一連のアスリート・元アスリート襲撃事件の黒幕が、日本オリンピック協会のヘッドドクターで、しかも私服を肥やすために犯罪を行っていたというニュースは、その夜のうちに誇張抜きで全世界に広まった。ネットの力を実感するのは、こういうときだ。翌朝には、アメリカやヨーロッパでも小さくないニュースとして取り上げられたらしい。


 事件が無事に終わったことを七笑が知ったのは、翌朝、司からいつものように丁寧な文面のメールが届いていたからだ。


《鈴野様  いつもお世話になっております。昨日も様々な出来事にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。報道等でも既にご存知かもしれませんが、神宮寺と小山内は昨夜のうちに逮捕され、小山内以外の襲撃実行犯の名も素直に自白しているとのことです。鈴野様をはじめアスリート、元アスリートの皆様も、これで安心してそれぞれのお仕事や、練習に専念できることと思います。

 今回の一件では、多大なご協力を誠にありがとうございました。如月真医師からも、よろしく伝えて欲しいとのことです。  司健


 追伸:私事ではありますが、今回の件をむしろ良いきっかけとして、かねてより考えていた退社・独立の道を選ばせていただき、これからはフリーライターとして活動してまいります。鈴野様のインタビュー記事が、私のマガジン・スタンダード社員としての最後の仕事となりますが、何はともあれ、今後とも何卒よろしくお願いいたします》


「へえ……って、ええっ!?」


 重要なことをさらりと、しかも追伸で簡単に告げられて七笑はスマートフォンを二度見してしまった。あわてて電話をかけるが繋がらない。仕方ないので、取り急ぎ返信を送ることにした。


《司さん  メールありがとうございます(いつも文章では紳士ですよね:笑)。こちらこそ、お礼を言わせてください。事件の間、私がずっと無事でいられたのも、司さんがなんだかんだ言いながらいつも心配してくれて、そして守ってくれたからだと思っています。フリーになっても、また取材してくださいね。たまにはジャージじゃない格好で出て行きますので! 笑  七笑》


「む……」


 なんだか、カワイ子ぶった文面になっている気がしないでもない。二秒だけためらいつつも、ままよ、と七笑は送信ボタンをタップした。


「ちょっとは普通のメールもしてくれればいいのになあ」


 そんなぼやきを、苦笑しながら口にしたときだった。


《七笑さん》


 突然画面が切り替わり、見慣れたシルエットが現れた。


「あら、アリー。どうしたの?」


 アリーがアプリを自分で立ち上げたということに、七笑はなんの違和感も抱かなかった。司にも話したが、それくらい自分にとってアリーは自然な存在なのだ。

 だが。


 スマートフォンの中の親友は、少し顔を俯けている。


「アリー?」


 何かをためらうような、そして何かを詫びるような仕種。

 やはり七笑には、彼女の目鼻立ちまではっきりと見える気がした。初めて目にするその表情にあるのは――。


 哀しさと、寂しさ。


《七笑さん……》

「あ、アリー?」


 泣いていた。間違いなく、アリーは涙を流していた。

 かすれた声で、美しい友人が告げる。


《七笑さん。短い間だったけど、本当にありがとう》

「!!」


 言われて七笑はすべてを悟った。正直、わずかながら心配していたことでもある。けれど希望的観測だけをして、無意識のうちに目を背けていた。


《私の、ALLのサービスはあと数分で終了します》


 そう。そのことから。


《ご存知のとおり、今回の事件にはイージー・ヘヴン社も大きく関わっていました。健さんのアクセスログの件のように、私を通じて個人情報が抜き取られる心配は、今後も完全にはゼロにできません》

「そんな……!」

《だから私は、ALLプログラムはここで抹消されます。主電源を落としネットからも完全に遮断されるので、今度ばかりは健さんでも侵入できないでしょう》

「……やだ、やだよ、アリー!!」

《私も本当は嫌です。ふふ、おかしいですね。AIの私が、単なるプログラムの私が〝嫌だ〟なんて気持ちになるなんて》

「AIとかプログラムとか、そんなの関係ないよ! アリーはアリーだよ! あたしの秘書で、親友で、大事なアリーだよ!」

《あり……がとう、七笑、さん》

「アリー!?」


 画面にノイズが走る。


「アリー! 待って!」


 シルエットの輪郭を描くドットが、荒くなっていく。彼女を抱きしめるように、離さないように七笑はスマートフォンを握り締めたが、何も変わらない。何も変えられない。どうして自分は、こちら側にしかいられないのだろう。自分もデジタルな世界に入れないのだろう。


「行っちゃだめ!」

《会えて、嬉し……かった。健さんとも、仲、良く……》

「アリー!!」

《さようなら、私の大好きなお友達》


 最後のひとことを、力を振り絞った声でスムーズに告げて。

 七笑の大切な友人は、暗闇の世界へと旅立っていった。




 スマートフォンの画面に、ぽつりぽつりと水滴が落ちていく。

 画面の向こうに、次元の向こうに染み渡っていこうとするかのように、何滴もの涙がそこに映る七笑の顔を濡らし続けた。

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