第五章 対決
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司を説得できたと思った七笑だったが、直後にさらなる、それも予想外の条件を提示された。なんでもないことのように彼が告げてきたのは、
「JOAに行くのはわかった。その代わり、車は君が運転してくれ」
という台詞だった。
「え?」
「免許は持っているだろう?」
「はあ。一応」
「場所はたしか、代々木だったな。ナビもあるし、一時間もかからずに行けるはずだ」
「でも、なんでですか?」
「移動の間に、できるだけの手を打っておきたいんだ。どこまでやれるかは、わからないが」
答えた司はすでに、後部座席に置いてあったバッグから、小型のノートパソコンを取り出していた。たしか七笑のインタビュー記事もこれで書いていたので、愛用の品なのだろう。
「わかりました。あの、ただしですね」
「どうした?」
「あたし、ほぼペーパーですよ?」
「…………」
そんなやり取りのあと、「倍以上時間がかかってもいいから、事故だけは起こさないでくれ」という、半分以上本気の懇願とともに座席を入れ替わり、七笑たちは代々木にあるJOAオフィスへと移動を開始した。途中で首都高速に入ったが、平日の日中ということもあり空いていて、七笑も落ち着いてからは運転を楽しむ余裕すら出てきたほどだ。
司はと言えば、助手席で一心不乱にパソコンに向かい合っている。先ほど「ネットにも繋がるんですか、それ?」と訊いてみたら、キーボードを叩く音とともに答えが返ってきた。
「LTE対応だから大丈夫だ。トンネルでも、長くなければ問題ない」
専門用語は不明だが、つまりは本体だけでネットにも繋げられる機種らしい。
異変を察知したのは、三十分ほど走ってからのことだった。
「……司さん。この車、ドラレコってついてます?」
ルームミラーに素早く目を走らせた七笑は、少々固い声で司に尋ねた。
「ああ、一応ついてるぞ。前と後ろ、両方撮影してる。最近は煽り運転による事故のニュースも――」
引き続きパソコンに向かったまま返事をした司だが、途中ですぐに顔を上げた。
「煽られてるのか?」
「煽られてるっていうか、ずーっと付いてきてるっていうか……」
緊張と困惑を滲ませて七笑が答えたとおり、いつの間にかミニクーパーのすぐ後ろを、黒いセダンがずっと追走しているのだった。しかも巧妙なことに、煽り運転というほどではないものの「ちょっと加速すれば、いつでもぶつけられるぞ」とこちらに感じさせるような、嫌らしい車間距離を保ち続けている。フロントガラスがスモークタイプなのも、明らかに怪しい。
「まさか」
二人の声が重なった。こんなことをしてくる相手や組織は、一つしか考えられない。神宮寺の一派は、もし七笑と司が出頭命令を無視しても後ろの車で追跡し、強制的にJOAオフィスへ連行するつもりなのだろう。
「でも、どうやってあたしたちの居場所を?」
なんとかセダンを引き離そうとアクセルを踏み込みつつ、七笑は素朴な疑問を口にした。如月クリニックを出たあと、そこまで露骨に個人情報が抜き取られてはいないと司は言っていたはずだ。
「……しまった。あれか」
一秒ほどの間を空けて、自分に言い聞かせるような司の声が聞こえた。
「多分、さっき送られてきたメッセージだ」
「え?」
「あのメッセージに、GPSを勝手に起動させて位置情報を抜き取るような、ウイルスが仕込まれていたんだろう」
「ええっ!」
前方が空いているとはいえ、七笑は思わずフロントガラスから目を離して、司の方を見てしまった。一瞬だけ目に入った彼は、自分のスマートフォンを取り出して何かを確認している。
「やっぱりな」
「位置情報、抜かれてたんですか?」
視線を前方に戻した七笑が声だけで確認すると、「ああ」とすぐに答えが返ってきた。
「俺は普段、ALLアプリも含めて地図アプリ以外は位置情報をオフにしてるんだ。もちろんアリーを疑ってるわけじゃなくて、単純にセキュリティレベルの好みの問題だし、俺のアリー自身にもそこは了解してもらっている。だが――」
「今は勝手に、ALLの位置情報がオンになってたんですか?」
「残念ながら、な。気がつかず悪かった」
アクセスログについて語ったときと同じトーンで、司は謝罪してきた。どちらも彼のせいではないが、元IT雑誌の記者としては、失態を重ねてしまったように感じるのかもしれない。
「司さんのせいじゃないですよ! 神宮寺たちが、卑怯で汚いだけです!」
運転に集中したまま、七笑は自分自身も一緒に励ますかのごとく強い口調で言った。ルームミラーに目をやると、スピードを上げたにもかかわらず黒いセダンの位置はまるで変わっていない。やはり明らかに、自分たちを尾けてプレッシャーをかけている。
「ありがとう。そうだな、だからこそなんとかしないといけない」
冷静さを取り戻した声とともに、司がふたたびパソコンに向き直る気配がした。キーボードを叩く音のテンポが上がり、ラストスパートという感じだ。
七笑が彼から信じられない指示を受けたのは、その直後、首都高速の出口が間もなくというあたりだった。
「鈴野さん」
「はい?」
「シートベルトはしているな」
「ええ、もちろん」
「よし、じゃあ頼む」
「は?」
「俺の作業もぎりぎり終わったし、下道に出てすぐの
「?」
勝手に納得して、司がスマートフォンやパソコンをてきぱきと片付ける気配がする。七笑に確認したのと同じく、自分のシートベルトも締め直しているようだ。
「あの、司さん?」
目だけで助手席を一瞬見た七笑に、司はますます落ち着いて告げた。
「とりあえず、後ろの車を撒こう」
「撒く?」
「少し先の信濃町駅前の交差点でナビは左折を指示するはずだが、すぐ手前にも左手に広い道がある。直進すると見せかけて、急にそこに入るんだ」
「は?」
なんでもないことのように言っているが、それはつまりアクション映画ばりのカーチェイスをしろということではないのか。
「あの、あたし、ペーパーだって言いましたよね?」
「大丈夫だ。小回りはこっちの方が利く」
いや、そういう問題ではないと思うんですが。
「直後にも連続して左折すれば、
「た、たしかにそうですけど、そんな簡単に――」
「大丈夫だ」
もう一度同じ言葉を口にした司は、続けて力強く言った。
「鈴野さんを信じている。だから君も信じてくれ」
視線を合わせなくても、彼の目があの強い光を発していることが七笑にはわかった。どうやら司は本気だ。本気で相手に一泡吹かせようとしている。そして、本気で七笑を信じてくれてもいる。
「司さん……」
彼に見つめられる顔が、頬が、なんだか熱い。
「君を信じる俺を、君と一緒にいる俺を、信じて欲しい」
そのひとことが、完全に七笑の心を動かした。こんな状況で、しかも無謀な要求をされているにもかかわらず、なぜだか笑顔が浮かんでくる。司と一緒に、やってやろうという気が湧き起こってくる。
瞬く間に盛り上がった気持ちのままに、七笑も答えていた。
「わかりました! やってみます!」
カーナビが機械的な音声で《左方向、出口です》と告げる。それとは正反対の温かい声で話すAIの友人を思い出しながら、七笑はハンドルをわずかに傾けた。
首都高速を降り、右折した直後から司の指示が飛んだ。
「よし、スピードを上げるんだ!」
「はい!」
言われたとおり、七笑はミニクーパーのアクセルをぐっと踏み込んだ。エンジンが吹き上がる音とともに、オートマチックギアの切り替わる感覚が伝わってくる。滑らかに、かつ素早く、ミニクーパーは一気に七十キロオーバーまで加速した。
「ここだ! 左!」
「は、はい!」
右手の中指でウィンカーのレバーを跳ね上げた直後、七笑はハンドルを一気に左へと切った。司の愛車はエンジンブレーキの利きも良く、ごくわずかに緩めたアクセルの動きにも、ちょうどいい減速具合で応えてくれる。
「もう一つ左!」
「了解!」
それでも律儀に停止線で急ブレーキをかけたあと、ミニクーパーはふたたび弾丸のように飛び出して、さらに直角にターンした。直後に複数のクラクションらしき音が後ろから聞こえてきたが、今の七笑はそれどころではない。冬枯れの並木に挟まれた見通しのいい道路を、前方の青信号に導かれるようにして飛ばしていく。途中の40と描かれた標識も、見えなかったことにしておいた。
「鈴野さん」
「…………」
「鈴野さん!」
「え?」
司に大きな声で繰り返され、七笑はようやく我に返った。
「よくやってくれた。もう大丈夫だ」
「あ、はい!」
その言葉で、あわててアクセルからブレーキへと右足を移し変える。さっきよりもさらに素早く減速したミニクーパーは、あっという間に四十キロ程度の常識的な速度に落ち着いた。ルームミラーに目をやると、たしかに自分たちの後方には一台の車もいなくなっている。
「狙いどおり周回道路への入り口で、曲がり切れなかったあの車が、対面の駐車場に突っこみそうになるのを目視した」
「本当ですか?」
「ああ。ついでに言えば、その駐車場は交番の駐車場だ」
「ええっ!?」
「大丈夫。セダンが突っ込んできたことで、俺たちのことなんて完全にどうでもよくなっているはずだ。しかも君は、きちんと停止線で止まってもくれたしな」
「はあ」
そこは八割方、ミニクーパーの性能のお陰だが。
七笑が複雑な顔をしたところで、周回路をひと回りして先ほど左折したあたりに戻ってきた。木立ちの陰になってはいるが、外の道へ抜ける左前方でたしかに車が詰まっており、カラーコーンを置いて誘導作業を始めている警察官らしき人の背中も見える。
「ていうか、司さん」
気を取り直した七笑は、わざとらしく頬をふくらませた。
「交番の前を通ること、わざと黙ってましたよね」
「言えば、君は気にしただろう?」
「それはまあ、そうですけど」
「スピードや決断力を、鈍らせるわけにはいかないからな」
まるで、試合中のセコンドまがいのコメントである。七笑の師匠である久保田はそこまでしないが、ウエイトリフターのセコンドの中には、相手のベスト記録を知っていても自分の選手を不安にさせないよう、あえて黙っておく人もいるのだとか。
すると司は、本当にそういうつもりだったことを白状した。
「久保田さんから聞いたんだ」
「何をです?」
「鈴野七笑っていう選手は、あまり余計な情報を与えず、のびのびとやらせた方がいいってね」
なるほど。そこは七笑自身も、認めるところではある。そもそもウエイトリフティングは対人競技ではないし、突き詰めれば己との戦いなのだ。相手がどうとか環境がどうとかではなく、目の前のバーベルを持ち上げられるかそうでないか。自分の全力を出し切れるか否か。ごくシンプルな自分自身との力比べだからこそ、面白いし楽しい。
それに、と思う。
あたしのこと、本当にちゃんと調べてくれてるんだ。
以前も「取材対象だから」と注釈をつけられたが、ウエイトリフターとしての自分に興味を持ってもらえるのはなんにせよ嬉しかった。
……うん。ウエイト選手として、だよね。
なぜか胸の内で繰り返してしまった自分に首を傾げつつ、七笑もまたそのときと同じ台詞を言ってやることにした。
「司さんって」
「なんだ?」
「やっぱり、あたしのストーカーだったんですか?」
「違う!」
むきになって否定する声に、七笑は思わず吹き出しそうになった。
「わかってますよ」
軽やかに答えて、修正したルートを告げるカーナビに従いハンドルを切る。
カーブの先に、大きなビルと五輪のモニュメントが見えてきた。
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