先に我を取り戻したのは、司だった。舌打ちとともに「しまった」とつぶやいて、七笑に神妙な顔を向けてくる。


「俺のせいだ。申し訳ない」

「え?」

「おそらく、君の方も同様の内容だろう」


 言いながら彼は、スマートフォンを七笑に向けて掲げ、自分宛のメッセージを見せてくれた。


「えっ!? これって!」

「ああ。取材中の懇意のアスリート、なんて君しかいない」

「一体どういうことですか? なんで急に、変な濡れ衣が?」

「濡れ衣?」

「あ、はい。あたし宛のは、こんなです」


 どこがどう「懇意」なのかとつっこむのも忘れて、七笑も自分のスマートフォンを司に向ける。


「ドーピング疑惑か……。くそっ、こういう手でくるとは」

「JOAからってことは、まさか神宮寺があたしたちの行動に気づいて?」

「ああ。少なくとも俺が事件の裏側に感づいたことは、早々に知られていたはずだ」

「でも、どうしてですか?」


 気味悪そうな顔をする七笑に、司は渋い表情のまま語った。


「おそらくはログ、簡単に言えば通信記録だ。ALLのことを調べるために、俺はアリーの助けも沢山借りている。神宮寺たちはそのことを、イージー・ヘヴン社のアクセスログから調べたんだろう。迂闊だった。本当にすまない」

「じゃ、じゃあ、やっぱりアリーも共犯ってことですか?」

「いや、そこは大丈夫だ。不幸中の幸いと言ってはなんだが、彼女は関与していないことが、逆にこれではっきりした」

「どういうことです?」


 ほっとした七笑だが、やはり理由が気になる。すると司はもう一度、自身のスマートフォンを掲げてみせた。


「本当に共犯関係なら、もっと露骨に俺たちのALLアプリから、個人情報が抜き取られているはずだ。例えば今日、俺と君が如月クリニックへ向かっているという位置情報などをリアルタイムで盗んで、直接乗り込んでくることだって可能だろうし、むしろそうやって実力行使に出た方が早い」

「あ、そうか」

「おそらくはアリーの意志、まあ意志というものがあればだが、いずれにせよ犯人たちは彼女のプロテクトを無視して、マスターサーバーから強制的に過去のログを盗み見ているんだろう」


 説明を聞いて、七笑は目を見開いた。


「じゃあ、むしろアリーも被害者じゃないですか!」

「ああ。AIという存在は、物理的には抵抗できないしな。どこまでも汚い奴らだ」


 司の声にも、怒りがこもっている。


「許せない!」 


 コンピュータに関することはよくわからないが、七笑の脳内に自分たちのアクセス記録を必死に守ろうとするアリーのシルエットと、それを無理矢理奪う悪党たちのイメージが浮かんだ。

 同時に彼女を助けられなかったこと、何より先ほど一瞬でも疑ってしまったことを、心から申し訳なく思う。


「ごめんね、アリー」


 口にして俯いた七笑だったが、すぐに「そうだ!」と顔を上げた。


「先にこっちが、リークすればいいんじゃないですか? ALLの存在を隠してることとか、洗いざらいマスコミに告発するんです!」 


 しかし、司は首を振るだけだった。


「いや、難しいだろうな。真が見せてくれたが、国内の論文検索サイトもイージー・ヘヴン社が管理していた。ということはすぐにALLに関する情報を解禁して、元からそんな制御はかけていないと白を切るはずだ。同時にアリーのマスターサーバーにある、俺と君のアクセスログを改ざんしてクラッキング、つまりハッキングや禁止薬物のネット購入といった履歴を大量に捏造するだろう」

「!! そんなことされたら!」

「そうだ。マイナースポーツ記者がオリンピックの有力候補選手をそそのかして、彼女はドーピングに手を染めました、なんていうくだらないゴシップのできあがりだ。あとは捏造記事を逆にリークすれば、俺たちごときは簡単に潰すことができる」

「ひどい……!」


 七笑は拳を握り締めた。悔しいと同時に、許せないという気持ちがますます強くなる。自分も司も、もちろんアリーも何も悪いことなどしていない。おたがいのやるべきこと、おたがいの仕事に一所懸命取り組んできただけだ。


 オリンピックを目指して、バーベルを上げること。努力する姿を記事として取り上げ、世の中に広めてくれること。そんな自分たちを、ネットの世界から常にサポートしてくれること。


 それなのに。本当に、ただそれだけなのに。


「どうして――」


 心がふたたび言葉になって、あふれ出す。


 どうして、こんなことをするのだろう。

 どうして、一所懸命やっているだけの人たちを陥れるようなことをするのだろう。 

 どうして、手に入れたいものに向けて正々堂々と努力しないのだろう。


 もちろん自分たちだって、聖人君子というわけじゃない。でも、少なくともスポーツの世界には、ルールを守りフェアに取り組もうという精神が根づいているはずだ。みんなどこかで、フェアな心を誇りに思っているはずだ。

 公正で、高潔で、誇り高い精神を。スポーツマンシップを。


「なのに、どうして!」


 キッと顔を上げると同時に、口が勝手に動いていた。


「行きましょう、司さん」

「え?」


 厳しい顔で対策を考えていた司が、何を言い出すんだ、という表情になる。

「行きましょう、JOAに」

「いや、しかし」

「行けばいいんですよね? JOAのオフィスに。神宮寺たちも、それを望んでいるんでしょう?」

「ちょっと待て。相手はこうして、俺たちが真相に気づいたことを知っているんだ。何をされるか、わかったもんじゃないんだぞ?」


 掌を向ける司に、だが七笑は「大丈夫です」ときっぱりと首を振った。

「少なくとも司さんは、あたしが守ります。いざとなったら七十五センチ跳んで、三角蹴りしますから」

「は?」

「なんにせよ、あたしはもう許せません! 正々堂々と練習して、正々堂々とスポーツに向かい合うあたしたちを、こんな卑怯な手で妨害するなんて。司さんが行かなくても、あたしは行きます!」

「おい、待て。冷静に――」

「司さん」


 あらためて、七笑は目の前の整った顔を覗き込んだ。

 彼が動揺した表情を見せたのは、七笑の声が意外にも落ち着いていたからか、それとも、輝く瞳に吸い込まれそうになったからか。


「あたしは、オリンピックを目指すアスリートです」

「あ、ああ」

「オリンピックは参加することに意義がある、っていう言葉、知っていますよね」

「?」


 真意を探ろうとする司の顔を瞳に映したまま、七笑はなぜか微笑んでいた。彼の頬が、軽く紅潮しているようにも見える。


「オリンピックは参加することに意義がある。あれの前にあるひとことって、知ってますか?」

「え? いや」


 この人でも知らないこと、あったんだ。


 七笑は、もう一度微笑んだ。

 今度は意識的に。七笑らしい、朗らかな魅力とともに。


「オリンピックの目的は人間をつくること、っていうひとことがあるんだそうです」


 そうして、力強い声で続けた。


「あたしはアスリートであると同時に、一人の人間です。可愛くもないし背も小さいけど、ジャージで出歩いちゃうし、バーベルを持ち上げるくらいしかできない女だけど、だからって卑怯なことは許せない。正々堂々と、胸を張って生きていたい。そんな当たり前の、一人の人間なんです」


 つぶらな瞳が、もう一度きらめく。


「司さんだって、そうでしょう?」


 いつもとは逆に、強い視線を向けられる側になった司は、「まいったな。君に説得されるとは」と苦笑してから大きく頷いてくれた。


「わかった。けど約束してくれ。身の危険を感じたら、俺を置いてでも君は真っ先に逃げるんだ」

「え、でも」

「でも、なんだ?」


 怪訝な顔になった司に、七笑は無邪気に告げた。


「司さんよりあたしの方が強いですよ、多分」

「そ、そういう問題じゃない! 俺は男で、君は女だろう」


 なぜか目を逸らしながらの反論に、七笑も唇をとがらせて抗議する。


「なんですか、それ? 一歩間違えばまたセクハラ発言じゃないですか。見た目だけじゃなくて、考え方まで昭和だったんですか」

「……もういい。なんにせよ、危なくなったらおたがいに逃げるんだ。いいな?」

「はい! 了解です!」


 よくわからない部分もあったが、彼が同意して、しかも心配してくれたことが嬉しい。 

 こんな状況にもかかわらず、七笑は元気な笑顔で返事をしていた。

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