体でしかなかった。

 犯行の発覚を恐れた私は、持ってきていた大型のスーツケースの中に、彼女の死体と大量の石を詰めて湖に沈めた。そして、私は震える身体を抱えながら湖から去った。その後、幸いにも彼女の死体は発見される事が無かった。

 やがて私は、彼女を殺害したと言う記憶を忘却し、三十年の時を生きてきた。この三十年間、一度として彼女の事を思い出す事はなかった。ただの一度もだ。

 私は彼女の死体と共に、殺人の記憶も湖に沈めたのだ。


 私は確信していた。今、私の後ろに座っているこの女は、私が殺した彼女だと。

 不意に、私は「真夜中に湖の辺りで女の幽霊を乗せた」と言う同僚の言葉を思い出した。そして或る事に気付いた。

 そうか、そうだったのか――

 彼女の魂は死して尚、この地に留まり続けた。そして

 私はそっとバックミラーを覗き見た。後部座席にいる彼女の口元が見えた。ミラーに映る唇が動き、音にならない言葉を発した。

 ――ア、イ、タ、カ、ッ、タ。

 何時しか彼女の口元には微笑みが浮かんでいた。三十年前のあの夜に見た、月光に照らされていた柔らかな微笑みが――。


 私にはもうバックミラーを見る事が出来なかった。

 私は左胸を押さえた。私の心臓は激しく動悸をし、まるで心臓が破裂してしまいそうな程の痛みを感じていた。

 幽霊を乗せたまま、私のタクシーは夜の闇を走っていく。

 もうこの闇の中から戻る事は出来ない――私の直感がそう告げていた。

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タクシーに乗る幽霊 大堂 真 @blackbox1999

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