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先ほど司が教えてくれたところによれば、JOA=日本オリンピック協会は昨年、この十五階建ての新築ビルにオフィスを移転したばかりとのことだった。空いている駐車場の一角にミニクーパーを停めた七笑は、運転席から降りてあらためて周囲を見渡した。
広々とした駐車場だけでなく、五輪マークを始めとするモニュメントやオブジェが置かれた芝生の前庭、そしてミラーガラスが輝く外壁と、目に入るものすべてが真新しい。JOAは税金も投入される公益財団法人だが、どこぞの営利企業、それも上場して莫大な利益を上げる会社みたいに見えてしまうのは、物騒な事件に巻き込まれているからだろうか。
「とりあえず、無事に辿り着けたか。このまま、こちらのペースで乗り込んでしまおう」
助手席から、司も降りてきた。
「パソコンとかは大丈夫でしたか?」
「ああ、問題ない。やっておきたいことも間に合ったし。もっとも、どこまで効果があるかは保証できないが」
車中で熱心に取り組んでいた「やっておきたいこと」が、どんな内容なのか正直なところ気になったが、いずれにせよ司のことだから何か役に立つ手を打ってくれたのだろう。
「別の追手や監視役も、今のところ来ない感じだな」
「そうですね。じゃあ、行きましょう」
しっかりと頷いた七笑は、ミニクーパーのキーを彼に返して並んで歩き出した。
受付で名前を告げた二人は、意外にもすんなりと最上階へ通された。
「鈴野様と司様ですね。承っております。十五階、エレベーターを降りて右手奥の『役員室A』へどうぞ。担当の者がお待ちしております」
東京オリンピックのロゴ入りスカーフを巻いた、いかにも「受付嬢」という女性の案内を受けてエレベーターホールへと向かう。エレベーターホールの手前には、各フロアにどんな部署が入っているかを示す金属製のプレートが壁にかかっており、こういうところもますます営利企業っぽい。ちなみにプレートの十五階部分には、《役員専用》とだけ素っ気無く記してあった。
「凄いな。社員食堂まであるのか。いや、社員じゃなくて職員と言うべきかな」
エレベーターを待ちながら、司も感心した様子でつぶやいた。
「マガジン・スタンダードさんには、社食はないんですか?」
ひそかにそういうものに憧れている七笑の質問には、「残念ながら」と苦笑が返ってきた。
「うちも何年か前にオフィスを引っ越したんだが、むしろコンパクトになったぐらいだ。もちろん社食もないし、休憩室なんかも狭くなった。それでも、このご時勢に出版業界で生き延びてるだけでも、ありがたいと思わなきゃいけないけどな」
「そっか。本とか雑誌って、売れなくなってるんですよね」
「ああ。特にうちのメイン商品だった、雑誌が厳しい。社長や役員はそれを見越して、ウェブ媒体や専門書の出版にも手を広げてきたそうだ。結果として正解だったし、先見の明があったんだろう」
「へえ」
たしか司は、そのウェブの記事でも賞をもらっていたことを七笑は思い出した。一方で、同じく会社を救った専門書の出版は、今回の事件にも大いにかかわってしまっている。世の中、ままならないものだ。
「そう考えると、君は本当にいい会社に採用してもらえたな。余程のことがない限り、タカモトゴムは潰れないはずだぞ」
「そうですか?」
「そりゃそうだ。高齢化が進んでいるとはいえ極端な話、コンドームは健康な男性が地球上にいる限りは、ほぼ需要が途切れることはない。妊娠のコントロールというだけでなく、性病の予防という側面もあるからな。いつか選手を引退しても、コンドームの専門家として立派にやっていけるはずだ」
「……なんか、微妙にセクハラを受けてるような気もするんですが」
清潔で落ち着いたビルの中にいるからか、緊張感の乏しい会話を交わしつつ、二人は下りてきたエレベーターに乗り込んだ。たまたまなのか神宮寺が仕向けた結果なのかはわからないが、自分たちしかいない箱は音もなく上昇し、あっという間に天井付近の液晶に表示された数字が増えていく。
数字が15になったところで、七笑は顔を引き締めた。さすがにこの期に及んで、のほほんとしているわけにはいかない。もちろん、隣の司も同じ表情だ。
「鈴野さん」
「はい」
「くれぐれも、気をつけてくれ」
「はい! 司さんも!」
見つめ合った二人は扉が開くと同時に左右を確認して、素早く廊下へ進み出た。毛足の長い絨毯が敷き詰められており、まさにザ・役員フロアという感じがする。
受付嬢に教えられたとおり長い廊下を右手に向かうと、突き当たりに重そうな木の扉があった。目線の高さには、《役員室A》と彫られた金色のプレート。
七笑はもう一度、司とアイコンタクトを交わした。
この向こうに敵がいる。何人ものアスリートや元アスリート、そして自分の大切な人たちを襲い、しかもそれによって私腹を肥やそうとしている黒幕が。
絶対に、許さない。
唇を引き結んだ七笑が小さく頷くと、同じ仕草を返した司が慎重に扉をノックした。こもった音が鳴ったので、かなり分厚い扉であることがわかる。
「どうぞ」
思ったよりも若い声が中から答え、扉が内側に開く。
役員室Aは、二十畳はありそうな広々とした部屋だった。革張りのソファが向かい合う応接セットと高価そうなキャビネット、大型のテレビモニター、そしてこれまた立派なL字型のデスクが正面に鎮座している。
「よく来たね」
デスクの向こう側、ソファとお揃いらしい革張りのチェアに背中を預けた初老の男が、のんびりと声をかけてきた。同時に、七笑たちの脇に立つ背の高い男性に目配せが送られ、開いたばかりの扉が音もなく閉じる。先ほどのノックに対する返事は、こちらの男だったのだろう。
「安心したまえ。君たちを物理的に、どうこうしようというわけじゃない。おたがい外に聞かれていい話ではないだろう? あくまでも、そのためだ」
チェアの人物は、下品な笑いを浮かべた。デスクの上には《ヘッドドクター/医科学委員長 神宮寺
「どうですかね。ヤクザみたいなスモークガラスの車に、しつこく付きまとわれて大変だったんですが」
「はて、なんのことかな?」
ジャブ代わりの司の皮肉を、初老の男――神宮寺は白々しく受け流した。黒幕だけあって、面の皮も相当厚いようだ。
「何はともあれ、歓迎するよ。ええっと、そちらが女子ウエイトリフティングの
「鈴野です」
むっとした口調で七笑は訂正したが、こちらはわざとらしく無視された。ますます腹立たしい。
「そして君が、我々のことを嗅ぎ回っている司君か」
「嗅ぎ回られて、困ることでもあるんですか? こうして俺たちを無理矢理呼びつけたことが、何よりの証拠でしょうけど」
腹芸に付き合うつもりなどないとばかりに、司はさらに直接的な言葉を返す。しっかりと対決する姿勢を示してくれる彼の姿に、七笑は心強さが増した。
「ふむ」
指摘された神宮寺は、けれども落ち着いた様子でデスクに両肘を乗せ、組んだ手の上に顎を乗せて二人を交互に見つめてきた。来客に対して失礼この上ない態度だが、七笑も司も、今さらそんなことをつっこむ気にもなれない。
「で、司君。言いたいことはそれだけかね? まあいい、こっちも忙しい身だし率直に伝えよう。これ以上、私のALLについて調べるのはやめたまえ」
本当に率直な、しかも傲慢な言い方での要求だ。やはりこの男が、一連の事件の主犯格だったのだ。
「ああ、それとそちらの
「鈴野です!」
「失礼。なんにせよ、このナントカ君とつるむのも止めてもらおう。従わないと言うのなら、君の会社に直接伝えさせてもらう」
目尻にしわの刻まれた双眸が、狡猾そうにきらめいた。だが、司も負けずに睨み返す。七笑がちらりと見ると、彼の目にはあの強い光がすでに宿っていた。
「圧力ってわけですか」
「いやいや、単なるアドバイスだよ。不良社員の教育をしっかりしろというね。君のところからは私もいくつか本を出しているし、しかも売れ筋のようだ。版権の引き上げをちらつかせれば、電話一本で済むだろうよ」
芝居がかった動きで肩をすくめた神宮寺は、依然としてドアの前にたたずむ秘書らしき男性に声をかけた。
「
「はい」
「マガジン・スタンダード社の社長、あの太った男はなんと言ったかな」
「
「そうそう、そんな名前だったな。スポーツ医学のことなど、これっぽっちもわかっていない俗物だ。膝が痛む老人向けの実用書などという、くだらないものを書かされたんだが、なぜか本自体は当たったみたいでね。まあ、私の文章が良かったからだろう」
後半は司に向かって語りかけながら、神宮寺は功を誇るように嫌らしい笑いを浮かべている。
そういう態度こそ、よっぽど俗物じゃない。
言葉が喉まで出かかったが、七笑はとりあえず黙って司に任せておくことにした。
「言うことをきかなければ、ついでに送られてきたメッセージのとおりにもするってわけか。わかりやすいウイルスまでつけてくれて、ご苦労なことだ」
鋭い視線のまま、司が神宮寺に問い質す。早くも丁寧な口調が消えているが、そうする必要のない相手だとあらためて判断したのだろう。七笑も心から賛成だった。
だが神宮寺は、痛くも痒くもない表情で鷹揚に頷くだけである。
「うむ。きちんと読み取ってくれたようで何よりだ。だが、ちょっと違うな」
「何?」
「あのとおりにするのではない。なるんだよ。我々が直接、手を下すわけじゃない。ちょっとメディアに情報を流せば、あとはネットを通じて、君たちはフェアで神聖なスポーツの現場を汚す極悪人として勝手に断罪されることだろう。ついでに君の会社や、そちらの彼女のスポンサー企業の名前も一緒に出せば、どちらも電話が鳴り止まないだろうな」
やはり司の予想どおりだった。
神宮寺は、余裕綽々の表情で続ける。
「しかも彼女のスポンサーは、コンドーム会社だそうじゃないか。スポンサー企業の商品を使って不適切な関係に陥った挙句、ドーピングにまで手を染めて、快楽におぼれるマイナー競技の女子選手とスポーツライター。大衆が喜びそうな下世話なストーリーだ。はっはっは」
「あんたねえ! いい加減に――」
一歩踏み出しかけた七笑を、司の右手がさっと制した。
「そこまで汚ない手を使う目的は、ずっと隠してきたALL、すなわちヒトの膝に隠された五本目の靭帯の存在を、自分たちに都合のいいタイミングで公にして一儲けするためか。アスリートや元アスリートを襲わせてMRIを必ず撮らせたのも、被害者から膝のデータを集めるためだな」
「人聞きの悪いことを言わんでもらおう。データを集めるのは、研究の基本中の基本だ。しかも、それを元に作られる新たな教科書や教育カリキュラムによって、下々の医師やトレーナーに新たな知識を授けようというんだ。じつに崇高な行為じゃないか。むしろ感謝して欲しいな」
「だったらなぜ、すぐに発表しないんだ。膝の権威として知られるあんたが認めたとなれば、少なくとも日本のスポーツ医学界では、それだけで大きく広まるだろう」
「君ねえ」
やれやれといった顔をした神宮寺は、ふたたび芝居じみた仕草で手を広げ、首まで振ってみせる。
「私もね、ボランティアでやってるわけじゃないんだよ。専門家たるもの、それをビジネスにせにゃいかんだろう。なあ、井上?」
「は」
「専門家のしかるべき技能には、相応の対価を支払わねばならん。そんなもの、資本主義の原則だろう?」
違う、と七笑は直感的に思った。
正論の部分もたしかにある。けど。
この人たちはフェアじゃない。スポーツの世界に生きる人じゃない。いや、それ以前に人間としてのルールを犯している。だから――。
「違う!」
今度は本当に、司よりも前に歩み出ていた。
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