イナニア戦記

白蔵 盈太(Nirone)

1.イナニア人について

 イナニア人は、通商の民である。

 通商の民であるがゆえに、彼らイナニア人は、ただ銀貨のみを信用する。


 彼らにとって、自らに銀貨を与えてくれる者は良い主君、銀貨を与えてくれない者は悪い主君である。その時に、相手の手足の指が五本であるか六本であるかなどは全く関係がない。


 かつて彼らイナニア人は、北方から侵略してきた六本指の蛮族、ソマ人(注1)によって殺戮の限りを尽くされ、住む土地を追われた。だが、彼らはその屈辱の歴史をすっかり忘れ去っている。今やイナニア人たちは、仇敵であるはずのソマ人どもに首を垂れ、商人となってその城塞に出入りし、犬のようにセトナイの海を駆け回っては、彼らのための交易を行なっている。


 そんなイナニア人たちも、ほんの百年前までは、北の大陸において我々ウドゥン共和国に匹敵する強大なイナニア王国を築いていた。イナニア王国の栄華は英雄コナモン王(注2)の治世に頂点に達し、その版図は西方のミマサカやクラシキといった都市まで及んでいる。

 だが、イナニア王国の最大の不運は、北の大陸にあって、野蛮なソマ人と陸続きの土地に住んでいたことにあった。


 英雄コナモン王の死から十数年の後、イナニア王国に向けて北方から六本指のソマ人どもの侵入が始まった。絶え間ないソマ人たちの圧力の前に、栄華を誇ったイナニア王国はあっけなく崩壊した。ソマ人に追われたイナニア人たちは大陸の東方に逃れ、部族ごとに分裂してそれぞれ小国家を建設した。


 幸運なことに、我らウドゥン共和国は大陸の南側にある広大かつ豊饒なウドゥン島に位置している。大陸との間をセトナイの海が隔ててくれていたため、我々は野蛮なソマ人の圧力を受けることが少なかった。

 イナニア王国の悲劇を海の向こうに眺めながら、我がウドゥン共和国はその後も耕地を広げ街道を建設し、高度な文明を築き上げてきた。


 一方、南下したソマ人どもは、ついにセトナイの海の沿岸まで勢力を伸ばすに至った。彼らは大陸の西側にある天然の良港、クレタに新首都を建設すると、ソマ王国の建国を勝手に宣言したのだ。

 今から百二十年ほど昔、マナガッツォとスウドニウスが執政官を務める後半の年(注3)の出来事である。


 文明の何たるかを知らぬ、六本指の北方蛮族が打ち立てたこのソマ王国に対して、わがウドゥン共和国元老院はただちに、その存在を認めない旨の弾劾状(注4)を叩きつけた。以来、両国は二度の大戦を交えたが、いまだ決着がつかぬまま、現在もなお緊張状態が続いている。


 銀貨以外は何も信じないというイナニア人の性向は、蛮族に蹂躙され国を追われた悲劇の歴史を経て形作られている。ただし、同じイナニア人の中でも、その節操のない守銭奴といえる性向は部族によってやや濃淡がある。


 一般的に、ソマとの国境に近い北方に住むナニア族にはその守銭奴的傾向が比較的強く、南方に住むサイガ族は弱い。


 人と人との関係性において何よりも信義を重んじる我らウドゥン共和国は、海峡一つ隔てただけの地理的な近さもあって、昔からサイガ族とは友好関係を保ち続けてきた。特に、現在の族長カマアケルは信義の人間であり、元老院は彼に「ウドゥンの永遠の友」の称号とウドゥンの名誉市民権を授与するなど、長年にわたる深い信頼関係を築いている。


 イナニア地方をめぐるこの長く苦しい戦いは、全てはこのサイガ族族長、カマアケルからの悲痛な救援要請から始まった。



訳注

(注1)「六本指の蛮族、ソマ人」発掘調査の結果、ソマ人は現存のヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)とは異なる亜種、ホモ・サピエンス・セクスディギトゥスであったと考えられている。その最大の身体的特徴は、手足の指が六本あることである。


(注2)「英雄コナモン王」(B.C1011年-B.C931年)古イナニア王国第3代の王。首都ナニア・ガタに巨大な港湾を建設し、交易を奨励し海洋民族イナニアの礎を築いたとされる。積極的に外征を行い、彼の治世下で古イナニア王国は最大領土を獲得するが、晩年は財政の悪化と内部の民族対立が進み王国の弱体化を招いた。


(注3)「マナガッツォとスウドニウスが執政官を務める後半の年」B.C216年のこと。ウドゥンでは年号を使わず、その年に執政官を務めた人物の名で年を表した。執政官の定員は二名。任期は二年であるため、一年目を「前半の年」、二年目を「後半の年」と表す。


(注4)「弾劾状」当時のセトナイ海社会においては、宣戦布告の前段階として相手国に対して敵意を表明する弾劾状を送付することが一般的であった。弾劾状は国家間の意志表明のようなもので実社会における影響力はなく、弾劾状送付後も交易や人の移動は通常通りに行われていた。

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