「あんたのやってるのは、ビジネスなんかじゃない! それにタカモトゴムは、あたしのスポンサーなんかじゃないわ。あたしの会社よ。あそこの人たちは、高本社長たちはそういう人たちじゃない。ちゃんと私を正当に、フェアに評価して応援してくれた。だからこそビジネスにもなる、あたしを社員にしたいって言ってくれたのよ!」


 拳を握り締めて、七笑は一気にまくしたてた。高本社長の穏やかな笑顔が、脳裏に浮かぶ。はにかみながら彼が語った言葉が、耳に蘇る。


 ――大切なものを馬鹿にされたら、それを守れるような人間になろうって――。 


 あたしも同じだ。あたしもウエイトリフターだ。スポーツに生きる人間だ。


 だから、許せない。

 フェアじゃないことが。卑怯なやり方が。

 何よりも、自分の大切な人たちを傷つけ、馬鹿にされることが。


「人を怪我させるのがビジネス? 女性や高齢者を突き飛ばすのが専門家の技能? ふざけるんじゃないわよ! その時点で、あんたは権威でもなんでもない、ただの犯罪者じゃない! あんたたちなんかにスポーツに、人間にかかわる資格なんてない!」


 だが、JOAヘッドドクターは顔色一つ変えない。


「ふむ。元気があってよろしい。そして初心うぶだ。いまどきめずらしいな。まあ、だがそれもいいか。純情だった田舎娘が、都会の男とともにドーピングを知って堕落していく、というストーリーにはぴったり――」


 そのとき。

 ドスン! と、重く激しい音が部屋中に響き渡った。




 最初、七笑は何が起こったのかわからなかった。いつの間にか、すぐそばにあった高級ソファーが、役員デスクの前で引っくり返っている。


 口とともにぽかんと開いたままの目の端で、司が右足を地面に下ろすのが見えた。ということは、つまり……。


 ……そっか。司さんでも、マジ切れすることあるんだ。


 一瞬遅れて事態を理解するとともに、なぜか冷静な感想を抱いてしまった。


「黙れよ、ゲスが」


 低い声とともに、「マジ切れ」してソファーを蹴り飛ばした司がデスクに向かって歩き出す。その横顔からは七笑も初めて見る、鉄板すら射抜きそうな眼光が発せられている。


「い、井上!」


 ソファーが飛んできたことよりも、頭脳で勝負するタイプにしか見えない彼が、よもやの実力行使に出たことで焦りを感じたのだろう。さすがに神宮寺も、あわてた表情で秘書の名を呼んだ。


「はっ!」


 指示に従い、出入り口の前にいた井上がすかさず司の背後に駆け寄る。身長は司と同じくらいだが、スーツを着た胸板のあたりが二まわりほども分厚い。ひょっとしたら、ボディガードとしての訓練も受けているのかもしれない。


「司さん!」


 我に返った七笑は、とっさに下半身に力を溜めた。三角蹴りこそできる環境ではないが、井上の後頭部に飛び蹴りを食らわせるくらいなら可能なはずだ。ともかく、司を守らなければ。


 だが。


 いざ七笑が跳び上がろうとした瞬間、さっきとは別の、何かが連続で弾けるような音が聞こえた。


「ぐっ!」


 こちらに向いている井上の背中から、うめき声が漏れる。


「なっ!?」

「え!?」


 目を見開く神宮寺と七笑、そしていつの間にか身体ごと振り向いていた司の眼前で、なんと井上は突然に、両脚を押さえて崩れ落ちた。尻餅をつく格好になり、しかも下半身の自由が利かない様子だ。


「な……何、を……」


 心なしか、呂律も怪しくなっている。


「暴力は良くないな。正当防衛ってやつだ」


 冷静な口調とともに、司が軽く右手を掲げる。そこには電気カミソリ大の、だが明らかに形状が違う真っ黒な道具が握られていた。


「そ、それって、スタンガンってやつですか?」


 ピンときた七笑は、おそるおそる訊いてみた。


「ああ。デジタル機器じゃないが、こういう機械メーカーとも繋がりがあってね。護身用に一つ、強力なタイプを融通してもらってるんだ。まさか、本当に使う日がくるとは思わなかったが。ちなみにスタンガンを使っても、漫画みたいに気絶することはほとんどない。こうして痛みと痺れで身体の自由を奪うのが、主な使い方だ」


 相手が七笑だからか、司の声には少しだけ温かみが戻っている。そのままにやりと笑った彼は、なぜかジャケットの内ポケットに顔を寄せて喋り続けた。


「あー、ちなみに今、神宮寺教授の秘書だか付き人だかの、ヤクザまがいの男が襲ってきたので、ちょっと身を守らせてもらいました。以上」

「司さん?」

「ここまでの一連の会話が、証拠となるでしょう。JOAヘッドドクターにして医科学委員長の神宮寺徹郎教授は、ヒトの膝に新たに発見されていた五本目の靭帯、ALLこと前外側靭帯の存在を認識しながらも、それをネタにした執筆や監修業務で私腹を肥やす目的で、現在に至るまで一切を公表してこなかったのです。彼と手を組んでいるのはマガジン・スタンダード社出版部長、小山内公平。しかも神宮寺と小山内、そしておそらく何名かの手下たちはALLのさらなるデータを集めるために、アスリートや元アスリートを襲って強引にデータを取るようなことまでしていました。もうおわかりかもしれませんが、連続発生している例の襲撃事件がそうです。神宮寺や小山内の行為はスポーツマンシップにもとるどころか、立派な犯罪であることは言うまでもありません」

「ええっと、司さん?」


 ぽかんとして名前を繰り返すしかない七笑の呼びかけに、司がもう一度顔を上げる。得意げな笑みがさらに深くなっているが、目の光だけは依然として鋭いままだ。「マジ切れ」した状態からじつは元に戻っていないことが七笑には、はっきりとわかった。


「こんなもんでいいだろう」


 つぶやいてふたたび七笑に背を向けた司に対し、神宮寺は何かを悟った様子で愕然としている。


「まさか、貴様……」 

「そのとおり。ここまでの会話を、きっちり録音させてもらった。あんたらが薄汚い悪党だってことを、全世界にさらしてやるから覚悟するんだな」


 いつもの手帳型ケースが、スタンガンと入れ替わるように内ポケットから滑り出る。数メートル離れていても、彼のスマートフォンに映っているものを、七笑ははっきりと認識できた。


 見慣れたショートカットの、美しいシルエットを。


「この録音データを、君にリンクしているすべての人々に今すぐ公開して欲しい。SNSとの連動もできたよな? よろしく頼むよ、アリー」

《はい! かしこまりました、健さん!》


 久しぶりに聞いたような気がする彼女の声は、間違いなく弾んでいた。




「や、やめろ! そんなことをして、ただで済むと思っているのか!」


 最初の余裕はどこへやら、血相を変えた神宮寺が立ち上がり、司に向かってあたふたと両腕を伸ばす。だが司は、デスク越しに向かってきたそれを、スマートフォンを持っていない方の手で乱暴に払いのけた。


「うるせえっ!!」

「……え」


 韻を踏んだみたいな声を出してしまったのは、七笑である。今のは本当に、司の声だったのだろうか。小ばかにされることはよくあるが、彼がそんな乱暴な言葉遣いをしたことがにわかには信じられなかった。


 けれども、間違いなく司が発した怒声だった。押さえきれないほどの、普段の彼でなくなってしまうほどの激しい感情とともに、ほとばしった叫びだった。続けられた台詞からも、それは明らかだ。


「この期に及んで、逃げられると思うな! いいか、おっさん。てめーは絶対に許さねえ。俺のことはまだしも、ドーピングに手を染めただの、快楽におぼれるマイナーアスリートだの、初心で純情な田舎娘だの、好き勝手抜かしやがって。言っていいことと悪いことがあるだろうが!」

「そこ!?」


 思わず七笑自身がつっこんでしまったが、いずれにせよ司は本気で怒っている。それもどうやら、七笑のためにさっきからずっと「マジ切れ」してくれているらしい。


 で、でも「初心で純情」っていうところは、別にキレなくてもいいような気が……。


 七笑が内心で自問自答する間に、再度伸ばされた神宮寺の右腕を司が鷲づかみした。逆の手には、どうやって素早く持ち替えたものか、スマートフォンではなくさっきのスタンガンがある。


「ひいっ!」


 気づいた神宮寺が情けない悲鳴を上げるが、なかば私怨も込めた司の行動に対してはなんの意味も成さない。


「ウエイトリフター、なめんな!」


 ……いや、司さんは別にウエイトリフターじゃないですよね。


 心のなかでつっこんでしまった七笑と、口をパクパクさせるしかない井上の目の前で、日本オリンピック協会医科学委員長は「ギャッ!」という動物のような声を漏らし、デスクに突っ伏した。


「逮捕される前に、存分に反省するんだな」


 スタンガンを懐に収め、くるりと身体の向きを変えた司はなぜかドヤ顔になっている。そのまま、まだ動けない井上を悠々とまたいで七笑の隣に戻ってきた。


「悪いな、ちょっと見苦しいところを見せてしまった」

「…………」


 感謝するべきか、それともあらためて何点かつっこんでおくべきか、七笑がリアクションに困っていると、司は「どうした? 大丈夫か?」と身体を屈めて顔を覗き込んできた。


「あ」


 目が合ったことで、七笑は遅ればせながら気がついた。彼の目から、さっきまでの凄まじい眼光が綺麗さっぱり消えている。神宮寺にもスタンガンをお見舞いしたことで、溜飲が下がったようだ。頼んだわけではないが、そうさせてしまった理由が自分にもあるらしいことは理解しているので、七笑は「大丈夫です」と答えてから付け加えた。


「それと、ありがとうございます。一応」

「なんでお礼を?」

「いや、だってあたしのために――」


 ごまかしているのか本気なのか、怪訝な顔をされてしまい逆に戸惑いかけた七笑の耳に、今度はビーッというブザー音が飛び込んできた。


「な、何!?」


 はっとして首をめぐらせた七笑は、机に突っ伏した神宮寺の左手が弱々しいながらも、デスクの向こう側に回っているのを見た。直後に思い出す。あそこはたしか、コンビニエンスストアのカウンターなどで、防犯ブザーのスイッチがある位置だ。


「鈴野さん!」

「司さん!」


 同時に名前を呼び合った二人は、目配せだけを交わして役員室を飛び出した。

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