第40話 ありがと。もう大丈夫だよ

 そんなことをやっているうちに、勉強会もお開きの時間になった。


 荷物をまとめてから母屋で宏樹くんのお母さんに挨拶をして、みんなで菅野家を出る。


 夕方とはいえ残暑の強い西日が照りつける中、うんざり顔でどうにか最寄りのバス停までたどり着いたところで、宏樹くんが言った。


「来年もまた、こうして集まれるといいな」


「うん、そうだね」


 そう、来年も、こうしてみんなで。


 そう頷いて岩崎くんの表情をそっと伺うと、困ったような、それでもできればそうあって欲しいとでもいうような、複雑な面持ちだった。宏樹くんと目配せをして、それ以上はやめようとアイコンタクトを交わす。


 ところで、時間になってもバスが来ない。


 予想の範囲内ではあるのだけれど、どれだけ遅れるのか見当もつかないので、宏樹くんには先に家に戻ってもらうことにした。宏樹くんは「別に気にすんな」って言ってたけど、こんなとこで体調を崩されちゃったら、申し訳ないことこの上ない。


 でも宏樹くん、去り際に「わかってるよ」って言いたげなニヤけ顔は余計だから!


 少しでも早く岩崎くんと二人きりになりたかったからじゃなくて、本当に宏樹くんの体調を心配してるんだからね?




 ようやくバスが姿を見せたのは、それから十分ほど経ってからのことだった。


 冷房の効いたバスにほっとしながら乗り込んだ私たちは、二人掛けの席に並んで座る。先に降りる私が通路側、岩崎くんが窓側。


 勉強会の疲れからか会話らしい会話もなく、二人とも膝の上に乗せた大きめのバッグに両腕を預けて、グッタリと目を閉じている。いや、ひょっとしたら私と同じように岩崎くんも、さっきの「来年もまた」のことを考えているのかもしれない。


 来年の今頃、私は、私たちは、いったいどこで、なにをしているのだろう? そしてその次の年は?


 来年のことすらわからないのに、大学受験が終わってどうなっているかなんて、想像することすら難しい。


 そんなことを考えているうちに、バスは道なりに左側に大きくカーブしたみたいで、岩崎くんの重みと体温が、私の肩にかかってくる。さっきから不確定の未来を怖がっている私にとっては、いま触れ合っている身体の感触、それだけが確かなものに思える。


 カーブはすぐに終わり、彼が体を戻しながら言うであろう「ごめんごめん」という言葉を待っていたんだけれど、様子がちょっと変だ。薄く瞼を開けて顔をそっと左に向けてみると、なんと岩崎くんは私の肩に体を預けたままで──要するに、完全に寝入ってしまっていた。


 私の目の間近に、岩崎くんの顔がある。


 柔らかそうな髪の毛、形の良い耳、血色の良い唇。睫毛の一本一本までくっきりと見え、呼吸の音までがはっきりと聞こえるような至近距離。


 もし岩崎くんが起きているなら、触れ合った身体越しに私の鼓動が伝わってしまうんじゃないかと思うくらいに、心臓が早く、強く脈動している。


 どうしよう。


 私が先にバスを降りるんだから、降りる前に彼の体を戻して、肩のあたりを突っついて目を覚ましてもらって、そして「またね」って挨拶をして……というのが正しいよね。そうすべきだよね。でも。


 寝ているのをいいことに、ズルしてごめんなさい。


 心のなかで岩崎くんと由希に謝ってから、軽く目を閉じ、私も自分の体重を岩崎くんに預けた。


 私は乗り過ごして戻ることになっちゃうけど、彼が降りるときに「古川さん、寝過ごしてる!」って起こしてもらって、一緒に降りよう。それまでしばらくの間、こうして……。


 身体的に触れ合うことが不安を癒してくれることを、私はこの時初めて知った。それはあくまで刹那の癒しであって、抱えている問題はなにも解決されはしないのだけれど。




 結局のところ他力本願はうまくいかず、寄り添ったまま眠り込んでしまった私たちは、終点の福島駅で目を覚ますこととなった(正確には、車内アナウンスでも起きなかった私たちは、運転手さんに起こされる羽目になった)。


 恥ずかしいやらみっともないやら、おまけに駅前にはクラスメイトらしき人影までいたような気がする。


「なんか、ごめん」


 とりあえずバス停から離れてから、照れ隠しなのかバツの悪そうに視線を外して、岩崎くんが私に謝る。


「私も、その……。ごめんなさい」


 恥ずかしくて、岩崎くんの顔をまともに見れない。


「先に降りるはずの私が、寝ちゃったらダメだよね。降りる時に起こしてあげられれば良かったのに」


 とにかく寄り添って眠ってしまっていたことについては、お互い触れないように会話を続ける。なんというか、そのまま封印すべき悪しき記憶とでもいうような感じ。


 態度も少しよそよそしくて、二人の間の物理的な距離も、いつもより気持ち遠いような気がする。


 それでも、と私は願う。このささやかな出来事が人生のなかでも良い思い出として、今日の私の姿とともに、ずっと彼の記憶に残りますように。


「ところで古川さんさ」


 そんな私の気持ちが伝わったのか、打って変わったような優しげな声で、彼が切り出す。


「昨日の途中から、時々元気なかったみたいで少し心配してたんだけど。とりあえずは元気になったみたいで、安心したよ」


 岩崎くんは由希だけじゃなくて、私のこともちゃんと見てくれていた。


 強い鼓動とともに、周囲の風景が急に鮮やかになったような気がする。自然に湧き上がってくる温かい気持ちそのままに、満面の笑みで私は答える。


「ありがと。もう大丈夫だよ」

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