第六章  オリンピック

 二〇二四年五月二十五日。


 前回の東京オリンピックでも競技会場となった東京国際フォーラムB7ホールで、七笑はじっと目を閉じて立っていた。


 ホール後方、ウエイトリフティング競技にしては異例とも言える二百人を超える観客の背後には、バーベルを模した形状のスクリーンボードがかかっており、プロジェクションマッピングで大きな文字が投影されている。


《2024年度 第38回 全日本女子ウエイトリフティング選手権大会(兼・パリ五輪代表選考会)》


 七笑がいるのは会場の片隅、ウエイティングエリアと呼ばれる待機場所である。

 と、両耳に大きな歓声と拍手が聞こえてきた。


「おおーっ!」

「ナイス!」

「オッケー!」


 それだけで、前の選手の結果がわかった。

 拍手が続く中「降ろしてよし」という合図のブザーが鳴り、一〇二キロものバーベルを落とすドーンという音が、会場全体に響き渡る。


《成功です》


 落ち着いたアナウンスがあらためて結果を伝えたところで、ようやく七笑はまぶたを開いた。傍らに控えるセコンドは言わずもがな、帝都女子体育大教授、久保田昇だ。

 目が合った師匠が、微笑みながら頷いてくれる。


「大丈夫だ」

「はい!」


 大きく返事をした七笑は、自身の登壇を告げるコールとともに、頬をふくらませて深呼吸した。


《続いては、重量一〇四キロ。ゼッケン三番、鈴野七笑選手。タカモトゴム。三回目。本日のクリーン&ジャーク、最高挙上重量となります》

「よし! 行ってこい!」

「はいっ!」


 背中を力強く叩く、久保田の手。自身でも頬や太腿をバシバシと叩いた七笑は、滑り止めの炭酸マグネシウムを掌にまぶしてから、会場を盛り上げるBGMとともにプラットフォームが置かれた壇上へと駆け上がった。


 瞬間、わっ! というさっき以上の大歓声が沸き起こった。まるで沢山の声が実体を持った波となって、身体にぶつかってくる感じがする。


「お願いします!」


 深々とお辞儀をしてから顔を上げると、客席の前列付近に固まって座る人々から、次々と声援が飛んできた。


「七笑さん!」

「頑張って!」

「いけるよ!」


 タカモトゴムの人たちだ。土曜日にもかかわらず、多くの仲間がわざわざ応援に来てくれている。軽く顎を引いて応えた七笑は、客席の先にかかるスクリーンボードにあらためて目を向けた。


 オリンピック。

 あと数十秒後には、自分がそこに出場できるかどうかが決まる。


 前の選手とはスナッチ種目が八十キロで同重量、このクリーン&ジャーク種目は最後の試技である三回目を先に実施した彼女が、一〇二キロに成功して二キロリードしている。七笑が全日本チャンピオンとなってオリンピックへの切符を手にするには、やはりラストの試技となるここでそれ以上、つまり目の前に置かれている一〇四キロのバーベルを挙上しなければならない。一〇四キロ。自己ベストを一キロ上回る数字だ。


 絶対、上げる!


 もう一度、七笑は目を閉じた。

 脳裏に今までの競技人生が、走馬灯のように流れていく。高校時代、体操をしていた体育館でいきなりスカウトされたこと。同級生たちと過ごした懐かしいプレハブ。そこで出会った久保田が誘ってくれた、帝都女子体大。連盟の強化指定選手になって、はじめてNASCに足を踏み入れたときのドキドキ。


 すべては、このときのために。一分にも満たないこの瞬間のために。自分はウエイトリフティングに、青春のほとんどを捧げてきた。何年もの間、オリンピックを目標にしてきた。

 そう考えた瞬間、不意におかしな気持ちが湧き起こった。


 あたし、やっぱり変な女の子なのかな。


 何年もバーベルだけに向き合って。スカートなんて絶対に履けないどころか、ウエストでサイズを合わせると、パンツの太腿やお尻が入らないような身体になって。


 なんだかなあ。


 すると自分を呼ぶ声が、ふたたび耳に飛び込んできた。


「七笑!」


 あわてて目を開ける。


 あ、ワニちゃん! なでしこは開催国枠で出場が決まってるし、ワニちゃんなら順当に代表入りするよね。やっぱり二人でオリンピック、出てみたいな。


「七笑ちゃん!」


 わあ、如月先生も来てくれてたんだ! そう言えば、オリンピック協会のメディカルスタッフになられたんですよね。「めんどくさいけど、七笑ちゃんも出るだろうから引き受けてみたの」なんて言ってくれて。


「鈴野さん!」


 ああ、高本社長! そちらに座ってらしたんですね。あたしを社員にしてくださって、本当にありがとうございます。太腿のロゴマーク、ちゃんと目立ってますか? これからも、動く広告塔として頑張ります!


 こうして沢山の人に支えられて。沢山の人と繋がって。人生で一度きりかもしれないチャンスをもらえて。


 うん、変でもいいや。あたし、すごく幸せだ。


 可愛らしい格好も、綺麗なお化粧も、素敵な恋も、みんなしたことないけど。バーベルが恋人みたいなものだけど。でも――。


 素敵な恋、という言葉と同時になぜか、忙しいのか最近はめっきり連絡を寄越さなくなったフリーライターの顔がはっきりと思い浮かんだ。だが客席のどこにも、昭和スタイルの腕をまくったジャケット姿は見当たらない。


 薄情だなあ、もう。どうせ「ジャージで出歩くような女」としか思ってないんでしょ。


 気がつけば七笑は、本当に笑みを浮かべたまま、バーベルに向かってしゃがみ込んでいた。


 ――でも、それがあたしだもん。いいですよーだ。オリンピアンになれたら、上から目線で取材に答えてやるんだから。


 内心でぼやきつつ、さり気なく頬をふくらませた刹那。


 あ。


 いつだったか、そんな自分を「魅力的な女性」と言ってくれた友人のことを思い出した。嬉しい言葉をかけてくれた姿が、声が、脳裏に甦る。

 彼女もまた客席にいるかのように、ショートカットが似合う美しいシルエット姿をよく見ようとするかのように、七笑は自身の前髪をそっと横に流した。


 忘れてないよ。

 あたしはいつだって、あなたを忘れない。ずっとずっと、覚えてるよ。ずっとずっと、待ってるよ。ここにいられるのは、あなたのお陰でもあるんだから。


 聡明でチャーミングな友人の、《ありがとうございます、七笑さん》という声が聞こえたような気がした、そのとき。


《七笑さん!》

「え?」


 バーベルを握った七笑は、大きく目を見開いた。


「七笑!」

「は?」 


 こちらに向けられた大型タブレットと、ハンディスピーカー。

 出入り口の扉から駆け込んできた、


 ちょ、ちょっと! 何いきなり、名前で呼んでるんですか!? 恥ずかしいじゃないですか! ていうか、あなたも人前に出ていいの!?


 に頭の中でつっこみながらも、七笑の顔は大きくほころんでいた。バーベルの重さなんて、もうまるで感じない。このまま遥か高く、天井まで跳び上がれそうな気がしてくる。


 しっかり見ててよね、二人とも!


《七笑さん! みんなでオリンピックに参加しましょう!》


 涼やかな声に導かれた両脚が、プラットフォームを力強く蹴った。

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