第47話 もう、ここには来ないのかと思ってた
──週末の金曜日
岩崎くんに、なにかあった。
遅刻ギリギリで登校してきた彼の憔悴した姿を見た瞬間、私にはそれがわかった。
慌てて教室を見回すと宏樹くんと視線がぶつかり、彼も頷く。やはり同じ結論に達しているみたいだ。
「おはよう」と声をかけた私に「よう」とだけ答えた岩崎くんは、席に着くと体を机に投げ出して、顔を伏せる。疲れ切っているのか、それとも他人とコミュニケーションをとることを拒否しているのか。
ホームルーム開始まで、あと三分弱。私は静かに席を離れて、廊下に出た。
「古川、どう思う?」
少し遅れて廊下に出てきた宏樹くんが、難しい顔で私に尋ねる。
「お父さんの転勤、決まったっぽいね」
「だな。で、どうする?」
「私は……」
そう口に出してから、実際のところ、なにも考えていなかったことを自覚する。とりあえず、いまの私に言えることはこれくらいだ。
「最終的にどうなるにせよ、岩崎くんが自分で言ってくれるまで待とうと思う」
「ああ。俺もそれがいいと思う」
でもその日のうちに、岩崎くんの口から事態が説明されることはなかった。
──月曜日
岩崎くんは学校を休み、翌日も、そしてその翌日も学校に姿を見せなかった。
──水曜日の夕方
もちずり石の前で、私は座り込んでいた。山麓の林の静けさの中、どこか遠くで鳴いている鳥の声だけが聞こえる。
普段なら彼と一緒に、ここで定例の掃除をしている時間だ。でも、彼はあの様子がおかしかった先週の金曜以来、学校を欠席し続けている。
どうしたんだろう。
悩んでるのかな、言い出せないのかな。
このままお別れなのかな。
やっぱり私の存在なんて、たいした意味はなかったのかな。
私はいったいどうしたかったんだろう? 彼とどうなりたかったんだろう?
わからない。わからない。わからない……。
「どうでもいいや」
ポロリと口から出た自分の言葉に唖然として、否定するように私は強く首を振った。
そのまま目をぎゅっと瞑ると、我慢していた涙が溢れ出てくる。ここ数日、学校の外では、私は泣いてばかりだ。
ようやく涙がおさまってハンカチで目尻を拭っていると、背後からこちらに向かってくる足音が聞こえる。
こんなところで知り合いに会うわけはないんだけど、私はいまきっと他人に見せられないような、酷い顔をしているに違いない。だから顔を合わせないよう、明後日の方に顔を向けながら遠回りして走り去ろうとして──。
「古川さん?」
現れたのは、予想もしていなかった人物だった。
「岩崎くん……なの?」
私はつい振り向こうとして、慌てて思いとどまる。ダメ、岩崎くんには、いまの顔を見せたくない。
「ごめん、遅れて」
「もう、ここには来ないのかと思ってた」
彼の方を振り向かずに、私は声だけで返事をする。
「連絡できなくて悪かったよ。メッセージ送っても良かったんだけど、古川さんには自分の言葉で伝えたかったから」
私は息を飲んで、覚悟を決めた。
つまり彼は、これから口にすることのためだけに、わざわざここまで来てくれたんだ。だから彼がなにを言ったとしても、黙ってそれを受け入れよう。
「えっと、その……話すと長くなるんだけど。結論から言うと、来月から親が首都圏へ異動することになった」
やっぱり。
また涙が溢れそうになるのを必死でこらえて、目をつぶって俯き、歯を食い縛る。
「でも、俺はこっちに残れることになった」
なにか信じられないような言葉を聞いた気がして、私は思わず目を大きく見開いた。そして酷い顔をしていることを忘れて、岩崎君の方を振り返る。
「転校ばかりで、入学から卒業まで同じ学校で過ごした経験がないまま終わるのは嫌だ。まだこの街で過ごしたい。残りの高校生活も古川さんや、みんなと一緒に送りたい」
そうやって金曜の夜、子供みたいにゴネたんだよ、結構大変だったけどな、と岩崎くんは苦笑いを浮かべて話す。
その表情を見ているうちに、こらえようとしていた涙がまたじわじわとにじみ始めて、あっという間に決壊した。恥ずかしいしみっともないから声は出さないようしていたつもりだったけど、我慢できていたかどうかは自信がない。
「東京の中高一貫の女子校に通いたがってた妹には良いタイミングだったんだろうけど、俺はどうなんだって。実のところ、親も気にしていたみたいでさ」
岩崎くんの話は続いている。
──今住んでるマンションに単身者用の空き部屋があることがわかって、そこを押さえてもらえることになった。だから同じ建物の三階から二階に引越。
それで、一人暮らしするならそういうのも全部自分でやらないとダメだ、初めが肝心だからって言ってさ。週が明けてからは契約やら手続きやら必要な家具揃えなきゃやらで、親と一緒にあちこち回ってて、学校どころじゃなかったんだよ。
ただし、こっちに残れるってのも無条件ってわけじゃなくて、余計なカネ使わせるんだから大学受験は国公立専願、それに成績下がるようなら強制的に自宅送還って条件はついてる。でもこんなご時世で、高校時代から一人暮らしさせてくれるなんてすごく恵まれた話だから、親にはものすごく感謝してる。
話を聞きながら、私は黙って頷くことしかできなかった。何か言葉を出そうとすると、心の中に溜めていたものが全部、涙とともに溢れ出してしまいそうだったから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます