ベッド脇にあるカラーボックスの上から、楽しげな声が聞こえてくる。


「え? ……あ!」


 七笑が目をやった先には、部屋を出る際に置いていった自分のスマートフォンがあった。そういえば、アリーを立ち上げたあとアプリを閉じていなかった気がする。


 明るい声でアリーは続けた。


《おめでとうございます、七笑さん》

「はい?」

《今、七笑さんの声で、初めて男性をお部屋に案内した、と聞こえました》

「!? ちょ……!」


 立ち上がった七笑は、あわててスマートフォンをひっつかんだ。スクリーン上でショートカットのシルエットが、うんうんと頷いている。


「お相手は、やはり司健さんだったのですね。無事、仲直りもされたようで良かったです。秘書の私としても、七笑さんにやっとそういう男性ができて、本当に嬉しく思います。司さん、初めまして。私、七笑さんのデジタル・セクレタリーを務めております――」

「違いますっ! 説明はあとでするから!」


 わめいた七笑は、ひとむかし前の感圧式スクリーンのような勢いで画面をタッチし、即座にALLアプリを閉じた。おそるおそる振り向くと、司の方は引き続きコーヒーをすすりながら、むしろ呆れた顔をしている。


「アリーと、すっかり仲良しのようだな」

「え、ええ、まあ」


 彼女の声は、聞こえていなかったのだろうか。だからと言って、こちらから確認するのもやぶ蛇のような気がする。

 どうしたものかとリアクションに困っていると、マグカップを置いた彼の口から、意外な単語が出てきた。


「マイクロSDは、そのスマホに入っているんだな?」

「え? あ、はい!」


 七笑が犯人を撃退したときに拾った、あれのことだ。


「差し支えなければもう一度、例のファイルを見せてくれないか?」

「わかりました」


 落ち着きを取り戻した七笑は席に戻り、手にしていたスマートフォンを操作してから司に差し出した。昨晩も見せた、彼から小山内なる人物へと送られたメール文がすぐに表示される。

 だが気持ちは、そのときとまったく違って落ち着いていた。

 司が敵ではないとわかったからだし、自分を見る彼の目に、あの鋭い光が宿り始めたからだ。


「これは……そうか」


 文面を確認した司はスマートフォンを返して、七笑の顔をじっと見つめてきた。


「たしかに俺が、小山内さんに送ったメールだ。間違いない」

「じゃあ、どういうことですか? この小山内って人が、あたしを襲ったってことですか?」


 七笑も真剣な顔で訊き返す。司自身の口から、きちんと事情を説明して欲しかった。


「そうだな。どこから話すか……」


 ほんの一、二秒だけ顎に手を当てた司は、「まずは俺が犯人ではないということを、あらためて説明させてくれ」と言った。


「あ、はい。でも、そこは大丈夫です。だって犯人は、あたしと同じぐらい小柄だったことを思い出しましたから。ちょうど、同じ高さで目が合ったんです」


 加えて思う。


「ていうか、司さんみたいに目力が強くなかったですし」


 口にしたことで、ますます昨夜の情景が思い出されてきた。


 そう。視線の高さだけでなく、犯人の目は今こうして見つめている目とはまったくの別物だった。形自体もだが、何より発する光や存在感、まさに「目力」とでも呼ぶべきものが司とは比ぶるべくもなかった。だからこそ、この鋭い目に慣れているからこそ、七笑も睨みつけることができたのだ。


「なるほど。集中すると目が怖くなるとは、たしかに言われるな。ああ、ひょっとして今もか? すまない」

「いえ。あたしは平気です。そういう真剣な目、好きですし」


 言ってしまってから、七笑はあたふたと付け加えた。


「えっと、あの、あたしもアスリートですから!」


 言い訳になっていないような気もしたが、司もそれ以上つっこんではこなかった。というか、彼の意識は他の部分に向いているようだ。


「君と同じぐらい小柄な人間、か。やはりな」


 つぶやいてから、いったん外した視線をすぐに七笑の顔へと戻す。


「身長もだが、そこにあるメールには《次は男性で》とあるだろう? まあ、書いたのは俺なんだが」

「あ!」


 言われて七笑は、思い出した。あらためて例のPDFファイルを確認する。たしかにメール文の一部には、こう記されていた。


《――今回及び前回は若い女性でしたが、次は男性で考えています。》


「だが襲われたのは、君だ。この一点だけでも、俺が送ったメールと矛盾している」

「たしかに。じゃあ、一体どういうことです? そもそも司さんは結局、何者なんですか?」


 七笑らしいストレートな質問に苦笑するとともに、司は真剣な目のまま答えてくれた。


「安心してくれ。俺は本当に君の味方だ。犯人でも、もちろん仲間でもない」

「あたしを襲ったのはやっぱり、ここにある小山内って人ですか?」

「おそらくは、な。小山内さん、いや、小山内公平こうへいの身長は小柄で、百六十センチもなかったはずだ」

「小山内さんって、司さん、あの男とどういう関係なんです?」

「うん。恥ずかしい話だが――」


 司の顔が一瞬、ギュッとしかめられた。


「彼、小山内公平はうちの出版部長なんだ」

「えっ!」

「小山内公平は、マガジン・スタンダード社の出版部長を務めている。うちはアスリートの自叙伝や、スポーツ医学の専門書も自社出版していてね」

「……」

「ついでに言えば、俺の元上司でもある。数年前まで彼は、ITモードの編集長だった」

「じゃあ……」

「ああ。君が見たメールはすべて、通常の業務メールだ。おたがいに部署が変わったとはいえ、昔のよしみで最近ちょっと頼まれごとをしていたんだ。裏があるというか、何を考えてるかわからないところがあるから、個人的には好きじゃない人物なんだが」

「頼まれごと?」

「英語やフランス語で書かれたスポーツ医学論文を、いくつか訳して欲しいと頼まれていた。自分のアリーにも助けてもらいつつ、俺はその作業をちょくちょくやってたんだ」

「なるほど」


 ようやく七笑は、納得することができた。メールにあった《若い女性》だの《高齢者》だのというのは、実験の被験者や調査対象者のことだろう。


「紛らわしくて、悪かった」

「あ、いえ。あたしも早とちりしちゃって。ごめんなさい」


 お互い同時に頭を下げたので、二人して笑ってしまいそうになる。だが司は、すぐに表情を引き締めた。


「君を襲ったのは、小山内で間違いないと思う。ただ、そのマイクロSDだけだと証拠としては弱い気もする。残念ながら、今回もマスクと覆面姿だったんだろう?」

「はい」

「もちろんそれでも警察には届けるが、先に確認したいことがある」

「もっと確実な証拠になりそうなこと、ですか?」

「察しが良くて助かる。そういうことだ」


 頷いた司は、「鈴野さん」とあらためて七笑を見つめてきた。


「今日、このあとの予定は?」

「え?」

「大学の授業や練習は、あるのか?」

「いえ、今日は丸々オフです」


 予定はないですけど、と昨日アリーに言ったのと同じ台詞が出そうになったが、なんとか飲み込んだ。


「なら、ちょうどいい。悪いが、ちょっとつき合ってくれ」

「え? どこにですか?」

「病院だ」


 聞き間違えたのかと思った七笑が、ぱちぱちと瞬きを繰り返していると司はもう一度、子どもに言い聞かせるような声で告げてきた。


「病院へ行こう。整形外科で、念のため脚のMRI検査を受けて欲しい」

「いや、だってあたし無事ですよ? たしかに襲われましたけど、小山内を返り討ちにしたんですってば」

「返り討ち?」

「あ、いえ、とにかく無事ですってば! ほら、擦り傷一つないですし!」


 さすがに、自慢のジャンプ力で三角蹴りをしたというのは黙っておくことにした。ますます心配されそうだし、それ以前に女子として恥ずかしい。

 だが司は、「違うんだ」と譲らなかった。


「たしかに行くのはスポーツ整形外科だが、目的は怪我や病気の確認じゃない。ああ、ちなみに医者は俺の大学時代の友人だから安心してくれ」


 強い目が、こちらを捉えて離さない。


「頼む」

「……わ、わかりました」


 ふたたび顔が熱くなったように感じながら、七笑は素直に頷いた。この目力と同様、司の頭の回転が速いことも、今やじゅうぶん理解している。きっと何か、考えがあるのだろう。


「ありがとう」


 微笑んだ司が、優しくなった目の光とともに言った。


「俺は、ALLについて調べていたんだ」

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