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司の声で、七笑も「あっ!」と大きく手を叩いた。
「たしか、このあたりにあるんだろう?」
彼の手がモニターの一部分を指し示す。七笑の右膝の、外側にあたる部分だった。
「それです!」
違和感の正体を理解した七笑は、問いかけるように如月の方を振り向いた。
そうだ。あれは亜美のアリーだっただろうか。いつだったか、彼女はこう語っていたのだ。
《膝には、五本もの靭帯がありますし――》
と。
「ごめん、ごめん。今日はその話だったわね」
如月はむしろ嬉しそうな顔で、七笑を見つめ返してきた。
「じつは膝には、五本目の小さな靭帯があるらしいことが最近発見されたの。過去の解剖でも、90%以上の献体で確認されてるそうよ。七笑ちゃんの膝も……うん、やっぱりあるわね。おめでとう」
何が「おめでとう」なのかはよくわからないが、そうしてさらに拡大された画像には、たしかに膝の真横に、斜めに走るバンドのようなものがしっかりと映っている。
「Antero Lateral Ligament。通称ALL。日本語だと、そうね……
「えっ!? ALLって!」
七笑は驚いて、司に顔を向けた。MRIに入る前と同じく、こちらを安心させてくれる表情とともに彼が大きく頷く。
「ああ。俺が調べていたのはアリーのALLアプリじゃなくて、こっちの〝ALL〟についてだったんだ」
「そっか、最近アスリートさんの間で流行ってるアレも、ALLって名前なんだっけ。たしかに紛らわしいわね」
七笑たちの会話から察したのだろう、如月も苦笑しつつ、「それはさておき」とモニターを示しながら説明を続ける。
「膝って本来、縦方向にしか曲げ伸ばしできない関節でしょ? でもジャンプの着地とか方向転換のステップが乱れると、対応していない捻るような動きが無理矢理加わるから、大怪我に繋がっちゃうってわけ。よくあるのが、この
「なるほど」
前十字靭帯という名前は、七笑も聞いたことがあった。まさにそこを怪我したことがある後輩の選手がおり、たしか手術とリハビリで一年近くかかったと言っていた。
「だからALLって、じつは凄く大事な靭帯なんじゃないかって発見以来、注目されてるの」
「へえ」
「ただ――」
「?」
小首を傾げる七笑に、如月は欧米人のように大げさに肩をすくめてみせた。
「このALL、おおやけにはまだ確実な存在として扱われてないのよ。現場レベルではよく知られてるけど、トレーナーやドクターの教科書に記載するにはデータが少ないってことで」
「えっ!? そうなんですか?」
「うん。研究としては一万人レベルでデータを集めて、初めてスタンダードってことらしいわ」
「一万人って……」
「膨大な数よね。だからって、ほいほいMRIを撮るわけにもいかない。スポーツ医学の世界で新しい知見が定着するのに時間がかかるのは、そんな理由もあるの。そもそも怪我してないのに病院に来たがる人なんていないし、一般人よりは来院する可能性の高いアスリートにしたって練習や試合で忙しいしね。まあそれでも、国内のお偉い先生方は早くデータを集めたくて、躍起になってるみたいだけど」
「新しい知識を、できるだけ早く広めるためにですか?」
重ねて問うと如月は「七笑ちゃんは、素直でいい子ねえ」と、可愛がっている姪っ子を見るような顔をした。
反対隣から、司が重々しくつぶやく。
「金と名誉だ」
「え?」
「健ちゃんは、七笑ちゃんと違って世俗にまみれてるから、すぐに気づいたのよね」
「ほっとけ」
軽く顔をしかめてから、彼は詳しく説明してくれた。
「君が言ったような真っ当な目的ならいいが、おそらくはそうじゃない。この一件に関わっている医師や研究者は、自分たちが最初に一万人分のデータを集めて、〝世界で最初にALLの存在を認めた第一人者〟っていう箔をつけたいんだ」
いったん言葉を切った司は、七笑の目をじっと見つめてきた。切れ長の目に、例の強い光が宿っている。
「新たな靭帯の存在が世界標準になれば、教科書が改訂され、大学や専門学校でもカリキュラムやプログラムの変更が生じる。では、それらの仕事は誰がやると思う?」
「あ!」
「そういうことだ。専門家、つまり自分たちってわけさ」
「ちなみに教科書だの専門書だのの執筆料や監修料って、診察や治療してるのが馬鹿馬鹿しくなるくらいの金額らしいわ。結局そんな自作自演で、どこぞの教授だの権威だのの懐が潤うってわけ。ま、現場で患者さんに向き合ってるあたしらには、関係ない話だけど」
司とともに肩をすくめた如月だが、彼女の言葉にはまさに現場の医師としての、凛とした誇りが感じられた。
「真が言ったように、ALLの存在を標準とするにはまだまだデータが必要だ。そしてデータを取るためには、こうやってMRI検査をする必要がある。だが、簡単に検査はできない。じゃあ、どうするか」
「まさか……!」
司の目に触発されるように、七笑の頭の中でも光が瞬いた。様々なことが、パズルのピースのように組み合わさっていく。
ヒトの脚に新たに見つかった組織、ALL。
ALLのデータを、できるだけ早く集めたい医師や研究者のグループ。
データ収集のために必要な、膝の検査。
そして検査に最適な、脚の中身をチェックしてもおかしくない人間。
脚を使うアスリートや、元アスリート。
厳しい声で、司は断じた。
「ああ。一連の襲撃事件の狙いは、おそらくALLのデータ収集だ」
「だから、久保田先生やワニちゃんを?」
「それに君もな。ウエイトリフティングは脚で上げる競技なんだろう?」
「……ですね」
小山内と対峙した昨夜のことを、七笑はふたたび思い出した。司が「君も気をつけろ」と何度も言ってくれた理由は、これだったのだ。奴の狙いはアスリートの〝脚″で、膝の中に存在するであろうALL=前外側靭帯の確認作業こそが本当の目的であることと、ウエイトリフターもまた、脚を使うアスリートであることを踏まえて。
そのうえで司は、如月の下に七笑を連れてきてくれたのだろう。実際にALLを見せて、わかりやすくすべてを説明するために。
眼鏡のブリッジに手をやりながら、今度は如月が口を開いた。
「昨夜、健ちゃんから電話で推理を聞かされたときは、あたしも半信半疑だったけどね。でも報道されてるアスリート襲撃事件を見直して、すぐに納得したわ。いろんなことが符合しすぎてるもの」
司も続ける。
「被害者がいずれも脚を使う競技の選手や、元選手だというのは最初から少しだけ引っかかっていた。それが西選手の言葉で、確信に変わったんだ」
「あ、そうか!」
たしかに西は、自分も一緒だったのに犯人の狙いは最初から、恋人の須藤選手の方だったように感じると語っていた。
「西選手はライフル射撃。須藤選手はバドミントン。どちらが脚を使う競技かは、調べるまでもない」
「ついでに言えば、本当に大怪我させる必要はないってわけ。自分より身体の小さい相手をちょっと突き飛ばして、ちょっと小さな怪我させて、あとは適当な理由つけてMRIさえ撮れればいいわけだしね」
「そんな……だからって」
七笑は、拳をぎゅっと握り締めた。つい声が大きくなる。
「だからってそんなことのために、高齢者や女性を突き飛ばしていいわけありません! 大怪我しないで済んだのだって、たまたまじゃないですか!」
脳裏に、久保田や亜美の笑顔が浮かんだ。一歩間違えれば、あの人たちの笑顔が失われていた可能性だってあるのだ。心の底から、犯人への怒りが込み上げてくる。
「許せない! なんで、そんなひどいこと!」
「俺も同じ気持ちだ。なんとかしたい。だからこうして、真にも協力してもらったんだ。君には実際に、ALLを見てもらった方が早いだろうとも思ったしな」
「もちろん、あたしもよ。くだらない自己満足のために自分の手で患者をつくりだす医者なんて、絶対に許さないわ」
右肩に司、左肩に如月の手の温もりを感じた七笑は、「はい!」と大きく頷いた。この人たちと一緒に、必ず犯人を告発してやりたい。この人たちと一緒なら、できる気がしてくる。
「ていうか」と、とぼけた表情に戻った如月が、七笑の頭越しに同級生に笑いかけた。
「ほんと、こういうところは鋭いわよねえ。女心についてはからっきしなくせに」
「……それは関係ないだろう」
答えつつ司はなぜか、七笑から素早く手を離している。
「ほらね、七笑ちゃん?」
「?」
きょとんとしている七笑まで、なぜか笑われてしまった。
「ちなみに――」
口調をあらためた如月が、身体の向きを変えて操作パネルに触れる。するとモニターからMRI画像が消え、代わりにどこかの検索サイトと思しき画面が現れた。
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