翌朝。

 昨日の練習後にアリーも確認してくれたように、この日はオフで予定もなかったが、七笑はしっかりと七時には目を覚ましていた。体操選手時代からずっと朝練を続けているので、早起きする習慣が身についているのだ。


 シャワーを浴び、パーカーとジーンズに着替えてからALLアプリを立ち上げる。


《おはようございます、七笑さん》

「おはよう、アリー」

《ご気分は、いかがですか?》

「うん、すごく落ち着いてる。アリーの言うとおりにして良かったよ」

《いえ、私は外から見た印象をお伝えしただけです。いずれにせよ、七笑さんがお元気ならばそれが一番です》

「ありがとう。あ、ゴミ出さなくちゃ。またあとでね」

《はい》


 笑顔で返した七笑は、玄関にまとめてあった不燃物のゴミ袋を持ってドアを開けた。二月の朝は寒い。吐いた息が真っ白になって、外廊下に溶けていく。


 ゴミ袋をぶら下げ、廊下の端にある階段へと向かう。三階建てのマンションの一番奥、三〇八号室に七笑は住んでいる。決して新しくはない建物だが、女性専用物件ということもあり、廊下や階段が小奇麗なところや、ささやかながらオートロックつきのメインエントランスも設置されている部分がお気に入りだ。


 一階に下りて、そのメインエントランスの扉を開けた瞬間。


「きゃあっ!」


 口から、小さな悲鳴が上がった。


「ん? ああ、やっと出てきてくれたか」

「ななな、何やってんですか!」


 扉の脇に、二度と近づくなと昨夜告げたばかりの、「見た目だけのおっさん」が小さくなって座り込んでいる。


「何って、見ればわかるだろう。君を待っていた」

「え」


 ぽかんとなった七笑は、言われてあらためて気がついた。彼――司は分厚いダウンジャケットにネックウォーマー、やはり分厚いスウェードの手袋を身に着けており、片方の手には頭に被っていたと思しき毛糸の帽子もある。完全な防寒装備だ。


「前も言いましたけど」


 一晩経って、落ち着いたからかもしれない。立ち上がった司に、七笑は思わずボケた質問をしてしまった。


「司さんて、あたしのストーカーだったんですか?」

「違う! なんでそうなるんだ!」


 すかさずつっこまれた。司の方も昨夜糾弾されたことなどなかったかのように、いつもどおりの口調である。


「まさか、一晩中ここにいたんですか?」

「ああ」

「私のことを見張るために?」

「見張るというか……いや、まあ、そうなるか」


 ばつの悪そうな答えを聞きながら、七笑は確信した。


 やっぱりこの人、敵じゃなかったんだ。


 頭一つ上でわざとらしくそっぽを向く横顔は、相変わらず黙っていればそれなりにハンサムだ。


 その「頭一つ上」こそが、何よりの証拠だった。


 昨夜、七笑は自分を襲った犯人と目を合わせた。真っ直ぐに・・・・・ほぼ水平に・・・・・

 初めて並んで歩いた、あの中華料理屋までの道筋でも感じたが、司と自分の身長差はおそらく二十センチ以上はあるのだ。彼が犯人だとしたら、あんな風に同じ高さで目が合うことはあり得ない。


 自然と顔がほころんでくる。


「そっか。見張るっていうか、むしろあたしを見守っててくれたんですね」

「まあ、そんなところだ」


 恥ずかしげに頬をかく司のリアクションに、今度はつい吹き出しそうになったが、気を取り直して素直に頭を下げる。


「ごめんなさい、司さん」

「うん?」

「昨夜のことです。詳しくお話も聞かないまま、一方的に怒っちゃって」

「ああ、いや」

「司さんは、犯人じゃないんですよね?」


 つぶらな目で顔を覗き込まれた司は、「当たり前だ」ともう一度、照れた様子で目を逸らした。


「だったら、そうだって言ってくれればいいのに。電話だってメールだってあるんだから」

「電話にまったく出なかったくせに、よく言う」

「あ、そうか。じゃあメールは?」

「どうせ、読んでくれないだろうと思った。ものすごい剣幕で怒っていたからな」


 拗ねたような顔と口調に、七笑はまたおかしくなった。


「なんか、子どもみたいですね。いいおっさんなのに」

「おっさん言うな!」


 律儀につっこんでくれるし、いつも小ばかにされるお返しができたみたいで、なんだか楽しい。そして何より、彼とこうして元通りの会話ができることが。


 すっかりご機嫌になった七笑は「ちょっと待っててくださいね」と、ぶら下げたままだったゴミ袋を、急いで敷地脇のダストボックスに入れてきた。

 小走りのままエントランスに戻り、冷たい空気で赤くなった頬とともに告げる。


「なんにせよ、寒かったでしょう? とりあえず部屋に上がってください」




 司を部屋に招き入れた七笑は「どうせあたしも、食べる予定でしたから」と自分のぶんと一緒に、トーストとコーヒーの簡単な朝食を司に出した。


 カーペットに直接置かれたクッションに座った彼は、目の前のローテーブルとベッド、テレビにパソコン、あとはカラーボックスと衣装ケースが置いてあるだけの、女子大生としてはシンプル極まりない(と、七笑自身は思っている)部屋を物めずらしそうに見渡していたが、「いただきます」とさっそくトーストに手をつけてくれた。


「ありがとう。じつは腹が減っていたんだ。助かる」

「あんなところで、一晩中張り込んでくれてたんですもんね」


 対面に座った七笑も同じものをかじってから、もう一度頭を下げる。


「本当にごめんなさい」

「いや、気にしないでくれ。俺が勝手にやったことだし」


 答えた司はコーヒーのマグカップで顔を隠すようにして、また恥ずかしそうな顔をしている。その様子を見ながら、七笑は思い出した。


「あれ? でも司さん、昨夜は車で来たんですよね?」

「ん? ああ」

「じゃあ、車で張り込んでたらよかったじゃないですか。食料とかも買い込んで」

「そうしたかったんだが、この建物は駐車場がないだろう」

「あ、そっか」

「目の前の道だって広くないし、そもそも長いこと路上駐車するわけにもいかない。幸い車には、帽子と手袋も積んであったしな」

「なるほど。じゃあ、今はミニクーパーは?」

「ちょっと歩いたところにあった、コインパーキングに停めてある」

「ふーん」


 自分の身の安全を優先して、司はそこまでしてくれたのだ。

 嬉しく思った七笑だが、ちょっぴり照れ臭くもある。さっきの彼と同じようにマグカップで顔の半分を隠しつつ、別のことを訊いてごまかした。


「でもこのマンションに住んでる他の人とか、通りませんでした?」

「二、三人出入りがあったかな。なぜか不審な目では見られなかったが」

「ああ。まあ、そうでしょうね」


 あまり自覚していないようだが、司はルックス自体は悪くない。長身でスタイルもいいし、モコモコの防寒着姿のときも小ざっぱりはしていたので、どこかの部屋を訪ねてきた身内か、ボーイフレンドだと思われたのだろう。


「…………」


 ボーイフレンド、という連想になぜか顔が熱くなってきた七笑は、気づけば唇をとがらせて、いつもように憎まれ口を叩いていた。


「だからって、ストーカーみたいな真似しないでくださいよ、もう。びっくりしたんですから」


 司の方も、若干不満げな顔になる。


「仕方ないだろう。君が電話に出てくれなかったんだから」

「インターフォン、鳴らしてくれればよかったのに」

「俺だとわかれば、どうせまたギャンギャン説教したんじゃないか?」

「う……」


 たしかに、そのとおりだろう。何も言い返せなくなってしまった七笑は、「わ、悪かったですよ」と軽く頬を膨らませた。


「だからこうして、部屋にも入れてあげたじゃないですか」

「ああ、それは本当に感謝している。ありがとう」


 表情をあらためた司は、ストレートに礼を述べてきた。しかも彼は部屋に入るとき、わざわざ「ドアを少し開けておくか?」とまで言ってくれたのである。もちろん彼のことを信用している七笑は、それをあっさりと断って逆に鍵まで閉めてみせたのだが。


 ほんと、なんていうか「残念紳士」よね。


 そんな言葉が頭に浮かび、苦笑とともにつぶやいてしまう。


「あーあ。初めてあたしの部屋に入った男の人が、司さんかあ」


 ふたたびマグカップを手にしていた司も、眉間にしわを寄せながら反応した。


「悪かったな」

「まったくですよ。お父さんだって、入れたことないのに」


 もはや完全にいつもどおりに戻った会話に、別の声が割って入ったのは、そのタイミングだった。


《七笑さん》

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