コンビニの駐車場に滑り込んできたミニクーパーを、七笑は直視できなかった。

 でも、逃げるわけにはいかない。深呼吸をして顔を上げる。そのまま大きく屈伸を二回。無意識のうちに、試技直前と同じルーティーンをしていた。


「大丈夫か?」


 運転席から急いで降りてきた彼――司健の顔を、七笑はキッと見上げた。


「!?」


 いきなり睨みつけられた司は、目を丸くしている。それが演技なのか本心なのか、七笑にはもうわからない。


「司さん」

「ど、どうした? 無事……なんだな?」

「話があります。いえ、話をさせてください」


 答えになっていない返事とともに、有無を言わさぬ勢いで七笑はスマートフォンを掲げてみせた。


「これ、どういうことですか」

「うん?」

「メールですよね」


 自分の声が震えているのがわかる。けれど、ここで辞めるわけにはいかない。


「司さんからの」

「何?」


 画面に顔を近づけた司は、今度ばかりは心底驚いた顔になった。


「なんで君が、こんなものを!?」

「さっき犯人が落としていった、マイクロSDの中に入ってました」

「え? マイクロSD?」

「他のファイルも、同じような文面でした」


 声がますます震える。けれども七笑の胸を満たすのは、恐怖ではなかった。


 悲しさだった。


「どうして、こんなことするんですか! なんであたしたちを傷つけるんですか! この小山内って人が親玉で、司さんがやってたんでしょう!? 高齢者はもういいかとか、若い女性が四つ目だとか五つ目だとか、人を物みたいに言いながら!」


 それでも目の前の男を、「司さん」と呼んでいることに気づかないまま、七笑は糾弾し続ける。


「そんなことしといて、あたしを心配するふりなんてしてんじゃないわよ! 襲うなら正々堂々と襲いなさいよ! ついさっきやられたからって、今度は車で拉致しようってわけ!?」


 目の前の男は、ただただ困惑した顔をするだけだ。それがかすかに滲んで見える。


「仕事のふりしてあたしに近づいて、優しいメールして、住んでる場所まで聞き出して、それでどうしようってのよ! あたしが六人目のつもりだったんでしょう!? 怪我させたって、なんとも思わない女なんでしょう!? あたしはワニちゃんみたいに可愛くないって、見ればわかるじゃない!」


 鼻の奥がツンとなりながら、七笑は自分でも何を叫んでいるのか、よくわからなくなってきた。


「なのになんで、ウエイトのこと勉強しようとしてんのよ! あたしのこと、そんなに調べるのよ! ロシア語だかドイツ語だかで、かっこいいパソコン記事書いてればいいじゃない! 大統領にでも女王様にでも、勝手に表彰されてなさいよ!」 

「ちょっと待て、冷静に――」


 だが今の七笑は、冷静と言う言葉からもっともかけ離れた精神状態である。


「このばか! 裏切り者! 見た目だけのおっさん!」

「…………」


 ガラス扉の向こうから、コンビニの店員が怪訝な顔で見つめている。それに気づいた七笑は、「二度とあたしに、近づかないで!」ともう一度、真っ赤になった目で彼を睨みつけると、振り返ることもせず駆け出した。




 司を置き去りにして、マンションに帰ってきても七笑の興奮は納まらなかった。大学で一度浴びたシャワーをもう一度、それも熱めのお湯で浴びたが気持ちがまったく落ち着かない。


「サイテー……」


 部屋着に着替え、ベッドに倒れこんでもまだ胸が重い。もやもやとイライラがそこに同居していて、それこそバーベルを抱え込んでいるみたいだ。


 司健。彼は一体何者なのだろう。どうしてあんな卑劣な犯罪の片棒を、それも実行犯として担ぐような真似をしているのだろう。


「なんにせよ、最低のおっさんじゃない」


 もう一度そう口にして、寝転がったままスマートフォンを手に取ると、何件もの着信が入っていた。言うまでもなく司からだ。当然ながら、七笑にはコールバックする気もおきない。


「ていうか――」


 このまま、警察に伝えた方がいいのではないだろうか。すでに向こうの面は割れている。チェーンまでかけて戸締りもしっかりしているので、マンションを直接襲いに来るということは考えにくいが、早めに通報するに越したことはない。

 一連のアスリート&元アスリート襲撃事件の実行犯は、マガジン・スタンダード社の司健。背後にいるのは、メールに記されていた「小山内」なる人物。目的こそわからないが、彼らが事件に関わっているらしいという事実。


 でも……。


 ためらう七笑の手はいつの間にか、通話アプリでなくALLアプリを立ち上げていた。


《こんばんは、七笑さん》

「あ……」

《どうされました? 元気がないようですが》

「え、ああ、ううん。なんでもないの。ごめんね」


 アリーに見えているわけでもないのに、七笑はあわてて頭を振った。冷静さを欠いている自分に対しても、もやっとしたものを感じてしまう。

 そんな主人に、優秀なAIはさらりと問いかけてきた。


《司健さんと、喧嘩でもされましたか?》

「えっ!?」

《この二十分間で、七回も司さんからの不在着信が記録されています。七笑さんはもう練習を終えられていますし、こうして私とお話されているということは、少なくともスマートフォンを手に取ることができる状態ということですよね? にもかかわらず、彼にコールバックされていませんから》

「ええっと」


 どう説明すればいいのだろう。ALLアプリを使うようになってまだ一ヶ月も経っていないが、アリーとはすっかり仲良しで、もはや秘書というより新しい友人のように感じているほどだ。だからこそ、彼女と同様に信頼し始めていた司が例の事件の実行犯らしいとストレートに伝えるのは、なんだかためらわれた。別に自分のアリーと司との間に、面識(?)があるわけでもないのに。いずれにせよ胸が、心が、ますます重苦しい。


《七笑さん》

「は、はい」


 七笑は思わず、敬語で答えてしまった。こちらを覗き込むように動いたアリーのシルエットが、妹を諭す姉のように見えたからだ。


《明日の朝にでも、もう一度司さんと話をされることをお勧めします。ひと晩経てば、おたがい冷静になれる部分もあるでしょうし》

「え、でも」

《喧嘩の理由はわかりませんが、通話だけでなくメールのやり取りも、ここのところは司さんが一番多いお相手になっています》

「うん……」

《それだけ七笑さんにとって、身近で大切なかたなのでしょう?》

「はあ!? ち、違います!」

《ふふ、七笑さんはお気持ちがわかりやすいので、私も話していて楽しいです》

「ちょ、何言ってるのよ、もう!」


 ほんとにこの人、AIなのかしら。


 上品な仕種で口に手を当てるシルエットを軽く睨みながら、七笑はいつかと同じような感想を抱いた。口元から手を外したアリーが、ますます愉快そうな声をかける。


《心の底から司さんのことをお嫌いになっていたら、すぐにアドレス帳から連絡先を消去したり、着信拒否にするのではないですか? 現在のところ、こちらのスマートフォンではそうした処理は認められませんが》


「!!」


 指摘されて、七笑は初めて気がついた。そうだ。結局自分は、今のところ司に対してなんの手立ても打っていない。着信拒否することも警察に通報することもなく、彼の言動、より具体的に言えばマイクロSDに納められていた、あのメールの真相についてやきもきしているだけなのだ。


「だって、仕方ないじゃない……」


 何が仕方ないのか、自分でもよくわからないまま、口が勝手にそんな台詞をつぶやいた。だがアリーは、七笑の言葉には直接答えずさらに念を押してくる。


《明日、お気持ちが落ち着いてからあらためて司さんに連絡するか、少なくとも彼についてもう一度、考え直してみてはいかがでしょう》

「…………」

《だって今の七笑さん、なんだか寂しそうなお声をされてますから》


 最後のひとことを聞いて、七笑も正直に頷いた。


「うん。ありがとう」


 胸の重苦しさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

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