「司さん、あっち! 非常階段があります!」


 警備員だか追手だかが、どれほどの早さで来るかはわからないが、とりあえずエレベーターは避けることを七笑は提案した。


「わかった!」


 司も即答し、揃ってそちらへと駆けていく。が。


「す、鈴野、さん」

「ええ!? ちょっと! 司さん!」


 エレベーターホールを走り抜け、緑色の非常ランプが灯るガラス扉の前に着いた時点で、司の身体は早くも、七笑から身体一つ以上遅れ始めていた。


「真面目に走ってください!」

「こ、これでも、一所懸命、だ」

「だらしないなあ、もう!」

「俺は、ただの、雑誌記者、なんだ。君と、一緒に……はあ、はあ」

「何言ってんですか! さっき連続で、スタンガンぶちかましてたくせに!」

「あ、あれは、つい、カッと、なって」


 ソファを蹴り飛ばしたりスタンガンを使うのはともかく、本当に体力はないらしい。


「ほら、行きますよ!」

「うわっ! ちょ、ちょっと待て! あぶな――!」


 何も考えないまま、七笑は彼の手をぎゅっと握って非常階段を駆け下り始めた




 三分ほど後。


「お、鬼……」

「なんか言いました?」

「いや……なん、でもない……」


 無事駐車場まで逃げおおせたものの、十五階ぶんの高さを駆け下りた司は、膝に手をついてゼーゼーと荒い息をしている。このぶんでは、自分がまた運転した方がいいかもしれない。


「司さん、煙草とか吸わないですよね?」

「ああ。酒も、煙草も、やらないぞ」


 そこだけ、偉そうに言われてもなあ。


 たしかに好印象ではあるが、ということはつまり単なる運動不足ということだ。

「たまには身体、動かした方がいいですよ。なんならトレーニング教えましょうか?」

「つ、謹んで、遠慮しておく」


 今度は神妙な調子で返されたので、七笑は思わず吹き出してしまった。


 この人、意外に尻に敷かれちゃうタイプかも。


「ほら、車のキー貸してください。しばらくの間は、また私が運転します」

「いや、大丈夫だ」


 なんとか呼吸を整えた司は、すぐに真面目な顔に戻って続けた。


「それよりも、どこか安全な場所に移動しよう」

「そうですね」


 同意したのはいいが、適当な場所が七笑には思い浮かばなかった。映画に出てくるスパイでもあるまいし、都合のいいセーフハウスなどあるわけもない。


「NASC? いや、それは余計に危険か。だからって、ワニちゃんを巻き込むわけにもいかないし――」


 ぶつぶつとひとりごちていると、さっさと運転席に乗り込んだ司が、助手席のドアを大きく開けてくれた。


「乗るんだ。とりあえず、俺のマンションでいいだろう」

「え? あの……」

「安心してくれ。来客用のロビーがあるんだ。オートロックつきだし、管理人もいる」


 何を安心させたいのかはよくわからなかったが、七笑の「あ、はい。ありがとうございます!」という返事とともに、ミニクーパーは発進した。




 以前にちらっと聞かされていたが、司が住んでいるというマンションはたしかに巣鴨の、それも駅前という好立地にあった。


「へえ」

「なんだ?」

「いえ、綺麗なところに住んでるんだなって」

「意外だったか?」

「はい」

「…………」


 思わず素直に答えてしまったが、そこはたしかに小奇麗な物件だった。植栽に囲まれたエントランスの上で、大きな窓ガラスや同じくガラス張りのバルコニー壁に囲まれた広そうな部屋が左右対称に向かい合っている。三階建てで高さが抑えられているのも、逆に上品な感じだ。マンションというよりは、「アパルトマン」と呼ばれる外国のお洒落な集合住宅のような印象である。


「ここ、かなり新しい建物ですよね?」

「ああ。俺の部屋も、最初の入居者らしい」

「へえ」


 築十五年だとかいう、自分のマンションとはえらい違いである。家賃も高いのではないだろうか。


「いい暮らし、してるんですね」

「いや、家賃だってそれほどでもないぞ。巣鴨ってところは、どうも高齢者の街っていうイメージが定着してるみたいで、意外に人気が出ないんだと不動産屋も言っていた」

「そっか、刺抜き地蔵とか有名ですもんね」


 頷きながら七笑は、今のマンションの契約が終わったら自分もこのあたりに住んでみようかしらん、などと考えていた。


 司さんなら、なんだかんだ言いながら引越しとかも手伝ってくれそうだし。


 さり気なくほくそ笑んでいると、あっさりと見抜かれた。


「まさか、自分もこの辺に越してこようとか考えてるんじゃないだろうな? 言っておくが、俺は力仕事は苦手だからな。引越しの手伝いなんてしないぞ」

「えーっ!? なんでですか! 薄情者!」

「やっぱり、そんなことを企んでたのか」


 呆れた顔をされているうちに、ミニクーパーはエントランス横の駐車場へ静かに停車した。


「よし、行こう。入ってすぐのロビーに、ソファーやテーブルが置いてある」

「はい!」


 元気に助手席を降りて、七笑も彼のあとをついていく。綺麗なマンションに入れることが単純に嬉しい。

 エントランスをくぐった直後、管理人室らしき窓口から太い声が聞こえてきた。


「あら、司ちゃん。おはよ」

「おはようございます」

「あれ? めずらしいわね?」

「何がです?」

「司ちゃんが、誰かをここに連れてくるなんて。初めてじゃない?」

「ああ、そうかもしれませんね」

「彼女さん? 可愛い子ね。こんにちは。ようこそ、レインボー・アパルトマンへ」


 どうして司には「おはよう」で、自分には「こんにちは」なのだろう。というか、今はもう午後である。ここの住人だけ、芸能人ばりの挨拶をするしきたりでもあるのだろうか。ついでに言うと、レインボーは英語でアパルトマンはフランス語じゃなかったか。


 いろいろと首を傾げつつも、「いえ、彼女とかじゃなくて――」と、お約束の弁明を口にして窓口を覗き込んだ七笑は目を見開いた。


「!?」


 窓口の向こうに座っているのは、ファッションモデルのような美女だった。ウェーブのかかった茶髪と、マスカラばっちりのひと昔前の少女漫画のような目。きわどい切れ込みの入ったワンピースからは、豊かな谷間が覗いている。


 だが、さらに驚かされたのは、司が口にした彼女の名前だった。

「彼女は山川やまかわ慎平しんぺいさん。ここの管理人だ」

「山川……シンペイ? え? えええっ!?」 

「やだ、司ちゃんったら。本名ばらさないでよね。いつもみたいに、ヒトミって呼んでちょうだい」


 にっこり笑った山川慎平なる美女は、固まっている七笑にウインクなど寄越してくる。


「あたし、生物学的には♂だけど、それは世を忍ぶ仮の姿だからあんまり気にしないでね」


 いや、いろいろと気になるところだらけなんですが。


「ど、どうも」と答えになっていない答えを返しながら、ゴージャスなルックスの管理人に、七笑もかろうじて会釈を返しておいた。というか、それ以外のリアクションが出てこない。


「ちょっとロビーで打ち合わせさせてください。もちろん、うるさくはしませんので」

「全然オッケーよ。でもいいの? 彼女さんなら、ベッドの上でお話してあげたほうが――」

「はいはい」


 さすがに司は、この風変わりな管理人の応対に慣れているようだ。ヒトミこと山川の言葉をさらりとスルーし、「そこのソファにかけてくれ」と、耳まで赤くなっている七笑の方を振り返る。


「何か飲むか? といっても、自販機のものだが」


 ロビーの片隅にあるそれを司は示してくれたが、「いえ、結構です」と七笑はあわてて両手を振った。

「じゃあ、失礼します」


 合皮のようだがこれまた綺麗な白いソファに腰掛けたところで、ようやく気持ちが落ち着いてきた。


「な、なんか、いろいろと凄いマンションなんですね」

「ああいうキャラクターだが、ヒトミさんは管理人としてとてもしっかりしているんだ。マンションのオーナーも彼女自身だしな」

「え? そうなんですか?」

「ああ。見てのとおりの人だから、若い頃は新宿でかなり大きなゲイバーを経営していたそうだ。で、そこを売り払ってこのマンションを買ったと言っていた。ちょっと早い、セミリタイアみたいなものなんだろう」

「へえ」


 若い頃って、じゃあ今は一体いくつなんだろう? 


 素朴な疑問はさすがに飲み込んで、七笑はあらためてロビー全体を見回した。司が語るとおり、ヒトミの手入れや掃除が行き届いているらしく床や窓ガラスはぴかぴかで、観葉植物も元気な様子だ。


「水商売をやっていただけあって、他人の気持ちを読み取るのが上手いし、何よりも人が快適に過ごせる空間ていうのを熟知しているんだろうな。少なくとも俺は入居以来、ここで不快な思いをしたことがないよ」

「なるほど」


 如月医師もそうだったが、この人の周りはそんな人物ばかりのような気がする。そもそも司自身も鋭い洞察力を持っているのを、知り合って以来、七笑も嫌というほど目にしてきた。


「なんか、司さんらしい住まいですね」

「?」


 きょとんとした顔が少年のようだったので、つい笑ってしまったが、すぐに七笑は肝心なことを思い出した。


 そうだ。それこそいろいろと、訊かなくちゃ。


「あの、一体どういうことですか?」

「何、簡単なことだ」


 我ながらアバウトな問いかけだとは思ったが、司もまたすぐに意図を汲み取ってくれた。こういう部分が本当に鋭い。それとも自分との距離感が、すっかり近くなったということだろうか。


 七笑が面映いような気持ちになっていると、司はバッグから例のノートパソコンを取り出した。


「こいつで、フリーズを解除したんだ」


 あっさり言いながら、「ほら」と素早く本体を立ち上げて何かのアプリを開いてみせる。


「あっ!」


 向けられたディスプレイには、見慣れた姿があった。


《こんにちは、健さん。ひょっとしたら、七笑さんもご一緒ですか?》


 そこにはショートカットの美人秘書が、いつものシルエットでたたずんでいた。

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