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「これは、国内向けの医学論文データベースなんだけど」
細い指が検索窓に《ALL》の三文字を打ち込み、エンターキーが叩かれる。
「え?」
七笑は目を丸くした。
「もちろん、日本語でも一緒」
今度は《前外側靭帯》で検索。だが、結果は変わらなかった。
提示された文献数は――ゼロ。
「犯人たち、こんなことまでしてるみたいね」
「情報統制か。どおりで俺の調査でも、日本語の資料はさっぱり手に入らなかったわけだ」
司も、ここまでは知らなかったようだ。
「論文を発表するには査読、つまり審査を通る必要があるんだけど、査読段階でALLに関する論文は全部ハネてるんだと思う。お偉いさんの手にかかれば、その程度は朝飯前だろうし。で、一万人を越えるデータがめでたく手元に集まった瞬間、自分たちの手柄として大々的に発表するつもりなんでしょうね。もちろんあたしたちは海外の論文もじゃんじゃん読むけど、それでも効果は小さくないはずよ。まったく、せこい手だわ」
鼻の頭に可愛らしくしわを寄せながら、「にしても」と如月は続けた。
「こんなふざけた真似してるの、どこの一味かしら。名の知れたスポーツドクターが、確実に絡んでるはずだけど」
「あ!」
彼女の言葉で、七笑はある人名を思い出した。同時に、アイドルのような友人の顔が頭に浮かぶ。
あのとき亜美が言っていたのは、たしか――。
「神宮寺!」
「え?」
「誰だ?」
「スポーツドクターです! JOAのヘッドドクターでT大の神宮寺先生っていう人が、ワニちゃんの膝を診察したって言ってました!」
「それ、本当?」
如月が眼鏡の奥で、すっと目を細める。
「はい、間違いありません! ワニちゃん、女子サッカーの鰐淵選手が教われたとき、わざわざNASCに来てて、MRIを撮ってくれたって」
「なるほどね……。たしかにあのおっさんなら、執筆やら監修やらは順当に依頼されるでしょうね。セクハラだのパワハラだのの疑惑が絶えないけど、一応スポーツ医学界じゃ、膝の権威扱いされてるし」
如月は神宮寺のことを、さすがによく知っているようだ。司も腕を組んで渋い顔をしている。
「で、その神宮寺先生とやらが執筆する新しい教科書の出版が、恥ずかしながら我がマガジン・スタンダード社ってわけだな」
「でしょうね」
「そういうことだったんだ……」
呆然とする七笑に、司は鋭い視線を向けてきた。
「おそらく君を襲った小山内も、出版に伴ってなんらかのマージンを受け取ることになっているはずだ。だから自分から積極的に、サンプル収集に協力していたんだ。まあ実行犯は、彼だけじゃないかもしれないが」
おそらく、と慎重に語っているがまず間違いないだろう。
「俺が奴から頼まれた翻訳も欧米の、それも膝に関する論文ばかりだった。次に出す本の資料だとしか、聞かされていなかったが」
如月も補足する。
「最初にALLの存在に気づいたのは、フランスの整形外科医だしね。今から百四十年近く前の話だけど」
「くそっ。最初から気づいてれば、断ったんだが……」
間接的ながら犯行の片棒を担がされるところだった司は、忌々しげに唇を噛んだ。
「つまり神宮寺のおっさんたちは、健ちゃんに協力させて海外の文献資料を集めつつ、アスリートや元アスリートを襲って、みずからALLのサンプル収集もしてたってわけ。今は電子カルテが主流だし、あいつらの息がかかったドクターは沢山いるから、膝のMRI画像なんてオンラインで簡単に共有できるでしょうし」
カルテという如月の台詞に、七笑はふたたび目を丸くした。
「で、でもそれって思いっきり、個人情報ですよね?」
「悪党がそんなこと、気にすると思う?」
苦笑した如月は、呆れたように苦笑してみせる。
「ちなみにうちも電子カルテだけど、ちょっとマニアックな海外製のシステムだし、セキュリティには一番お金かけてるから安心して。まあそもそも、独立してやってる小さなクリニックだから外の医者とカルテのやり取りすることなんて、ほとんどないんだけど」
「そうですか」
それを聞いて、七笑もほっとした。もちろん如月のことは信用しているが、身体の中を無許可で覗かれる心配がないということをあらためて保証してもらえるのは、やはり心強い。
「じゃあ逆に、神宮寺たちが使っているのは国内産のシステムってことか?」
司の問いに、如月はパネル脇のラックから一冊のパンフレットを取り出した。
「ええ。大学病院とか大手の系列病院は、ほとんどそっちみたい。入れるつもりはないって断ってるのに、うちにもしつこく営業に来るのよ。これなんだけど」
「え!? ここって!」
「……そうか、電子システムならむしろ得意分野だったな」
「手広くやってる会社だしね。ひょっとしたら、ううん、十中八九、一枚噛んでるんじゃないかしら。さっきの論文検索サイトも、ここの子会社の運営だし」
驚く七笑と司の横で、如月が冷静に答える。
パンフレットの表紙には、こう記されていた。
《イージー・ヘヴン社 オンライン・カルテシステムのご案内》
如月に礼を言ってクリニックを辞したあと、ミニクーパーが発進するとすぐに、七笑はスマートフォンを取り出した。
「司さん」
「ああ。君の言いたいことは、わかる」
神妙な顔で頷いた司は、五分も走らないうちに近くのコンビニエンスストアで車を停めてくれた。
「どうする? 俺が訊いてもいいが」
「いえ、あたしがやります。毎日話をしてますから。それに彼女までグルだなんて、とても思えません。ううん、思いたくない」
自分のスマートフォンを、七笑はじっと見つめた。
中にいる彼女――アリーのことを想いながら。
二人が即座に思い出したのは、アリーもまたイージー・ヘヴン社の製品ということだった。しかも本来がスポーツ用であり、アスリート向けの専用IDまで用意されている。アリーがイージー・ヘブンのオンラインシステムを通じて、七笑たちアスリートユーザーの個人情報、特にALLアプリ使用者の情報を犯人グループに流しているかもしれない可能性は、残念ながら否定できないことだった。
クリニックに来る前、司は「アリーは関係ない」と言ってくれたが、思わぬところでそれが覆ってしまうかもしれない。
けど……。
七笑の脳裏に、ショートカットの美しいシルエットが浮かぶ。
いつも姿勢よくたたずみ、てきぱきと情報を教えてくれるアリー。ときにはいたずらっぽく小首を傾げたり、楽しげに頷いたりするチャーミングな秘書。顔こそ描かれていないが、七笑にとって彼女はいつだって「美人で頭がいい、素敵な友人」だった。ごく短期間にもかかわらず、それくらい自然で近しい存在になっていた。
「心を通わせていたんだな。変な言い方かもしれないが」
「! はい!」
司の台詞に、あらためて気づかされた。そうだ。自分とアリーは間違いなく心が、気持ちが通じ合っていた。友達だった。
「けど……」
想いが今度は、言葉になってこぼれ落ちる。彼女は、デジタルの世界にいる素敵な友人は、自分たちを裏切っていたのだろうか?
「たしかめてみるしかない。逆に言えば友達だからこそ、正直に問い質してあげた方がいいんじゃないか?」
「そうですよね。あたしがやらなきゃ。アリーのためにも」
自分に言い聞かせるように頷くと、めずらしく真っ直ぐな優しい笑みが返ってきた。
「大丈夫だ」
「え?」
「俺も信じている」
微笑の中で、あの強い眼光がきらめく。
「彼女はきっと、そんな人じゃない」
「はい!」
無意識にかもしれないが、司も自然にアリーのことを「人」と言ってくれたことが嬉しい。彼の言葉に押されるように、七笑はALL=All Life Lighthouseと記された、真っ赤なアイコンをタップした。
が。
「あれ?」
何度タップしても、アプリは立ち上がらなかった。
「どうした?」
「いえ、アリーが立ち上がらなくて」
答えながらスマートフォン自体を再起動させ、もう一度試してみる。しかし、やはりALLアプリはうんともすんとも反応しない。
「不具合か? じゃあとりあえず、俺の方で――」
ジャケットの内ポケットから自分のスマートフォンを出した司の顔も、すぐに怪訝なものになった。
「?」
「ひょっとして、司さんもですか?」
「ああ」
彼の手帳型ケースの中で、やはり赤いアプリはなんの反応も示していない。
「どういうことだ?」
「システムそのものの、トラブルですかね?」
揃って、眉間にしわを寄せたとき。
「おっと」
「きゃっ!」
二台のスマートフォンが同時に震えた。見るといずれも、ALLアプリのメッセージボックスが受信を告げている。
「これは……」
「えっ!? な、何よこれ!」
二人宛に表示されたメッセージは、それぞれ次のようなものだった。
《司健 殿 システムの不正利用ならびにクラッキング行為の疑いがあるため、イージー・ヘヴン社製アプリ、ALLのIDを凍結します。至急、JOAオフィスに出頭してください。尚、出頭しない場合は、取材中の懇意のアスリートがその責を負うこととなります。 JOA(日本オリンピック協会)》
《鈴野七笑 選手 禁止薬物使用によるドーピング規定違反の疑いがあるため、イージー・ヘヴン社製アプリ、ALLのIDを凍結します。至急、JOAオフィスに出頭してください。尚、出頭しない場合は、ウエイトリフティング連盟強化指定選手からの除外、および今後二年間の公式競技会への参加を禁じるとともに、これらの詳細をメディアに公表します。 JOA(日本オリンピック協会)》
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