第36話 でも懐かしいね、この雰囲気

 五十嵐さんの準備が終わるのを待って、まずは午前中の数学の反省会が開催された。


正解ならば問題なし、間違っていればどうしてこうなったのか、問題を解くための着眼点を素早く見つけるにはどうすればいいのか、などとわいわい話しながら進める形式。


 お互いが教える役を代わりながら進めていったんだけど(もちろん解説が間違っていると容赦のない叱咤・訂正を浴びる)、さすがに我が校の学年トップを争う五十嵐さんの解説は、わかりやすさ、鋭さともに別格だった。


 でも俺は、ポロシャツとハーフパンツからすらりと伸びる、色白でほっそりとした彼女の腕や脚、時折ポロシャツと髪の隙間から覗くうなじ、そして胸元が気になって、勉強に集中するどころじゃなかった。


 あまりの興奮に、心音が外まで響いていないか心配になる。そういえば彼女とこんなに近くで長い時間を過ごすのは、中学の卒業式以来か……。




 あの日は朝から雪がパラついて、底冷えのする一日だった。


 体育館で寒さに震えながらの卒業式を済ませたあとは、校門を出た辺りで仲の良い友人ごとに人が三々五々集まって、中学生生活の最後の名残を惜しんでいた。


 雪がうっすらと積もり始めて、世界がだんだんと白く染まっていく中、俺は五十嵐さんになんとか声をかけられないか、思わしげに彼女の方に足を向けてみては戻ってきたり、微妙な距離を保ってうろうろしたりと、落ち着きなくそわそわしていて……。


 当時の俺を冷静に眺めている奴がいたら、いい加減にしろと呆れられるような有様だったに違いない。


 結局のところ、受験は終わっていたから同じ高校に進学することはわかっていたし、高校に入学してからでも告白はできる……とその場から逃げ出してしまうような形となり、彼女はそのまま友人たちと一緒に帰っていった(その中に、古川さんもいたような気がする)。


 音もなく静かに降り続ける雪の中、彼女たちの話し声と背中が遠ざかっていく風景は今でも鮮明に記憶に残っていて、俺の後悔と分かちがたく結びついている──。




「冷たっ!」


 あの日の寒さを思い起こさせるような冷気を頬に感じて、俺は我に返った。


「岩崎くん、誰のために勉強会やってると思ってるの?」


 氷入りの麦茶のグラスを俺の頬に押し付けた古川さんが、ふてくされたような顔で俺を責める。


「ごめん。ちょっと頭溶けてて、少しぼーっとしてた。なんか飲みたいな」


「その麦茶飲んだら、気分転換に英語やるからな。安心しろ、和気藹々と進めるから」


 それ、本当なんだろうな……? と疑心暗鬼気味の俺の耳に


「でも懐かしいね、この雰囲気」


 という、柔らかい声が響いた。 


「打ち合わせが終わった、放課後の生徒会室みたい」


「あ、由希もそう思う? そう、あのころはいつもこんな感じだったね」


 五十嵐さんの言葉を受けて、懐かしそうな顔をする古川さん。


「もちろん、宏樹くんはいないんだけど」


「悪かったな、どうせおれは信東中組じゃねえよ。それにしても……」


 そう言って俺たちの顔を見比べてから、さも単純な疑問であるかのように宏樹がこぼす。


「お前らの中学時代って、こんな感じだったのか? ま、想像できるような気もするけど」


「こんな感じの勉強はしなかったけどな」


 せめてもの反抗とばかりに、俺は声色に思いっきり嫌味を込める。


「だってあの頃は、岩崎くん成績良かったもの。むしろ私が教えてもらってるくらいだったのに」


 やめてくれよ……。


 古川さん、お姉さんだけじゃなくて俺にも容赦なさすぎだろ。


 弱り切った俺がふと視線を感じて顔を上げると、五十嵐さんがふんわりとした笑みを浮かべて、俺と古川さんのやり取りを眺めていた。


「でも、本当に懐かしい。またこんな場面を見られるなんて」


 そう言って五十嵐さんは俺たちから視線をはずして、少し黙り込んだ。


「あの頃に戻れたらいいのにって、思うこともあるから」


 労わるような、微妙な面持ちで宏樹が五十嵐さんを眺めている。従兄妹同士で、何か話でもあるんだろうか。



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