恋をすると欲が出る

波瀬言

僕が笑わせたい

 窓を開けるんじゃなかった。

 外からの風のせいで視界を塞ぐカーテンに、僕は大きく息を吐いた。

 エアコンの効きの悪い僕らの教室は、窓を開けておかないとクラスメイトの熱気のせいで気温が高くなる。別に休み時間の度にそんなに騒がなくても、と思うけれど、中学1年生の男子なんて小学生と変わらない。くだらないことで騒いで、くだらないことで笑って、くだらないことでふざけている。

「もう、男子! いいかげんにしてよ」

 不満に満ちた口調で言う女子に目もくれず、互いのズボンを引っ張っては脱がすような素振りを見せる。時おり聞こえる言葉に女子が顔を顰めているけれど、そんなことはお構いなしに、男子はただひたすら騒いでいた。

 吹き抜ける風が、また視界を塞ぐ。薄い黄みがかったカーテンが、はたはたとはためく。そのカーテンが何度となく視界を掠めるから、煩わしくて仕方ない。

 けれど、窓を閉めるわけにはいかなかった。だって、このカーテンは僕の「盾」なんだから。


 腕を枕に机の上に突っ伏している僕の視界の端に、彼女がいる。教卓の正面の席に座る彼女は、僕の席からは顔が見えない。見えるのは、まっすぐに伸びた小さな背中。どんな表情をしているかは分からない。でも、きっと涼し気な顔をして、手元の本に目を落としているに違いなかった。

 彼女はいつもそうだ。どんなに周囲が騒がしくても、静かに席で本を読む。まるで一人だけ別の世界にでもいるかのように、彼女の周りだけはいつも静かに落ち着いている。だから、どうしたってクラスの中では一目置かれる状態だった。特に親しい友人がいるように見えない。けれど、だからと言って、人と話すことが苦手なわけじゃない。誰とでも分け隔てなく話ができる。それこそ、男女なんて関係なく話ができる。だから、クラスの班の班長にも選ばれる。本を読むのが好きだから、クラスの図書委員にも選ばれていた。選ばれると、にこりと微笑んで「分かりました。やります」と口にするような性格だった。

 そんな彼女はどうしても近寄りづらくて、僕は話しかけることはできなかった。

 そんなときだった。仲のいい友達と校庭で遊んでいて、日直の仕事を忘れてしまったことがあった。チャイムが鳴って慌てて教室に戻ったとき、教卓の前にある彼女の机にぶつかってしまった。驚いた彼女の手から、本が落ちた。その本を、勢い余って僕は踏んづけてしまったのに、彼女は何事もなかったかのように本を拾い上げてそのまま机の中に片付けた。それから、

「黒板、消すの手伝うよ」

と口にすると、僕よりも手早く黒板を消していった。

「ごめん」

「ありがとうって言ってくれた方が嬉しいかな」

 本を踏んだことを謝ったつもりだったのに、日直を手伝わせたことに対して言っていると思ったらしい彼女が、静かに笑いながら僕に言った。そうじゃない、と言おうとしたけれど、次のときにはチャイムが鳴って口にすることはできなかった。

 それ以来、何だか彼女が気になって。気付いたら、彼女が目の端にいるようになった。読書をしている彼女は、本当に色んな表情をしていた。どんな本を読んでいるか分からないけれど、息の詰まるような顔をしていたり、かと思えばホッと安心しきった顔をしてみたり。そう思った次の瞬間には、ハラハラした顔をしてみせたり、そうかと思えば今にも泣きそうな顔をしていたりもする。

 でも、何より驚いたのは、そんなに表情がくるくると変わるのに笑った顔を見たことはなかった。微笑んでいることはある。でも、彼女の笑顔はどんなときでも静かな笑顔ばかりで、満面の笑みを見たことがない。

 あんなに本が好きなのに。あんなによく笑うのに。なのに、彼女が大きく笑うことはない。それが不思議で仕方なくて。

 そう思い始めたら、自分がとても単純なことでふざけて笑ってることさえ、何だか恥ずかしく思えて。それから僕は、友達とふざけて遊ぶのをやめてしまった。

 でも、笑うのは嫌いじゃない。笑わせることも嫌いじゃない。だけど、今の僕は、誰でも笑わせたいわけじゃなくて、静かに本を読む彼女を笑わせたいんだ。

 カーテンがはためく。視界の端に映している彼女を、カーテンが隠す。でも、窓を閉めてしまったら彼女を見ることさえできなくなってしまう。こうしてカーテンが僕を隠してくれるから、だから僕は彼女を見ることができる。

 はたはたと、揺れるカーテンが煩わしい。何度目か分からないけれど、左手でカーテンを振り払ったとき、別の何かが僕の視界を塞いだ。

 枕にしていた腕から顔を上げれば、くすりと声が聞こえそうな静かな笑みが目に入る。

「窓、閉めればいいのに。……ああ、でも閉めたら暑いか」

 そう言って、彼女がカーテンをタッセルで留める。さらりと風が彼女の髪をさらった。

「お昼寝できるのも、あと5分くらいだよ」

「……うん」

 そう言って静かに笑った彼女は自分の席に戻っていった。カタン、と彼女が座る音がクラスの喧騒の奥に聞こえていた。

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恋をすると欲が出る 波瀬言 @hasei

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