第30話 あのころは毎日楽しかったな……

  今日のオケの練習も、なんとか無事に終わった。


 定演、つまり年に一回の対外発表会でもある定期演奏会まであと一週間を切ったこともあって、練習も気合の入りかたが違う。今日は午前中から頭を使いっぱなしだったし、もうさっさと家に帰って、早く横になりなりたい気分。


 夏の最高気温が全国ニュースで取り上げられることもあるこの街だけど、さすがに日没間際になると、少し涼しくなる。じっとりとまとわりつくような湿気は変わらないものの、帰宅途中に少しだけ快適な場所があることを、私は知っている。


 文知摺橋の坂道を上がった、橋の中間。

 日が沈み、東側から深く濃い藍色に変わりつつある空の下、阿武隈川の水音、河川敷にいるであろう虫たちの鳴き声、そしてほんの少しだけど、柔らかにそよぐ風の音。帰る方向が一緒の由希と自転車を止めて、しばしの休みを取る。それがこの季節のお約束だ。


「今日はなにかいいことあったの?」


 母校の信東中のある辺りを一緒にぼんやり眺めていた由希が、唐突に口を開いた。タイミングと内容に動揺してしまった私は、危うく自転車を倒してしまうところだった。


「ううん、別に」


「練習に顔を出した時から、すごく機嫌良さそうだったよ?」


「そんなことないってば」


 隠れ家だと思っていた市立図書館で岩崎くんと鉢合わせるとか、そんなこと想像できるわけないでしょ。声かけるのだって、ものすごく勇気がいったんだから。


「ホントに?」


 私の顔を覗き込むように、珍しく由希が追求してくる。あちこちから冷や汗がにじんできて、せっかくの涼しさが台無しだ。


「岩崎くんのことでしょ」


「え?」


 なんでもお見通しだぞ、とでもいう調子の由希。

 さすがに「デートしたもん」とは言えないし、「そんなんじゃないってば」と軽くごまかす。


 そういうことにしといてあげるとでも言わんばかりに「そう?」と軽く応じてから、由希は視線を信東中の方に戻した。


「岩崎くん、本当に今年の秋でお別れなのかな。高校に来てからはあまり話せてないけど、寂しくなるね」


 背中を思いきり叩かれたかのような衝撃を感じて、思わず私は由希の顔を見た。


 そのこと、気にかけてたんだ。


 由希が自分から岩崎くんを話題にすることなんて、高校に上がってからはほとんどなかったはずなのに。だから本当に意外、としか言いようがなくって。


「同じクラスなんだし、なにか聞いてないの?」


「まだなにも。でも、よく覚えてたね」


「そりゃ中三のとき、八ヶ月も席が隣だったんだから。そういう話は何回も聞いた」


「そっか」


 やっぱり由希がその気になったら、私なんか鎧袖一触。きっとライバルにもならないな、と思う。


「それにしてもさ、渡部もズルするなら、もっとうまくやればいいのにね。岩崎くんに刺激与えて勉強させようって魂胆だったんだろうけど、露骨すぎだよ」


 彼らの当時の担任を小馬鹿にするような私の口調を咎め立てすることもなく、由希は少しだけ表情を崩して、それとなく賛成の意を示す。


「さすがにあれだけ続くとね……」


 ──当時は生徒会や吹奏楽部の用事で由希のクラスを訪ねて行くと、休み時間にもかかわらず岩崎くんもたいていは席についたままだった。


 私と由希が話し込んでいる間にも、長いこと席が隣同士の二人の間には、緩いけれど、確かな絆のような空気が感じられて、私にはそれが羨ましくてたまらなかった。

 あのころのことを思い出してしまうと、岩崎くんと由希がこれまでに積み重ねた時間、そして岩崎くんの本当の気持ちを、つい考えてしまう。


 でも由希、あなた高二のクラス替えの翌日、喜んでる私に「頑張ってね。応援する」って言ってくれたじゃない。だから私もここまで頑張って来れたのに、いまさらそんな、ズルいよ。


 物想いに沈みそうになる私を引き戻したのは、由希の言葉だった。


「あのころは毎日楽しかったな……。なにも心配なんかなくて、いつも明日が楽しみだった」


 うっすらと星が瞬き始めた東の空を見ながら呟く、黒髪から覗くその横顔に、私は茫然とする。そこには年齢に似つかわしくない諦念が、翳りを落としているように見えた。


 それって一体……?


 でも、それがどんな意味なのか確認しようと私が口を開く前に、由希はいつも通りの穏やかな表情に戻ってしまった。


「そろそろ帰ろっか」


「うん……」


 このときの由希の言葉の背後にある事情を知るのは、もっとずっと後になってからだった。


 家に帰って夕食とお風呂を終えた私は、部屋の窓を全開(当然、網戸だ)にして、ベッドで横になる。

 午前中からの岩崎くんとのデートもどきと、帰る途中の由希との会話が印象に残っているせいか、どうしても彼のことを考えてしまう。


 夏休み中に彼と顔をあわせる機会は毎週水曜の掃除だけだから、なにもなければ夏休み中にあと四回だけ、ということになる。確かに私たちはただのクラスメイトに過ぎないけど、いくらなんでもこれじゃ寂しすぎる。


 わらじまつりや、信東中そばの河川敷が会場になる花火大会といった、夏ならではの大きなイベントを口実にするのはどうかなとも思ったけれど、彼を誘うもっともらしい理由が思いつかない。


「転校前に地元イベントを体験しておこうよ!」というのが無難なんだろうけど、「転校」という言葉を出すのは藪蛇にしかならなさそうな気がして、即お蔵入りにした。


 そもそも他に一緒に誘えるような友達のあてもないからって、岩崎くんと二人きりで参加しようというのは、ハードルが高すぎる。そうかと言って宏樹くんを誘うにも家が遠いし、あんなことを聞いたばかりの由希を誘うのは、別の意味で勇気がいる。


 でもこんなことを考えてなにもしない間にも、時間は容赦なく流れていってしまうに違いない。


 ──救いの神が現れたのは、そんな焦燥感ばかりが先に立って、なにも名案が出ないままベッドの上で寝返りを繰り返しているときだった。


『盆休み中にでも、岩崎囲んで勉強会やろうぜ』


 スマホに着信した宏樹くんからのメッセージを見て、私が小躍りしたのは言うまでもない。

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