第29話 東京に空がないという

 楽しい食事も終わり、俺たちは店を出た。


 盆地特有の完全無風状態の街並みに、梅雨明けの真夏の日差しが容赦なく照りつける。これじゃいくら快適な店内で気力体力を回復したところで、ほとんど意味がない。回復したはずの元気が、あっという間に溶け落ちていく。


「古川さんはこれからオケの練習?」


「そう」


 俺と同様に暑さにやられてしまったのか、お店での元気さはどこへやら。古川さんもすでにゲンナリとしている。


「由希も一緒だよ。羨ましいでしょ?」


 そりゃ羨ましいといえば羨ましいけど、暑さにやられて思考力が鈍ってる俺は生返事しか返せない。


「ああ、うん、よろしく言っといて」


 どうにか図書館の駐輪場までたどり着いた俺たちは、よろよろと自転車を持ち出した。目的地は違うけれども途中まで同じルートだから、古川さんとはもう少しだけ一緒だ。


 そんなことを考えている間に、赤信号につかまった。

 信号待ちのひととき、俺は学校の方角に目をやる。そこには樹々の生命力に溢れかえる信夫山と雲ひとつない空の青さが、凶暴なまでのコントラストを作っていた。


「すげえ空」


「え、空?」


「ほら、信夫山の緑と、空の青の境界線。切り取り線みたいにはっきり見える」


 切り取り線という表現が気に入ったのか、感心したような口ぶりで古川さんが言う。


「独創的だねー。詩人になれるよ」


 いや、こんな実用的な表現じゃ詩人は無理だろ、と内心で苦笑いしていると、


「『東京に空がないという』」


 という呟きが聞こえて、彼女の方に顔を向ける。さすがにこれは、俺でも知ってる。高村光太郎の智恵子抄だ。


「東京には、こんな空はなかった?」


「古川さんだって、東京の空くらい見たことあるだろ、中学の修学旅行で行ったじゃん」


「あのとき、ものすごく天気悪かったじゃない。せっかく富士山をこの目で見られるって、楽しみにしてたのに」


 あれ、そうだったっけ?

 焦る俺を、古川さんがジト目で睨む。さっき青に変わったはずの信号は、また赤になっていた。


「それでどうなの? 東京の空」


「どうだろ。あっちにいたときは、そういう目で空を見たことはなかったからなあ……」


 そう言って俺は、向こうでの暮らしを思い出そうとする。そもそも空と山の境界線が見えるような場所なんかほとんどなくて、記憶に残っている風景も空と建物の境界線ばかりのような気がする。


「ここまで抜けるような真っ青な空ってのには、ほとんどお目にかかったことがない、かな」


「福島もいいでしょ?」


「まあな」


 そして、信号はまた青に変わった。俺たちは顔を見合わせて頷き、今度こそちゃんと渡ろうと自転車のペダルに脚を乗せる。

 古川さんは日光の眩しさに顔をしかめながら、それでも控えめに、にっこりと笑う。


「じゃあ、私ここ曲がるから。今日はありがと」


 そして言いにくそうに、視線を左右に彷徨わせながら付け加えた。


「次があったらだけど……。今度はファミレスかファーストフードにしない?」


 店を出てからはずっと暑さでしかめっ面だった俺だけど、これには思わず吹き出した。そうか、古川さんもそれなりに居心地悪かったんだ。


「そうしようぜ。やっぱり俺たち高校生には、まだ早いよな。いろいろと」


 だよね! と表情を明るく一変させた彼女は、手を振りながら去って行った。


「定演、忘れないで来てね!」


 小さくなっていく古川さんの背中を眺めながら、ようやく俺は今日の出来事を再認識した。


 ひょっとして、これが俺にとって人生初めてのデート……だったのかな。別に付き合ってる相手ってわけじゃないんだけどさ。

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